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スタジオジブリが贈る『紅の豚』。美しい空と海で戦う爽快感、とにかくカッコイイ主人公、慕われる美女との恋愛関係、間が抜けていて憎めない悪役たち、活発な少女との交流……などなど、未だに色褪せない魅力が満載な名作です。
ここでは、『紅の豚』を観て多くの方が思うであろう「主人公のポルコ(マルコ)はなぜ豚になってしまったの?」という疑問について、それを解き明かすいくつかのポイントと、考察を書いてみます。
※以下からは『紅の豚』のラストを含むネタバレに触れています。これから観ようと思っている方はご注意ください。
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劇中では、ポルコがかつて戦争で親友を失っていたことが回想として描かれています。ポルコはそのとき、死んだはずの親友が向かった“ずっと高いところにある一筋の不思議な雲”に行くことはできませんでした。
この話を聞いたフィオは「神様がまだ来るなって言ったのね」と言いましたが、ポルコ自身は「お前はずっとそうして一人で飛んでいろって言われた気がしたがね。それに、あそこは地獄かもしれねえ」と答えています。
また、ジーナのお店では、ポルコが人間だったときのたった1枚だけ残った写真が飾られていましたが、その顔は塗りつぶされており、ポルコ自身はその写真を外さないことが気に食わないと言っています。
他にも、ポルコは「(戦争で)死んだやつはいいやつさ」とも言っています。つまり、生き残ったポルコは、自分が“いいやつ”だとは思ってはいないのでしょう。
これらからは、ポルコは人間だったことの自分を“黒く塗りつぶす”ほどに嫌っていること、自分だけが生き残っていたことに罪悪感を覚えていることがわかります。
だからでこそ、ポルコは魔法を自分自身にかけたのかもしれません。一般的には侮蔑の対象となりやすい豚という存在になって、生きている罪を背負おうと……。
劇中では、世界恐慌の波がヨーロッパに押し寄せつつあったこと、人々の生活が厳しくなりつつあったことが示唆されています。
この時代背景のため、飛行艇乗りが単なる冒険家のままではいられず、戦争や国家のために働かなければならなくなってきていること、それをポルコが嫌っていることも、はっきりと劇中で表れてきます。
ポルコは、国家の中で生きる人間のように政治や欲にまみれて生きることをよしとはせず、自由に生きることを望んでいたのでしょう。その想いが、人間ではない、豚という存在に姿を変えるという方法で表れていたのかもしれません。
また、豚は一般的に“家畜”という人間の奴隷のような見方をされがちです。ポルコはその世俗的なイメージにあらがうかのように、あえて逆説的に豚になることを選び、自由になることを目指したのかもしれません。
ジーナは3回も飛行艇乗りと結婚しましたが、その相手はみんな死んでしまったため「もう涙も枯れちゃったわ」と語っていました。
同じく飛行艇乗りのポルコは、そんなジーナを見かねて、自分が豚という醜い姿となることで、自分はジーナとは恋仲にはならない、もうジーナを悲しませたりはしないと考えていたのかもしれません。
しかし、そのポルコの目論見は外れていたようです。ジーナは、もし自分がいるときにポルコが庭に現れたら、今度こそ愛するという“賭け”をしていました。
しかも、カーチスと決闘をしていたポルコに、ジーナは「あなた、“もう1人”女の子を不幸にする気なの?」とも言っています。
豚になろうが人間のままだろうが、ジーナはポルコを愛していたんですね。
そういえば、フィオもまったくポルコの見た目が醜いなんて思ってはいなさそうでしたし、序盤にポルコは観光艇に乗った女性から黄色い声援を送られたりしていました。
マンマユート団のみんなやカーチスがポルコのことを“豚”と呼ぶのも、なんとなくですが、悪友のつけたあだ名のような親しみやすさを感じます。ポルコの豚の姿を本気で忌み嫌っている者などいないというのも、『紅の豚』の素敵なところです。
劇中でポルコは、2度人間の顔(姿)に戻っています。
