毎年、世界では1,000万人近い人々が、がんで亡くなっている。新型コロナウイルスの流行以来、2年間の世界の累計死者数が約600万人であるということからも、がんの恐ろしさがよく分かる。
この問題に正面から向き合うのが、トルコのナノバイオテクノロジースタートアップ、RS Research(RSリサーチ)だ。「Cure With a Smile(笑顔でいられる治療)」をモットーとして掲げる同社は 、腫瘍にのみ選択的に薬剤を届け、副作用を減らす、独自のプラットフォームを発明した。開発を率いるのは、同社の共同創業者でCSO(チーフ・サイエンス・オフィサー)のラナ・サンヤル(Rana Sanyal)博士。がん治療の分野にイノベーションを起こすサンヤル博士に、話を聞いた。
腫瘍にピンポイントで薬剤を届ける技術を確立
RS Researchの共同創業者でCSOのラナ・サンヤル博士。 @Cartierサンヤル博士がキャリアをスタートさせたのは、米国カリフォルニア州の、アムジェンという世界的なバイオテック企業だ。そこで抗がん剤などに使う分子を合成し、医薬品として使用するプロセスを経験。研究者として4年ほど働くなかで、薬品開発のノウハウを身につけた。
母国のトルコに戻ってからは、イスタンブールの名門ボアズィチ大学で研究職に就いた。そこで取り組んだのが、「ドラッグ・デリバリー・システム(DDS)」の研究だ。DDSとは、薬剤を体内の狙った部分にのみ選択的に運ぶ技術。健康な組織には作用させないことで、副作用を抑える。
「当時、研究室の院生たちと共にキャリアとして使える高分子の合成に取り組んでいました。そして、そのうちのいくつかは、『治療に使えるかもしれない』という手応えを感じるようになりました」
過去に"失敗"した候補医薬品にも新たなチャンスを
開発を本格化させるため、博士は2015年に共同創業者と共にRSリサーチを立ち上げた。彼女らは迅速に意思決定を下し、スピーディに開発を進めるため、大手製薬会社と組むのではなく起業を選んだ。
RSリサーチで開発している薬物キャリアには、腫瘍細胞のレセプター(生物の体にある、外界や体内からの何らかの刺激を受け取る構造)にのみ結合する物質が取り付けてある。そのため、標的にたどり着くまで毒性の強い薬剤を漏らさず運んでいき、腫瘍の細胞の中に入った段階で初めてそれを放出する。
この独自のプラットフォームを医薬品メーカーなどに提供し、薬の共同開発を行うというのがRSリサーチのサービスのひとつだ。これまで副作用が多くて臨床試験に進めなかった薬も、同社のキャリアに入れることで使えるようにする。特許は、日本を含む58カ国で取得しており、世界では共同開発の仕組みが整いつつある。これは、日本の医薬品開発企業にとっても、チャンスになるはずだ。
画期的な薬を作るため、まずはエコシステムを構築
@Cartierまた同社は、ユニークな抗がん剤候補のパイプライン(開発中の品目)を開発している。そのうちのひとつは、既に2021年から臨床試験(※1)の最初の段階である、フェーズ1に入っている。
※1 臨床試験(治験)には主に3段階ある。フェーズ1ではごく少数の患者(抗がん剤の場合は健康なボランティアを対象にしない)を対象に、安全性や薬剤が体内に残る期間などを見る。フェーズ2で対象人数を増やして有効性を調べ、フェーズ3では日本を含む様々な国で広く実験を行い、薬効の違いなどの反応を見る。
同社が開発した分子は、トルコで研究開発から臨床試験までが行われた史上初の医薬品候補であり、すでにフェーズ1の臨床試験を開始している。この実現には、様々な組織が関わるエコシステムを構築する必要があった。
開発を進めるには、正確に実験を行える施設や、少量の治験薬を製造するための設備など、インフラを整えなければならない。そこで、GMP認証(※2)の臨床バッチサイズの自社生産インフラの構築を完了し、パイプライン開発以外でも研究に貢献できるよう、さらなる投資を行った。しかし、医薬品の開発プロセスが直面するハードルを乗り越えることは、決して簡単ではない。
そのために、ベンチャーキャピタルとの連携など、資金調達のネットワークを構築。RSリサーチは、2021年12月に、シリーズA投資ラウンドで1200万USドル(約15億円)の資金調達を完了したことを発表した。このラウンドのリードインベスターは製薬会社であり、シナジーやノウハウの交換という点でスマートな投資は非常に重要であるため、彼らのモチベーションはさらに高まっているという。また今日、RSリサーチは、こうして作った設備や実験のノウハウを、外部の研究者や製薬企業に提供するサービスも行っている。
※2 「Good Manufacturing Practice」の略で、日本語では「適正製造規範」。原料の入庫から製造、出荷にいたる全ての過程において、製品が安全に作られ、一定の品質が保たれるように定められた規則とシステムを指す。
