『日本国紀』(百田尚樹/幻冬舎)は、歴史書として空前のベストセラーといわれているので、今後、日本人の歴史観にも大きな影響を与えるだろう。私も読んでみたが、戦後史観で育って来た人に、その歪みから覚醒するきっかけを与えるには良い本だと思う。



 一方、百田氏が、タレントのケント・ギルバート氏から「アメリカでは子供たちにアメリカ人であることを誇りに思えるような歴史を教える」と聞いて、日本人にも日本を好きになってもらうことを主眼にしたというだけあって、客観性はやや稀薄だ。日本人の弱点についても書いてあるが、それは「国際政治という謀略の世界では、赤子のように振る舞ったり、扱われてしまったりと、読んでいてつらくなる箇所が随所に見られます」という側面に、ほぼ限定されている。

 近現代史については、明白な保守派の立場から書いているため、世界各国からの理解を得られそうもない歴史認識も見られる。それほど極端ではないが、日本の立場や行為を擁護し、戦争の原因についても戦後処理についても、アメリカへの厳しい立場が目立つ。ただ、戦争の敗因については、日本の稚拙さへの批判が随所に見られる。

 これは、いわゆる「修正主義」である。安倍晋三首相が、慎重に、そう呼ばれないように同調を避けている考え方そのものだ。

 ただ、幕末より前の歴史については、ものすごく保守派的で中国や韓国に厳しいのかと思ったら、意外に戦後史観に近い穏健なラインなので、ある意味で拍子抜けした。近現代以前の歴史については、戦後史観やこれまでの歴史学会の常識的なライン(最近の傾向とはまた少し違うものだが)をそれほど外れずに、穏健保守派的な立場から、修正なり疑問を投げかけているというのが基本だ。

 また、愛国的な百田氏のことであるから、全般的に日本の文化、国民性などについては、肯定的で強い愛着を見せており、「どの時代がよろしくなかった/良かった」といった強いメリハリは感じない。

 一方、作家らしく、面白い裏読みが大胆に採用されている。井沢元彦氏の『逆説の日本史』(小学館)に影響されたところが大きいようにみえる。
私などは、極めてしっかりした根拠のない裏読みを重視するのは陰謀史観的で嫌だし、せいぜい可能性として紹介する程度にとどめる。だが、百田氏は作家だから、直感的に「なるほど」と思えば採用されているようだ。このあたりは趣味と立場の違いといえる。

 ただ、これはどうかと思うのは、首尾一貫していないというか、明らかな矛盾も多く見られることだ。監修者たちの助言にしても、体系的に検討するのではなく、直感的に取捨選択したのかもしれない。

 特に古代史については、応神天皇が熊襲だとか、継体天皇で皇統が入れ替わっている可能性が強いといった万世一系の否定、統一国家成立時期を戦後史観の学者よりさらに遅く見ているなどの点は、どうしてそういうことになるのか少し理解しにくいところがある。

 そういう意味で、これは歴史小説としてならいいが、通史としては体を成していないともいえる。

●“百田史観”は日本人の満足重視、“八幡史観”は国益重視

 一方、私が書く歴史は、世界に対して日本の立場を最大限に理解してもらい、国益を追求するためのものだ。特に、「最強シリーズ」(『日本と世界がわかる 最強の日本史』『世界と日本がわかる 最強の世界史』『韓国と日本がわかる最強の韓国史』『中国と日本がわかる最強の中国史』<いずれも扶桑社〕>)は、“世界の中で、日本国家が欧米などに対して自己主張を無理なくするにはどうすればいいか”が主たるテーマであって、反欧米色は弱い一方、中韓にはもっと厳しいし、日本国家の政治外交的利益が前面に出たものだ。「日本人なら、外国人にこう説明すべきだ」という観点から書いている。

 たとえば、中国や韓国との関係では、どうせ中国人や韓国人の賛同など得られないだろうから、欧米人など第三者の理解を得られるように、無理な正当化は避けつつ、その条件下で最大限に日本の立場を擁護しようとしている。

 そうすれば、中国人や韓国人も言いたい放題の弊害を悟り、少しは大人しくなるだろうというものである。


 もちろん、私の書く本によっては、たとえば、「フランス人はこう考えている」とか、「中国人はどうだ」ということを日本人に紹介したいとの視点のものもあるが、それも最終的な目的は、日本人が国益の増進を図り、外国に対して適正に主張していくための参考とすることだ。

 もちろん、首尾一貫性は執拗なほど確認し、十分に確保している。

●戦後史観による教科書の悲惨

 これに対して、文部科学省の定める教科書検定基準に基づいて書かれている歴史教科書では、日本政府の公式見解もきちんと教えられないし、現行憲法で世襲による天皇制を取りながら、歴代天皇についての系図や、国の成り立ちについての物語も一部の教科書においてのみ、紹介されているにとどまる。

 なにしろ、神武天皇の建国は神話としての扱いであり、実質的な建国者とみられる崇神天皇や、統一国家の樹立者である神功皇后や応神天皇など推古天皇より前の天皇は、その名さえ紹介されていない。

 かろうじて仁徳天皇の名が、その御陵について、一部の教科書で「大仙古墳(伝仁徳天皇陵)」というかたちで登場するだけだ。

 また、近現代史については、いわゆる教科書問題の結果として、1980年の鈴木善幸内閣で、宮澤喜一官房長官の談話として方針が示された。それに基づいて定められた指導要領で、「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに、国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」という条項が設けられ、それを過剰に配慮して、彼らの言い分に沿った記述がなされている。その結果、当時の日本の立場はおろか、現在の日本政府の立場すら尊重されていない。

 そういう状況だから、最初に書いたように、『日本国紀』を読めば、“左寄りを右寄りで中和させる”ことになって、ちょうどいいかもしれない。

『日本国紀』について、山口二郎法政大学教授はツイッターで、こう批評した。

「百田のほら話を読んで日本に生まれたことを感謝できる人は、よほど幸せなのだろう。一昨日、ある勉強会で保阪正康氏の話を聞いた。
戦争について調べれば調べるほど、なんでこんな愚かな指導者の下、無謀な戦いで大勢の人が非業の死を強いられたか、腹が立って仕方ないという思いを共有した」(11月21日)

それに対し百田氏は、こう反論している。

「他人の著作を『ほら話』と言うのは自由だが、いやしくも大学教授なら本を読んでから言ってるのだろうな。私も本で、愚かな指導者を批判している。それと戦争を煽った新聞も批判している。山口よ、本当に読んだのか!ところで山口にとっては、日本に生まれたことを感謝するのはいけないことなのか」(11月22日)

 確かに、戦後教育を受けた人は、日本人として主張すべきことも知らないし、国際水準において、国民として知っているべきだと常識的に考えられているような水準で日本の歴史を正しく語ることもできない。

 しかし、それでは、たとえば『日本国紀』を読んだ人が、その通り外国人に主張したりするのは、日本人は歴史修正主義者の集団かと思われて国益を毀損しそうだし、同書が翻訳されて外国人の目に触れるのも、あまり歓迎しない。

 やはり、私はもう少し常識的な、日本政府の公式見解を正しく反映し、国際的に理解を得られる説得力や客観性を担保する範囲で、自国に誇りを持ち、国益を対外的に適切に主張できるような歴史を日本人は学び、また発信すべきだと思う。
(文=八幡和郎/評論家、歴史作家)

※後編に続く

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