これはポルコが“愛する人のために戦う(戦った)”という意思を持ったときとも言えます。それは決して、ポルコが忌み嫌っていた“愛する人が死んでしまう戦争”、ではありません。
そのように、自分の愛する人に、愛されてもいいと感じたとき、ポルコは人間の姿に戻れるのかもしれません。
作中の出来事とは関係のない、メタフィクショナルなところに踏み込んでしまいますが、ポルコは宮崎駿監督自身の投影であると考えることができます。その根拠は以下の2つです。
(2)の宮崎駿の想いは『風立ちぬ』にて、飛行機の設計家を主人公としたことにも表れています。その劇中では、戦争の道具として使われてしまう飛行機に対する、主人公の複雑な感情が見て取れました。また、『風立ちぬ』の主人公は豚などではなく、リアルな人間そのものとして描かれていました。
『風立ちぬ』に比べると、『紅の豚』の大筋の物語は軽快で楽しく、夢のある物語のように思えます。その『紅の豚』の印象を言い換えると“純粋”です。ただし『風立ちぬ』のように“人間”になると、その純粋さが失われてしまう、戦争の醜さや世俗にまみれた存在になってしまう……人間と豚というそれぞれの姿で描かれた『風立ちぬ』と『紅の豚』には、そのような表裏一体の、同じようなテーマを感じるのです。
豚が“宮崎駿の純粋な飛行機への憧れ”の象徴であるという根拠もあります。それはエンドロールで映し出される“飛行機の黎明期”を描いたイラストで登場しているのが、みんな豚であったことです。
宮崎駿自身も、このイラストについて「どんなものでも黎明期はキラキラしているけど、それは現実に資本や国家の論理に組み込まれてしまう」と、純粋に愛するべきものも、やがては人間らしい利害関係に組み込まれてしまうことを語っていました。つまり、豚とは、宮崎駿が純粋に大好きな飛行機のことを思い続けられることそのものを示しているとも考えられるのです。
さらに、宮崎駿は『紅の豚』について「“現在形の手紙”を自分に送った作品」とも答えています。
宮崎駿は『風の谷のナウシカ』や『天空の城ラピュタ』や『となりのトトロ』を“ああいうふうにしたかったけど、できなかった、幼年時代や高校時代などの、いままでの全世代に向けての手紙”と考えており、「こうなるともう中年になった今の自分に向けての手紙を書くしかない」、ということで誕生したのが『紅の豚』だったのだそうです。
つまりは、豚のポルコは“中年”の宮崎駿の、理想の姿とも考えることもできますね。
ポルコは飛行艇の戦いにおいて、殺人を絶対に犯さないという信条を持っていました。高性能焼夷弾とか徹甲弾を薦められたときにも、ポルコは「ボウズ、俺たちゃ戦争やってるんじゃねえんだよ」と答えています。
ポルコが飛行艇乗りでありながら戦争や死を否定しているのは、親しい人を亡くしたこと、その親しい人と結婚していたジーナを悲しませていたことも理由なのでしょう。
映画のラストでフィオが語っていたことは、「あれから何度も大きな戦争や動乱があったけれど、その(ジーナとの)友情は今も続いている」ということでした。年老いたマンマユート団がチェスなどを楽しみ、一堂に会している絵も映し出されていました。
これらから伝わるのは、“もし戦争が起こっても、みんなが元気でいてほしい”という純然たる願いです。これは宮崎駿が持つ矛盾の答えであり、願望なのでしょう。
また、ジーナがまるでやんちゃな男の子を世話するかのように、アドリア海の男たちをたしなめていることも重要になっています。「戦争ゴッコはダメよ」と言うジーナの母性は男たちにメロメロで、「この店の50キロ以内じゃ仕事はしねえさ!豚とだって仲良くやってるぞ」とまで言わせてしまいます。
ラストでみんなが無事に生きてこられていたのも、ジーナのおかげなのかもしれませんね。
実は宮崎駿自身、「ポルコはなぜ豚になってしまったの?」という質問にうんざりしているようです。まだ『紅の豚』が機内上映用の15分の短編映画として製作されていたとき、鈴木敏夫プロデューサーが「そもそもなんでこいつ豚なんですか?」と聞くと、宮崎駿は「すぐ原因と結果を明らかにしようとする!」と怒っていたそうです。
上映後のアンケートでよく書かれていた“最後にポルコは人間に戻れたんですか”という質問に対しても、「人間に戻るということがそれほど大事なことなんでしょうか?」と答えています。
