小保方晴子氏が「STAP細胞」をつくることに成功したと発表し、一躍脚光を浴びたのちに、実験過程や論文に不正があったなどとして、一転して理化学研究所を追われることなった騒動から、早くも5年が経過した。
今年3月に上梓された『生命科学クライシス』(白揚社)では、日本に限らず学術研究の世界に横たわる構造的問題点を指摘している。
今回、同書の著者であるリチャード・ハリス氏に、なぜ科学研究の分野で誇張や捏造が頻繁に起こるのか、話を聞いた。
●STAP騒動はなぜ起きたのか
― 翻訳のタイトルは『生命科学クライシス』ですが、元の英語のタイトルは“Rigor Mortis”ですね。これはどういう意味ですか。
リチャード・ハリス(以下、ハリス) ラテン語で「死後硬直」という医学用語です。元のタイトルはダジャレになっています。英語で“rigor”は「厳密さ」という意味です。「厳密さが死んだ」という意味とかけています。
― 英語のダジャレを日本語に翻訳するのは非常に難しいです。
ハリス もちろん、そうでしょう。日本語のタイトルで『死後硬直』としても、なんの本かまったくわからないと思います。
― さて本題に入りますが、本書の中で、生命科学研究が再現できない実験や早まった発見の公表など、問題だらけである多くのケースについて述べています。何かある特定のケースが契機となって、この本を書こうと決意したのでしょうか。
ハリス NPR(National Public Radio)の記者として報道していましたが、たまたまALS(筋萎縮性側索硬化症: 脳や末梢神経からの命令を筋肉に伝える運動ニューロン<運動神経細胞>が侵される病気で、難病のひとつに指定されている)を発症している人を取材しました。彼は薬の臨床試験に参加していましたが、その薬はまったく効きませんでした。実際のところ、今はALSを治せる薬はありません。寿命を数カ月延ばす効果のある数種類以外、この病気の治療ために試された何百という薬は、すべて効きませんでした。
この研究をしているほかの研究者は、これだけ多くの失敗の理由は、治験に至る多くの基礎研究が不十分だからだと指摘していました。ALSの例で言うと、その研究のほとんどが数匹のマウスで実験して、見込みがあると判断したら治験を行っているようです。もし基礎研究を十分に行っていれば、薬が効く可能性がないことが事前にわかっていたはずだといいます。
そのようなことをNPRで報道しているうちに、なぜ研究者はショートカットを取るのかと疑問に思い始め、執筆しようと決意しました。
― 何が問題だと思いますか。
ハリス 問題のひとつは、科学研究では、非常に人目を引く結果を出すと報われることにあります。人目を引く結果を出し、その結果を定評があるジャーナルで発表すれば、キャリアに大いにプラスになります。その人はさらに3回追加実験をして、同じ結果が出るかどうかを調べようという意欲は削がれます。もっとも注意深く研究をした人が報われるわけではないので、そもそもインセンティブが間違っているのです。世界中で起きている現象ですが、特にアメリカで顕著です。
アメリカでは、多くの研究は若い科学者によってなされます。将来のキャリアを確立するために、みんな必死です。そのなかで教授になれる人はごくわずかです。エキサイティングな研究結果を出さないとキャリアがなくなることは、みんなわかっています。
プレッシャーがかかり、モチベーションが結果をできるだけ大きく見せようとする方向に推し進められているのです。
― そのプレッシャーに負けて、科学者がときには工程をはしょったり、データをごまかしたりしてしまうこともあるのでしょうか。彼らは自分がやっていることをわかっているのでしょうか。
ハリス ときには科学者は自分がやっていることが間違っているとわかっていても、なんとかして見つからずに逃れられると思ってしまうのです。でも、ほとんどの場合は自分がやっていることがわかっていません。自分をごまかすことは簡単です。有名な物理学者であるリチャード・ファインマン氏は「科学の目的全体は、自分をごまかすことではない」と言いましたが、自分こそがもっともごまかしやすい相手です。
本書を執筆する際、非常に関心を持ったのは日本で起きた事件です。
― 小保方晴子さんのSTAP細胞のことですね。
ハリス まさにそれです。意図的な不正があったかどうか、彼女が出したデータを信じて「これは正しい」と確信した人がいたかどうか、という件です。
ですから、私の個人的な見方は、彼女は実際にそこにないのに、「STAP細胞を見た」と自分を納得させたというものです。つまり、意図的な不正ではないのではないでしょうか。誰も実際に何が起きたのはわかりませんが、この一件は不正と本当のモチベーションの境界線を引くのは、どれだけ難しいかを示しています。
