元農林水産事務次官の熊沢英昭容疑者が東京都練馬区の自宅で無職の長男を殺害した事件をめぐって、熊沢容疑者に同情する声が出ており、「他人の子供を殺す前に、親が始末をつけるという発想」を容認する発言をしている識者もいるようだ。
熊沢容疑者は、長男から日常的に家庭内暴力を受けていたようで、「身の危険感じた」と供述している。
しかし、「親が始末をつけるという発想」を容認する発言には強い違和感を覚えるし、非常に危ういものを感じる。その理由は、以下の2つである。
(1)「私物的我が子観」を助長
(2)子供の将来を悲観した無理心中を誘発
●私物的我が子観
「親が始末をつけるという発想」の根底にあるのは、多くの場合、子供との同一化である。もちろん、それだけ追い詰められ、孤立しているのだろうが、親の価値観や人生観を押しつける傾向があることは否定しがたい。
たとえば、私は、引きこもりの子供を持つ親から相談を受けることが少なくなく、しばしば「この子を残して死ねません。私たち親のほうが先に死ぬのに、どうしたらいいのかわかりません」という訴えを聞く。親の気持ちは痛いほどわかるが、このような訴え自体、子供の人生すべてに親が責任を持たなければならないと思い込んでおり、さまざまな問題を家族だけで抱え込もうとしていることの裏返しのように私の目には映る。
実際、こういう親は、子供が引きこもるようになると、近所や親戚とのつき合いを避け、外出を控えるようになりやすい。これは、責任感が強いことにもよるし、世間体を気にすることにもよる。いずれにせよ、親自身も引きこもりがちになる。そして、皮肉にも、親子の一体感がさらに強まって、共依存の関係に陥りやすい。
精神科医としての長年の臨床経験から申し上げると、引きこもりは、本人の資質や親の育て方のせいにして片づけられる問題ではなく、家族、教育、社会の構造的な問題の結果表面化した「症状」とみなすべきである。当然、親が自分たちだけで抱え込んでも、どうにかなるわけではない。むしろ悲劇的な結末を迎えかねないことは、熊沢容疑者のケースを見れば明らかだ。
だから、子供が一定の年齢以上になったら、「血がつながっているとはいえ、親と子は別人格。子供の問題をすべて親が解決できるわけではない。親のほうが先に死ぬのだから、子供の面倒を最後まで見るのは所詮無理」という割り切りが親の側に必要なのだが、実際にはそれができない親が少なくない。
息子を殺害するまで追い詰められた熊沢容疑者の苦悩は、わからないではない。ただ、その根底には、「私物的我が子観」が潜んでいたのではないか。
「私物的我が子観」とは、母子心中の実態を調査した研究から明らかになった傾向である。母親が子供を「私物」とみなし、「一緒に死んだほうがこの子にとって幸せ」「生きていてもこの子は不幸になるだけ」などと思い込んで、母子心中を図る。
平たくいえば、親が子供を所有物とみなす傾向であり、こうした傾向が父親に認められることもある。これを容認するのが危険なのは、引きこもりの子供の将来を悲観した親が無理心中を図る事件を誘発する恐れがあるからだ。
これからは「私物的我が子観」を捨てて、社会全体で子供を見守っていくという「社会的我が子観」を育成しなければならない。
(文=片田珠美/精神科医)
参考文献
片田珠美『拡大自殺』角川選書、2017年
高橋重宏『母子心中の実態と家族関係の健康化―保健福祉学的アプローチによる研究』川島書店、1987年