厚生労働省による労働時間の調査に誤りとみられる例が相次いで見つかったことに関連して、安倍晋三首相が、今国会に提出する働き方改革関連法案から裁量労働制の対象拡大に関わる部分を削除する方針を表明しました。これに対して、日本商工会議所、経団連、経済同友会の財界3団体トップからは、日本の成長戦略が損なわれると失望や遺憾の声が相次ぎました。
私は産業医としてグローバル企業や日本企業で、10年間で1万人以上の働く人と面談をしてきました。そして、今回のニュースに対して率直に思うことは、「そもそも、裁量労働制を拡大しないと、日本の労働生産性は世界レベルに上がらないのでしょうか」ということです。
私は、労働生産性の向上のために裁量労働制よりも効果的な方法は、時間的要素を含めた結果(成果)評価制度の確立と、雇用の流動性を容認する社会文化だと考えます。
裁量労働制は、仕事の進め方や時間配分を働き手にゆだね、結果を出していれば早く帰宅の途につけるとして、主にホワイトカラー業種を対象に生産性向上への本人の意識を高められるといわれています。労働者にとっては仕事の拘束時間が減少するメリット、経営者側にとっては労働時間よりも結果に対して給与を払うことで労働コスト高を改善できるメリットがあるという、ウィンウィンの仕組みだそうです。
これに対し、産業医として私は断言します。このウィンウィン関係はあくまで机上の理論(空論?)であると。
実際に忙しい職場では、結果を出せる人=優秀な人ほど、仕事が集まってしまう傾向が少なからずあります。結果、短い時間で結果を出せる社員は、決して早く帰宅できることにはならず、空いた時間により多くの仕事が集まってきてしまいます。本人にも部署を背負っているとの自覚があることが多く、自分は早く仕事を終わらせて早く帰ろうという考えは決して持っていないことがほとんどです。
私が管理職の方々とお話ししてきた経験では、メンタルヘルス不調予備軍の部下社員たちのケアの必要性はわかっているものの、それ以上に優秀な部下社員のバーンアウトシンドローム(燃え尽き症候群)や疲労の蓄積、体調不調こそが心配という、切実な思いを持たない上司は皆無です。彼らを早く帰してあげたいが、部としての業務進行を考えると彼らに頼らずにはいられないのです。
一方、結果が出せない人=いわゆるローパフォマー(優秀でない人)は、たくさんの仕事を任されるはずもなく、結局は前述のハイパフォマー社員たちよりも早く帰っている職場も多々ありました。
これが多くの職場の現状であり、裁量労働制を導入したからといって、結果を出した優秀な社員が早く帰ることができるわけではないのです。
●「結果」による評価、評価基準に「時間」の概念を入れる
このような現状を踏まえ、労働生産性向上のために裁量労働制よりも必要なことは、3つあると考えます。
1つめは、労働者を「結果」により評価することを徹底することです。結果評価を徹底していれば、裁量労働制はまったく必要がないでしょう。私のクライアント企業でも、結果を出していて、そこがしっかり評価されている人は、残業せずに帰ろうが、有給休暇を目いっぱい取ろうが、それにより文句を言われたり、雇用の危険にさらされることはありません。むしろ、自分の時間の裁量権を持つことを大切と考えているからこそ、結果をしっかり出そうと効率的に働いているとすら感じます。
2つめは、評価基準に「時間」の概念を入れることです。海外企業に比べ日本企業には“滞在していること”を評価してしまう価値観がまだ残ります。結果(成果)主義が声高に叫ばれるなか、結果を出すために時間を投資する(残業を多くする)人たちもいますし、反対に結果が出ないからこそ不安があり、会社に“いる”ことで“やる気”を示そうとしてしまう人たちもいます。長時間労働の是正や柔軟な働き方を求める権利は、実際は、働く人の持つ数多くの不安の前に実行できていないのが現状なのです。
●雇用の流動性こそ重要
3つめは、「結果」を出せない社員には、ほかのチャンスをどんどん与えることです。
人手不足で空前の売り手市場とも形容される昨今の就職環境ですが、実際に働く人たちのなかでは、転職に伴う不安や評判を気にして、一歩が踏み出せない人たちがたくさんいます。自らのキャリアを考えての転職であれば、それは決してネガティブなものではなくポジティブなものであると思える社会風潮があれば、同じ会社に固執せずに新たな環境で花開くことのできる人たちは多いのではないかと思います。
外国では雇用の流動性が日本よりもありますので、転職に対するハードルは日本よりは低いと聞きます。景気の波に応じて雇用者の人数が増減することは、いいこととは言い切れはしませんが、みな慣れたものです。裁量労働制が普及したからといって、生産性が向上するとは限りません。競争力、効率化のために必要なことは、裁量労働制ではなく、「時間的要素を含めた結果」による評価です。
そして、雇用の流動性こそは日本の労働生産性向上実現のための解決策につながる基礎的な部分になるでしょうが、それには時間がかかるでしょう。
現在進行中の「裁量労働制の対象拡大」の議論は、業務の効率化や合理化、時間的要素を含めての結果(成果)評価などに踏み切れない日本企業の負の文化を、裁量労働制と称してかたちを変えることで、目新しく対策した気になるだけのような気がしてしまうのは私だけでしょうか。
残念なことに、どこの会社にもありそうで、解決できなそうなこの問題は、やがて「解決不可能な問題を議論しても意味がない」としてうやむやになり、裁量労働制の対象拡大が導入できてもできなくても、結果は何も変わらないという予感が漂ってしまっています。
(文=武神健之/医師、一般社団法人日本ストレスチェック協会代表理事)