--「現象の裏にある本質を描く」をモットーに、「企業経営」「ビジネス現場とヒト」をテーマにした企画や著作も多数ある経済ジャーナリスト・経営コンサルタントの高井尚之氏が、経営側だけでなく、商品の製作現場レベルの視点を織り交ぜて人気商品の裏側を解説する。--
東京・四谷三丁目の古いビルの地下に「居酒屋あぶさん」という店がある。
この店は “野球居酒屋”として有名だが、個人店(個人経営の店)で店舗も1店のみ。開業当時と基本路線は変わらない。多くの飲食店は、時代に合わせて、業態や店内イメージを変えたりして生き残りを図るが、ほとんど変えることなく、競争の激しい新宿区という立地で、人気を維持してきた。
なぜ、それができたのか。店主は「無我夢中でやってきた」と言うが、ビジネス視点でみても人気店の要素を満たしている。店の横顔を紹介しながら考えてみたい。
●「野球居酒屋」としてのキャラ立ち
以前も本連載で紹介したが、筆者は「飲食店」の機能は大きく次の2つに分かれると考えている。これを基に同店の特徴を見てみよう。
(1)「基本性能」=飲食の味、場所の提供
(2)「付加価値」=その店ならではの独自性
「居酒屋あぶさん」の強みは、“野球居酒屋”としてのキャラの濃さ(=圧倒的な付加価値)だ。
店内には野球関連グッズも多い。往年の名選手のサイン入りユニフォームやバット、グローブ、ヘルメット、写真入りの色紙などがずらりと置かれている。ガラステーブルの中にはボールや手袋もある。球団名はさまざまで、作中で景浦選手が“活躍”した、南海ホークス、福岡ダイエーホークス、福岡ソフトバンクホークスのファンだけでなく、プロ野球ファンなら誰でも楽しめる演出だ。
飲食メニューの味は、筆者や仕事仲間の間では好評だが、飲食店の評価サイトを見ると「よくある居酒屋メニュー」という声も目立つ。唐揚げ、焼きうどん、シーフードピザなど、ビールに合うメニューが多い。もちろん、玉子焼き、枝豆といった定番メニューもある。ガツンと飲食したい人に向く店だ。
●野球ネタを肴に「語る」店
「場所の提供」としての世界観も、この店の強みだろう。特に地方在住の野球ファンは、東京出張の際に必ず立ち寄るという人も多い。
もともと居酒屋という業種の特徴だが、お客はあちこちで談笑する。ただし、店の性格上、圧倒的に多いのが野球ネタだ。試合のある日はテレビ放送があり、試合のない日も、過去の名試合や名場面のビデオが流れる。それを見ながら一喜一憂するお客も目立つ。
取材日に、たまたまお客として来ていた田中将之氏(岩手県出身で都内在住/グラフィックデザイナー)に話を聞いた。
「千葉ロッテマリーンズファンの私にも、とても居心地のよい店です。面識のない人でも野球を通じて親しくなれ、ひいきチームが違っても関係ない。仕事が落ち着くと通っています」
楽しみ方はそれぞれなので、何を会話しても自由だが、年齢や世代、性別を超えた共通言語は、やはり「野球ネタ」だ。「自分でやるスポーツ」としては、急速に競技人口が減っている野球だが、この店は野球関連を肴に「語る」人が多数集まる。ちなみに、サッカー日本代表の重要な試合日であっても、店内のテレビは野球の中継か、野球のビデオが流れている。
●店主は各座席を回り、交流する
だが、これだけでは30年も客足が途絶えない理由とはならない。筆者は次の3点がポイントだと考えている。
(1)お高くとまらず、「気軽な居酒屋」であり続ける
(2)チームは関係なく、プロ野球から草野球まで「全方位外交」
(3)店主が各座席を回り、交流に努める
それぞれ簡単に説明しよう。(1)は、シーズンオフには有名野球選手も訪れるが、特別扱いはしない。ふと気づくと、すぐそばに選手がいることもあり、毎年、プライベートの飲み会をここで開催する有名選手もいる。お客も心得たもので、基本的には立ち入らない。
(2)は、店名とは裏腹に、オーナーの石井氏は巨人ファン、正確には長嶋茂雄氏のファンだ。そして江川卓元投手のファンでもある。開業日の「30日」は、当時現役だった江川氏の背番号にちなんだ。また、オリックス・バファローズの福良淳一監督は、石井氏の母校(宮崎県立延岡工業高校)の後輩であり、福良氏の所属する球団をずっと応援する。ただし、それはそれとして、野球好きであればウェルカム。どのチームのファンであっても、店で肩身の狭い思いをすることはない。
(3)は、春季キャンプ地訪問など特別な事情がない限り、店主は毎日、店にいる。そして各座席を回り、挨拶に努める。これは昔も今も変わらない。野球の話であれば、MLB(米大リーグ)、NPB(日本プロ野球)から大学野球、高校野球、草野球まで、なんでも語れる店主に会うために、お客が顔を出すことも多いようだ。
●つながりを大切にした結果、紹介客が多い
前述した「あぶさん」の店名の由来だが、これは水島氏の懐の深さによる。
「もともと水島先生の草野球チーム『ボッツ』に入ったのがきっかけです。この店を出す前、私は近くにある焼肉店『羅生門』の店長として働いていました。そこのお客さんがボッツのメンバーで、『メンバーが足りないから入ってよ』と言われたのが最初で、もう40年近く前です。野球好きにとって、水島先生と一緒にプレーができるのは夢のような話です。それから何年かして、独立して店を開業しようと思い、先生に『“あぶさん”の名前を使っていいですかと』聞いたら、『がんばれよ』と許可してくださったのです」(石井氏)
それだけでなく、開業日には水島氏が江川投手を連れてきてくれたという。かつて「ボッツ」は草野球界の強豪として名をはせた。石井氏の若き時代、もうひとつの強豪だった「たけし軍団」とも頻繁に試合を行い、北野武氏(ビートたけし)の知己を得たのも大きい。
「たけしさんは、店の開業当時にテレビやラジオで店名を宣伝してくれました。そのおかげで野球ファンが来てくださるようになり、会社員なら同僚や取引先を連れてきたりして、お客さんの輪が広がっていったのです」(同)
いわば“人脈居酒屋”ともいえよう。開店後10年余りは、近くにフジテレビ本社もあった。今でも広告関係や写真事務所などが多い場所柄、メディア関係者のお客も目立つ。
居酒屋なので、アルコールメニューの裏話も紹介しよう。生ビールはサッポロだが、瓶ビールは、サッポロ、アサヒ、キリン、サントリーを置き、缶ビールでオリオンビールを置く。つまり国内の主要野球場のビールも味わえるのだ。日本酒や焼酎に宮崎銘柄が目立つのは、店主の出身地ゆえだ。
毎日変わらず、野球談議を肴にお客が集まり、時に店主が話の輪に加わる。料理メニューはしっかりつくる。いわば「凡事徹底」の精神が、この店を30年続く人気店にしたのだろう。
(文=高井尚之/経済ジャーナリスト・経営コンサルタント)
高井 尚之(たかい・なおゆき/経済ジャーナリスト・経営コンサルタント)
1962年生まれ。