これは、『紅の豚』の主人公を豚にしたのは論理的に説明できるものではなく、感覚的なことが理由であるという訴えのようにも、はたまた“観客それぞれが想像してほしい”という宮崎駿の願いのようにも思えてきます。
ただし、物語の結末において、宮崎駿は「人間の顔に戻ってしまうこともあるかもしれないけど、(庭で)ジーナが出てきたら、また豚になって飛んでいっちゃいますよ。僕はそのほうが、(ポルコが)自分を許さないというほうが好きです」と答えています。
監督自身が「そのほうが好きです」などと“想像”で結末を語っているわけですから、ぜひ皆さんにも、ポルコが豚になった理由や、最後に人間に戻ったのかという疑問について「こういうことだ」と1つに断定せず、いろいろと想像を巡らせてほしいです。
こうして1つの作品に、いくつもの“後日談”が広がっていくことも、『紅の豚』の素敵なところなのですから。
自分もそんな想像の物語を1つ挙げてみます。
映画のラストで、ホテル・アドリアーノに赤い飛行艇が停泊しているので、世間的には“ジーナは(ポルコが庭に来るという)賭けに勝ったんだ!”という説が濃厚になっていますが……このシーンでは、ほかにも飛行艇がたくさん停留しているんですよね。
ひょっとすると、ポルコは庭に来たけれど、お店がまた大繁盛している、ほかの男から求婚されているのを見て、ジーナには会わず、また自由気ままにどこかに去ったのではないか……とも思えるのです。その方が、ポルコらしいかな、と。
『ジブリの教科書7 紅の豚』:文藝春秋 2014年
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(文:ヒナタカ)
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原作・脚本・監督:宮崎 駿
プロデューサー:鈴木敏夫
音楽:久石 譲
主題歌:加藤登紀子
声の出演:森山周一郎 ⋅ 加藤登紀子 ⋅ 桂 三枝 ⋅ 上條恒彦 ⋅ 岡村明美 ⋅ 大塚明夫
上映時間:約93分
配給:東宝
公開日:1992年7月18日(土)
スタジオジブリが贈る『紅の豚』。美しい空と海で戦う爽快感、とにかくカッコイイ主人公、慕われる美女との恋愛関係、間が抜けていて憎めない悪役たち、活発な少女との交流……などなど、未だに色褪せない魅力が満載な名作です。
ここでは、『紅の豚』を観て多くの方が思うであろう「主人公のポルコ(マルコ)はなぜ豚になってしまったの?」という疑問について、それを解き明かすいくつかのポイントと、考察を書いてみます。
※以下からは『紅の豚』のラストを含むネタバレに触れています。これから観ようと思っている方はご注意ください。
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1.ただ1人生き残ってしまった自分への罰のため?
劇中では、ポルコがかつて戦争で親友を失っていたことが回想として描かれています。ポルコはそのとき、死んだはずの親友が向かった“ずっと高いところにある一筋の不思議な雲”に行くことはできませんでした。
この話を聞いたフィオは「神様がまだ来るなって言ったのね」と言いましたが、ポルコ自身は「お前はずっとそうして一人で飛んでいろって言われた気がしたがね。それに、あそこは地獄かもしれねえ」と答えています。
また、ジーナのお店では、ポルコが人間だったときのたった1枚だけ残った写真が飾られていましたが、その顔は塗りつぶされており、ポルコ自身はその写真を外さないことが気に食わないと言っています。
他にも、ポルコは「(戦争で)死んだやつはいいやつさ」とも言っています。つまり、生き残ったポルコは、自分が“いいやつ”だとは思ってはいないのでしょう。
これらからは、ポルコは人間だったことの自分を“黒く塗りつぶす”ほどに嫌っていること、自分だけが生き残っていたことに罪悪感を覚えていることがわかります。
だからでこそ、ポルコは魔法を自分自身にかけたのかもしれません。一般的には侮蔑の対象となりやすい豚という存在になって、生きている罪を背負おうと……。
2.政治や欲にまみれた人間になりたくなかったため?