さらに、規制当局との連携も重要だ。
肝心なのは多くの人が使えるようにすること
@CartierRSリサーチは現在フェーズ1にある治験薬を、2023年にはフェーズ2まで進めたいと考えている。
「フェーズ2では、多くの患者が治験に参加できるようになります。ほんの数カ月で手の施しようがないほど進行してしまうがんの場合、新薬を試せることは非常に大きな意味を持ちます」
気になるのは治療のコストだ。FDA(アメリカ食品医薬品局)が過去5年間に承認した約55のがん治療薬のうち、トルコで使えるのはたった12品。高価格だというのが主な理由だ。日本でも同様の理由で、多くの抗がん剤が承認されていない。
「生死に関わる有効な薬が市場に存在するのに使えない。これは、受け入れがたいことです。私たちの薬は発展途上国などでも広く使えるよう、開発コストを抑えてきました。例えば同じ薬をアメリカで開発したら、ずっと高くつくでしょう。ノウハウのある私たちが、トルコで新たにエコシステムを構築し、これまで順調に開発を進めてきました。
RSリサーチの当面の目標は、治験薬はそのフェーズを上げていき、前臨床段階の薬は、治験の承認を得ることだ。一方、5年以上先を見据えた中長期的なビジョンとしては、キャリア・プラットフォームの用途を広げていくことを目指す。高分子のキャリアは、抗がん剤だけでなく、さまざまな薬品を運ぶことができる。現在取り組み始めているのが、診断用の造影剤などとの組み合わせだ。これが成功すれば、MRIやPETなどの検査で、今より初い段階でがんが発見できるようなるかもしれない。
医療業界のガラスの天井をなくすためには
トルコやアメリカで医療分野の専門家としてキャリアを積み、創薬分野で起業したサンヤル博士に、両分野でのジェンダーギャップについて聞いた。
バイオや化学分野の研究機関や企業で顕著なのは、いわゆる“ガラスの天井”現象だという。若手のうちは男女同数(トルコでは女性の方が多い場合もあるそうだ)でも、幹部クラスになると圧倒的に男性が多くなる。
キャリア形成期と、結婚・出産・子育ての時期が重なることが、その大きな要因だと博士は考える。サンヤル博士は、「女性の人生をサポートしながら、キャリアを育めるような体制強化を図る必要がある」と語る。
「トルコを含む特にアジア文化圏では、女性の方が家庭で多くの責任を負っています。みんな、家のどこに何があるかは、お母さんに聞けばいいと思っていますよね。『子育てには村全体の力がいる』ということわざの通り、社会全体が関わるべきです。
女性の能力を活かすことは、企業の利益につながります。弊社には社員が13名いますが、そのうちの11人が女性です。男性差別をしているわけではないですよ。私には2人の息子がいますしね(笑)。ただ、優秀な女性を育成し、リーダーとして育てることにやりがいを感じています」
RSリサーチが開発を進めるソリューションは、多くの人を救う可能性に満ちている。苦しくない、「笑顔でいられる治療」が世界に普及することを祈りたい。
女性起業家の活躍を後押しする、カルティエ ウーマンズ イニシアチブ
カルティエ ウーマンズ イニシアチブは、女性起業家にとって重要なコミュニティだ。 ©Cartier Women’s Initiativeラグジュアリーメゾンのカルティエは、2006年にビジネスを通して社会や環境に良いインパクトを与える女性起業家の支援を目的に、「カルティエ ウーマンズ イニシアチブ(CWI)」を設立。以来、アワードや教育プログラム、コミュニティの運営などを行ってきた。
サンヤル博士は、2021年度CWIの「サイエンス&テクノロジー パイオニア アワード」部門のファイナリスト。「CWIフェローシップ・プログラムでは、非常に多くのことを学んだ。特に、起業家同士の横のつながりを作る貴重な機会だった」とし、日本の女性起業家にも応募を強く勧めたいと語る。
「気軽に相談できる相手がいない経営者は孤独です。
社会課題の解決にパッションを注ぎ、ビジネスの力で世の中に革新をもたらすアワード受賞者のプロフィールや活動を紹介する本連載は、今回が最終回。彼女らの熱意が波及し、日本でも今後ますます女性起業家が増えることを願ってやまない。
カルティエ ウーマンズ イニシアチブ(CWI)2023年度の参加者を募集中
現在、2023年度の参加者を募集中。「Regional Awards」「Science & Technology Pioneer Award」、そして「Diversity, Equity & Inclusion (DEI) Award」の3つの部門から応募が可能です。応募締切は、2022年6月30日。
カルティエ ウーマンズ イニシアチブ 応募はこちらから:https://www.cartierwomensinitiative.com/awards