●科学研究分野における構造的問題点
― がんについて話しましょう。がんについての記事はたくさん出ています。どうしても希望的観測の響きの記事が多いと思います。がんそのものを治す万能薬はありませんが、記事だけを読むと、まるで近い将来に克服できるような錯覚をしてしまうような内容も多くあります。このような記事の問題はどこにあるでしょうか。
ハリス 大学のような研究機関は「がん治療の最新の進歩。今度こそは見つかりました」というリリースをたくさん出します。
我々ジャーナリストが気をつけないといけないのは、それをそのまま受け取って記事を書いてはいけないということです。そのまま書いてしまえば、誇張した内容になってしまいます。私はできるだけ慎重に報道しますが、同僚の多くは誇張して報道しています。
― 発表された発見が時の試練に耐えるかどうか、どうやってわかるのでしょうか。
ハリス 事前にわかることはありません。実際、90%は時の試練に耐えられません。人間に試した段階で、ほとんどが無効になってしまいます。
― ノーベル賞受賞者でさえも罠にはまってしまうこともありますね。
ハリス もちろんです。
彼女は自分が発表した内容が正しいことを祈っていましたが、結果として間違っていました。でもそれは彼女の不正ではなく、まだ準備ができていなかっただけです。プレッシャーを感じて発表した後、別のラボがさらに深く調査したら、彼女の出した結論が間違っていることがわかりました。それも発表されました。すると彼女は「しくじったのは私です。でも前を見て進みます」と言いました。
これは良い科学者であることの印です。つまり、自分のアイデアに頑固にしがみつかないことです。エキサイティングな結果が出ればそれを発表し、間違っていることがわかればあっさりその間違いを認めて前進することが重要です。
しかし、間違いを認めることが研究助成金を失うことにつながるかもしれないとき、それは間違ったインセンティブになります。自分が間違っていると頭のどこかでわかっていても、なかなか認めないことはよくあることです。我々はみんな人間です。残念なことに、人間の行動が科学の世界でも展開しているのです。
― 出版にあたって、製薬会社や科学者から脅迫されませんでしたか。
ハリス 脅迫はされませんでしたが、確かに誰もが喜んでいるわけではありません。しかし、多くの科学者は、これがリアルな問題であることを認めています。実際に起きているからです。NIH(国立衛生研究所)の所長は、「この本は科学者が真剣に取り組まなければならない問題を提起している」として、私に感謝しました。
同時に、もし自分の間違いを認めれば助成金が切られると、常に懸念している科学者もいます。本書が出版されてから、アメリカでは生命科学研究の助成金が劇的に増えました。つまり、本書は助成金にマイナスの影響は与えていないということです。
― 論文を提出すると、そのジャーナルが出版される前にpeer review(査読:科学論文を出版する前に、その内容を同じ専門分野に関して権威ある研究者によって評価する制度)がありますが、もし提出した人がすでにノーベル賞を受賞していれば、かなり有利になるのではないでしょうか。
ハリス もちろんそうです。それはしょっちゅう起きていますね。著名な科学者がもっとも注目されます。しかし、本書の執筆のために、非常に有名な科学者らに取材しましたが、彼らでもその分野の定説に反する内容であれば、なかなか発表の機会を与えてもらえません。
スタンフォード大学のマーク・デイヴィスという科学者は、免疫システムについて研究していました。彼は人が免疫システムを深く誤解しているという結論に達しました。その論文をpeer reviewのメンバーが査読したとき「我々は免疫システムを誤解していると思わない」という理由で、発表を拒絶されました。もちろん、著名であればあるほど、発表の機会を得やすいことは確かです。
― 最後に、日本の読者に伝えたい、もっとも重要なメッセージはなんでしょうか。
ハリス 本書で伝えたいことは、生命科学の研究は問題がたくさんあるが、ほとんどの場合、意図的ではないということです。今やるべきことは、科学者を間違った方向に動かしてしまう、インセンティブが何かを考えて、そのインセンティブを直すことです。科学研究が効率よくできるように、そのインセンティブを修正する努力をするべきです。本書には、このプロセスを向上させる方法について考える方法が実際に書かれています。
(構成=大野和基/ジャーナリスト)