品川エリアは近年急速に発展した地域のひとつだろう。東京、いや日本の玄関口として空路や鉄路の整備も進み、今では日本経済の中心地のひとつにまで成長しつつある。
こうした品川エリアの成長には、東海道線や山手線などが発着する品川駅を中心とした鉄道の歴史が大きく関わっている。
1872年6月12日(明治5年5月7日)、品川駅が開業した。2018年からさかのぼること146年前の初夏に開業したことになる。日本初の鉄道として知られる新橋~横浜(現・桜木町)間の開業は、1872年10月14日(明治5年9月12日)。現在の「鉄道の日」もこれにちなんで設定されているが、じつは品川駅はそれより4カ月ほど早く開業しているのだ。
新橋~横浜間の鉄道は、明治政府の樹立後、重要事業のひとつとして政府の肝いりで始まった。ルートは両区間を効率的に結ぶと共に東海道の宿場町として栄えていた品川・川崎・神奈川などへの連絡もはかれるものとして定められたが、新橋~品川間では海となっていたところに築堤をつくり、ここに線路を敷くことになった。その工事中、積み上げた石が波浪で崩れるなどのトラブルもあり、竣工が遅れてしまった。そのため、先に完成していた品川~横浜間で仮開業することになった。
かくして品川駅は、新橋駅よりも早く開業した「日本初の駅」となったのである。ちなみに品川駅と同時に開業したのは横浜駅だけで、この時代から中間駅として設置された川崎・神奈川(東神奈川~横浜間に設置。
品川駅高輪口(西口)広場の一角には、こうした品川駅の歴史を記した「品川駅創業記念碑」が建っている。ここに刻まれた日付は当時使用されていた太陰太陽暦による「明治5年5月7日」だ。石碑の裏面には当時の運行状況も示されているが、朝夕1往復の2往復。横浜駅までの所要時間は35分となっている。
別の資料によると翌日から1日6往復と増発、さらに8月からは8往復となった。また、8月15日(明治5年7月12日)には明治天皇が横浜駅から品川駅まで御乗車されている。西国巡幸からの帰路、波浪が高く品川沖に着艦できず臨時の措置だったというが、これが明治天皇の初乗車でもあった。
当時の品川駅は東京湾に面した海沿いにあった。駅舎は現在の高輪口側にあり、線路の向こうはすぐ海だったのである。
●広大な鉄道用地へ
品川駅の姿が大きく変わるのは明治晩年からだった。1889年(明治22年)には東海道線が新橋~神戸間で全通、また、山手線の前身となる品川~赤羽間の鉄道も1885年(明治18年)に開通している。
鉄道は物流の面でも大きな役割を果たしているが、当時は貨車を出発地から目的地に届ける方式だった。そのため、途中の拠点駅では貨車を目的地別に仕分ける作業が欠かせない。品川駅では当初、駅施設を拡張しながらこの作業をこなしていたが、鉄道網の延伸と共に扱い量が増え、処理しきれなくなってしまった。
そこでこの作業を効率的に行う操車場を設置することになり、明治晩年から品川~田町間の線路に面した海上約26ヘクタールの埋立てを開始した。新たに誕生した広大な用地には、貨車の仕分け作業を行う操車場を設置、さらに客車や貨車の留置施設も設けた。この大拡張工事は1916年(大正5年)までに順次竣工、合わせて駅施設の整備なども行われている。
しかし、輸送需要は予想を超えて増加し、大正末期には新たな施策が必要となった。当時、東海道線をはじめ全国をネットワークするかたちで運営していた国鉄では、東京・大阪などの大都市を中心に旅客と貨物の分離を行うことで対応することになった。品川の場合、新鶴見に新たな貨物専用操車場を設けて貨物仕分け機能を移設、当地は旅客関連の車両を扱う基地に特化することになった。
1929年(昭和4年)には新鶴見操車場が完成、以後、品川~田町間の鉄道用地は電車・客車・機関車など旅客関連の車両基地として推移していくことになる。
なお、この新鶴見操車場建設時、この操車場と品川駅などを結ぶルートとして建設されたのが、通称「品鶴線」だ。
品川駅6番線ホームに降りる階段わきに、電車の形を模した郵便ポストがあるが、そのわきに品川駅が品鶴線の拠点であることを示す0キロポストのモニュメントも立っている。なお、郵便ポストのモデルとなった電車は、かつて東海道線などで活躍していた郵便荷物電車だ。「湘南色」とも呼ばれるオレンジとグリーンのツートンカラーでよく雰囲気を出している。
●「一等地」の再開発
こうして品川駅周辺は、車両基地などに使用される広大な鉄道用地を擁することになった。しかし、鉄道運行の効率化によって鉄道用地の一部が余剰となってきた。それは駅に隣接した一等地であり、これを活用する再開発が始まったのだ。
現在、品川駅東側に隣接して「品川インターシティ」の高層ビル街が連なっているが、これはかつての鉄道用地を再開発してつくられたものだ。
品川の貨車操車場は新鶴見に移行したが、品川駅発着の貨物取り扱いは国鉄晩年の1980年(昭和55年)まで続いた。その業務は品川駅東側で行われていたが、貨物営業終了でここが余剰地となったのだ。国鉄民営化後の1990年(平成2年)から「品川駅東口地区再開発」として事業が進められ、1992年(平成4年)には都市計画決定、大半が1998年(平成10年)までに竣工している。
これは国鉄晩年の貨物輸送再編によって実現した再開発だったが、新たに品川~田町間にある車両基地を再編することで新たな再開発も始まっている。
●日本の成長を牽引する拠点へ変貌
こうして生み出された用地は約13ヘクタールとなった。明治~大正期の埋立てによってつくられた用地の約半分に当たるものだ。ここで行われる再開発事業は「グローバル ゲートウェイ 品川」として世界中の企業や人材が集う街づくりをめざすものだ。東京都も「品川駅・田町駅周辺まちづくりガイドライン2014」を策定、大手町・丸の内・有楽町に並ぶ拠点とする構想を打ち立て、「これからの日本の成長を牽引する拠点」として期待が集まっている。
品川駅に隣接した場所とはいっても、品川~田町間の距離は2.2キロ。じつは山手線でもっとも駅間のある場所だ。再開発エリアの中心に新しい街の玄関口として新駅を設置する工事も始まっている。現在、用地の中央で巨大な構造物が姿を現しつつあるが、これが新駅だ。ちなみに新駅は東京オリンピックの開催される2020年に暫定開業され、街づくりを加速させる狙いだ。
じつはこの事業で“品川名物”がひとつ消えそうだ。それは車両基地の東西を結ぶ「高輪橋架道橋」である。架道橋の名の通り、山手線や東海道線などの下をくぐり抜けるものだ。ちょうど車両基地を横断する形で、全長は230mもあるが、高さはなんと1.5mしかない。背の高い人なら屈まないと歩けない高さ、タクシーの表示灯が天井に当たって壊れたという話も多い。掘り下げて高さを確保しろという要望も多かったが、ここはかつて水路となっていたものを改修して設置された通路で、通路下には下水の本管が通じている。これ以上の掘り下げができず、今日まで推移してきたのである。
ちなみに再開発事業では「第二東西連絡道路」として高さ約4.5mを確保した2車線の道路になる予定だ。
こうして大きく変貌しつつある品川駅界隈。どのような街に進化していくのか、期待しながら見守っていきたい。
(文=松本典久/鉄道ジャーナリスト)