12月も2週間が過ぎました。年末の風物詩といえば、皆さんは何を思い浮かべられるでしょうか。

忘年会、クリスマス商戦、師走の大忙し、いろいろとありますが、芸術文化を一手に担っているのは、『第九』です。

 この12月の『第九』公演スケジュールをざっと調べてみたところ、たとえば、東京のサントリーホールでは9回、大阪のザ・シンフォニーホールでは6回も演奏されるようです。日本にあるすべてのプロ・オーケストラが12月には『第九』を、一度のみならず、何度も何度も演奏するといったほうがわかりやすいでしょうか。

『第九』という言葉は、今では俳句の季語にもなっていますが、正式な名前は、『ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲、交響曲第9番ニ短調 作品番号125』というそっけのない名前です。これを、我々は『第九』と簡単に呼んでいるわけです。ちなみに、「歓喜に寄す」とタイトルをつけたのは、後年の人々であり、ベートーヴェン自身ではありませんでした。

 しかし、「交響曲第9番」というシンプルな名前だけでは、ソリストや合唱団が最終楽章から参加し、今日でも破格な規模の交響曲とは想像しようがありません。ちなみに、よく知られている「歓喜に寄す」や「合唱付き」とのタイトルをつけたのは後年の人々であり、ベートーヴェン自身ではありませんでした。ベートーヴェンは交響曲第3番『英雄』、第6番『田園』等、自分でタイトルをつけることがあったにもかかわらず、『第九』のように、これまでの交響曲の枠を外れメッセージ性の強い作品にどうしてつけなかったのか、不思議に思います。

●ベートーヴェンが『第九』にタイトルをつけなかった理由

 僕は、ベートーヴェンはあえてタイトルをつけなかったのだと思います。実は、『第九』には、強い政治的メッセージが含まれているどころか、堂々と表現されており、それは一歩間違えれば、初演当時のウィーンの政治体制の中では、危険思想と捉えられかねなかったのです。

 まずは、当時の社会情勢を考える必要があります。
18世紀までの王侯貴族社会体制に突然起こった、1776年のアメリカの独立、そして、1789年のフランス革命は大きな出来事でした。双方ともに、一般民衆による国家という共和制の樹立ではありますが、特にフランス革命では、一般民衆が王侯貴族をギロチン台に送り、ついには皇帝ルイ16世まで処刑してしまいました。そして、その後の平民出身のナポレオン・ボナパルトの大活躍は、ヨーロッパ諸国の貴族社会を震撼させました。

 その後、1815年にナポレオンが完全に失脚し、ヨーロッパ諸国の王侯貴族によるウイーン会議での議決により、ヨーロッパでは君主制によるウィーン体制が始まるのです。つまりは時計の針を戻したのです。しかし時間の流れは止められず、その後、この体制も揺らぎ始めていくのです。このように、ヨーロッパの貴族社会が一般民衆の動向を恐れ、自由主義・国民主義を弾圧していた時期でもある1824年に『第九』は初演されたのです。

●『第九』に込められたメッセージ

 さて、作曲家というのは、その作品の中に“わかる人にはわかる”ようなメッセージを入れ込むことがあります。そんな話は、別の機会にゆっくりと紹介しますが、特にベートーヴェンは、政治的なメッセージを入れることがよくある作曲家です。それでも、音楽だけであれば意図を言葉で明文化しているわけではなく、政治警察もその証拠を明解にはできないので、捕まえることもできません。しかし、『第九』の大きな特徴は、最終楽章にソリスト歌手と合唱団が参加する点にあります。つまり、言葉である歌詞があるのです。
ここがベートーヴェンにとっては大きなリスクとなります。

『第九』の歌詞は、ドイツの思想家・シラーがアメリカ独立の前年、1785年に発表した「自由賛歌」が基になっています。この時代の“自由”というのは、一般民衆が王侯貴族体制から解放されるという、当時の国家体制にとっては危険な言葉であることをまずは理解する必要があります。実際に、フランス革命の前には、現フランス国歌である革命歌「ラ・マルセイエーズ」のメロディーに乗せて、シラーの「自由賛歌」が、ドイツの革命思想を持った学生たちに歌われていました。

 そのため、シラーがそんな歌詞をそのまま出版したら、ドイツでは危険思想として出版禁止となるのは当然として、シラーの身も危うくなったかもしれません。そんなこともあり、シラーは『歓喜に寄す』とタイトルを変え、詩を改訂し、出版したという“曰く付き”の作品なのです。この詩に当時15歳だったベートーヴェンが深く感動し、終生これに音楽をつけたいと願い、死の3年前になって作曲したのが『第九』なのです。

 当時の知識階級の人たちにとっては、シラーが意図する“歓喜”というのは、すなわち“自由”の意味であることは明らかでした。しかも、シラーが“自由”の代わりとして“歓喜”という言葉を選んだことも、「自由とは、すなわち歓喜すべきことである」と理解されたのだと思います。そんな政治的な詩を『第九』のなかで使用するのみならず、ベートーヴェンはそれ以上にはっきりとした政治的メッセージを、自身の作詞により加えています。それは、最初にバス歌手が歌う歌詞です。

「おお友よ、このような音ではない!
我々はもっと心地よい
もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか」

“このような音”とは、「これまでの音(音楽)=貴族社会」を意味します。
これを否定し、「歓喜=自由」を謳歌しようではないか、という意味が込められていると思いながら、僕は指揮をしてきました。

 それからバス歌手は、シラーの詩を歌い出すのですが、最初が変わっています。「歓喜!」と一言呼びかけると、合唱団が「歓喜!」と答えます。まるで、デモのシュプレヒコールのようです。もし、当時のウィーンの広場で同じことを叫んだら、すぐに政治警察が飛んで来たに違いありません。そして、もう一度同じ叫び合いをしてから、バス歌手はメロディーを歌い始め、「歓喜よ、美しい神の炎よ!」と自由を賛美するのです。ここだけ見ても、ベートーヴェンは確信的であることがわかります。

 さて、初演は大成功を収め、観客は大騒ぎします。自由・国民主義を抑圧してきた悪名高きメッテルニヒ体制下でも、もう群衆の勢いは止められなかったのだと思います。そしてもちろん、ベートーヴェンの素晴らしい音楽が、すべてを凌駕していたのは言うまでもありません。残念ながら、音楽家としては致命的な難聴に侵されていたベートーヴェンには、群衆の熱狂的な拍手の音も聞こえず、コンサートマスターに促され、やっと客席を向いて、その大成功を知ったと伝えられていますが、公共の場でもあるコンサート会場で、こんな大それた交響曲を発表したわけで、民衆の反応を確かめるのに、少々の躊躇があったのかもしれません。

 僕は、ベートーヴェン交響曲第9番の合唱稽古の際に、必ず合唱団に話す曲中の歌詞があります。
それは「Alle Menschen werden Brüder(すべての人々が兄弟となる)」という一節です。シラーの1785年初稿では、「物乞いらは君主らの兄弟となる」という、もっと切り込んだもので、それこそベートーヴェンが青年時代に読んで感動した文だったのですが、この“兄弟”というのは、“仲間”という意味です。つまり、貴族であっても、平民であっても、物乞いであっても、みんな同じ。国籍、年齢、性別、肌の色、宗教すべてを乗り越えて、全世界の人たちが仲間になろうという、強いメッセージです。これを年末に歌いあげる日本という国は、なんと素晴らしいのだろうと、僕は思います。
(文=篠崎靖男/指揮者)

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