●丘の上の景勝地と海岸沿いの料亭街
1872年、新橋−−横浜間に日本初の鉄道が敷かれた。そして早くも76年には京浜間最初の駅として大森駅ができている。
八景園とは、実業家・久我邦太郎が八景坂上の畑や草原など1万坪を買い取って命名したものであり、50坪の大広間をもつ総萱葺きの家を建て、当時有名だった江東区の中村楼に料亭三宜楼を開業させ、皇后の来駕もあるほどだった。
1889年になると東海道線が新橋から神戸まで全通し、住宅地、別荘地としての山王の人気はますます高まった。88年には山王に会員制の小銃射撃場ができ、1924年にはテニスコートも併設された。このテニスコートは今でも残っている。
明治後半からは井上馨ら当時の政財界人の別邸ができ、山王の高級住宅地イメージができあがった。1906年には加納久宣 (子爵。鹿児島県知事)らが発起人となり社交クラブ「大森俱楽部」が創設された。加納家は将軍吉宗の側近として仕え、大名に取り立てられ、上総一宮藩主となった家柄であり、久宣の息子の久朗(ひさあきら)は千葉県知事、日本住宅公団初代総裁となった。
このように山王の地は上流階級の一種のリゾート地として栄えていった。
他方、大森の海側はどうだったか。
また大森海岸のすぐ北側は大井海岸といい(品川区南大井2丁目あたり)、やはり三業地があって、後述する「小町園」などの料亭が栄えた。
●メロン、ヨットという名の芸者たち
その他、大田区には、大森新地、穴守、蒲田新地、森ヶ崎にも二業地、三業地があってにぎわっていた。現在の大森南5丁目あたりの森ヶ崎では、1884年、干ばつに襲われたときに、水を求めて井戸を掘ると鉱泉が出た。そこで、91年に無料の公衆浴場ができ、同年に光遊館、盛平館、99年には養生館という旅館ができたのが発展の始まりである。この年、内務省衛生試験所によって鉱泉成分の分析が行われて医学上の効用が確認され、東京近郊の保養地、湯治場として人気を得た。
さらに1915年、当時の大出版社、博文館の専属の車屋・小沼金次郎が森ヶ崎に旅館「大金」を開業。
●米兵相手の慰安施設
戦後、大井海岸の料亭が歴史に残る存在になった。米軍の進駐に備え、日本政府が米兵の性欲処理のためにRAAをつくった。RAAとは、レクリエーション・アンド・アミューズメント・アソシエーションのことであり、要するに米兵を女性で慰安する組織だった。日本語では「特殊慰安施設協会」といった。特殊ということは、特殊浴場と同じで、ただの慰安ではない。性を売ったのだ。日本は江戸時代来、吉原を公的な売春施設としてきたが、戦後も国が一般女性の貞操を米兵から守るという理由でRAAをつくったのだ。その第1号が「小町園」だったのである。
RAAは広告を打った。
焼け跡で仕事も食べ物もない女性たちがどんどん集まった。女性たちは新橋にあるRAA本部で、大事業とは売春であると知らされ仰天した。だが食うためには仕方なかった。
米軍が上陸する8月27日までにRAAは1370人の女性を集めた。その9割は裸足でやってきたという。ほとんどが素人娘だった。女性たちのうちまず50人が小町園に送り込まれた。小町園の前には朝からすでに米兵のジープが行列をなしていた。
開店すると、米兵たちが土足のまま障子やふすまを蹴破ってドッと上がり込んできた。米兵の巨体に驚いた女性も多かった。恐怖におびえながら、女性たちは米兵の相手を無我夢中でした。午後の閉店までに、ある女性は23人の相手をしていたという(猪野健治『東京闇市興亡史』参照)。
このように、上流階級のための丘の上の景勝地と、海岸沿いの素人娘たちとの階級格差はあまりにも激しかった。料亭街のあった地域は、今は第一京浜沿いにマンションが建ち並ぶだけであり、往時のにぎわいも、女性たちの嘆きもなかったかのようである。
(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)