劇中では、世界恐慌の波がヨーロッパに押し寄せつつあったこと、人々の生活が厳しくなりつつあったことが示唆されています。
・飛行艇製造会社のピッコロは「近頃はな、札束が紙クズ並の値打ちしかないんだよ」と言っている。
・ポルコの飛行機を修理しにやってきたのは、みんな女性だった。それは男がみんな出稼ぎに出てしまったからだった。
・立ち寄った街ではガソリンが3倍の値段になっており、それに不満を漏らすフィオにポルコは「ぼっているんじゃねえ、持ちつ持たれつなんだよ、海も陸も見かけはいいがな、この辺りはスッカラカンなのさ」と答えている。
この時代背景のため、飛行艇乗りが単なる冒険家のままではいられず、戦争や国家のために働かなければならなくなってきていること、それをポルコが嫌っていることも、はっきりと劇中で表れてきます。
・銀行で「飛行艇のローンは終わりました。いかがでしょう愛国債権などをお求めになって民族に貢献されては?」と問われたポルコは「そういうことはな、人間同士でやんな」と答える。
・フェラーリン少佐は、映画館でポルコに「なあマルコ、空軍に戻れよ、今なら俺たちの力で何とかする」、「冒険飛行家の時代は終わったんだ、国家とか民族とかくだらないスポンサーを背負って飛ぶしかないんだよ」と助言しているが、ポルコは「ファシストになるより豚の方がマシさ」、「俺は俺の稼ぎでしか飛ばねえよ」と答えている。
・王党派が空賊連合と手を組もうとしているため、ポルコのような賞金稼ぎが食っていけなくなるという噂が広まっている。
・老人に「あんたもどこかに売り込んだらいい、カーチスなんかじきにアメリカに帰っちまうさ」と問われたとき、ポルコは「“さらばアドリア海の自由と—” “放埓の日々よ”ってわけだ」と答えている。
ポルコは、国家の中で生きる人間のように政治や欲にまみれて生きることをよしとはせず、自由に生きることを望んでいたのでしょう。その想いが、人間ではない、豚という存在に姿を変えるという方法で表れていたのかもしれません。
また、豚は一般的に“家畜”という人間の奴隷のような見方をされがちです。ポルコはその世俗的なイメージにあらがうかのように、あえて逆説的に豚になることを選び、自由になることを目指したのかもしれません。
3.ジーナと恋仲にならないため?
ジーナは3回も飛行艇乗りと結婚しましたが、その相手はみんな死んでしまったため「もう涙も枯れちゃったわ」と語っていました。
同じく飛行艇乗りのポルコは、そんなジーナを見かねて、自分が豚という醜い姿となることで、自分はジーナとは恋仲にはならない、もうジーナを悲しませたりはしないと考えていたのかもしれません。
しかし、そのポルコの目論見は外れていたようです。ジーナは、もし自分がいるときにポルコが庭に現れたら、今度こそ愛するという“賭け”をしていました。
しかも、カーチスと決闘をしていたポルコに、ジーナは「あなた、“もう1人”女の子を不幸にする気なの?」とも言っています。
豚になろうが人間のままだろうが、ジーナはポルコを愛していたんですね。
そういえば、フィオもまったくポルコの見た目が醜いなんて思ってはいなさそうでしたし、序盤にポルコは観光艇に乗った女性から黄色い声援を送られたりしていました。
マンマユート団のみんなやカーチスがポルコのことを“豚”と呼ぶのも、なんとなくですが、悪友のつけたあだ名のような親しみやすさを感じます。ポルコの豚の姿を本気で忌み嫌っている者などいないというのも、『紅の豚』の素敵なところです。
4.人間の顔に戻ったのは、“愛する人のために戦った”から?
劇中でポルコは、2度人間の顔(姿)に戻っています。
(1)フィオが寝ている側で銃弾を触っているとき
(2)カーチスの決闘に勝利し、フィオに別れのキスをされたとき(カーチスは「オメエその顔!」と驚いている)
これはポルコが“愛する人のために戦う(戦った)”という意思を持ったときとも言えます。それは決して、ポルコが忌み嫌っていた“愛する人が死んでしまう戦争”、ではありません。
そのように、自分の愛する人に、愛されてもいいと感じたとき、ポルコは人間の姿に戻れるのかもしれません。
5.豚は宮崎駿監督の“純粋な飛行機への憧れ”だった?
作中の出来事とは関係のない、メタフィクショナルなところに踏み込んでしまいますが、ポルコは宮崎駿監督自身の投影であると考えることができます。その根拠は以下の2つです。
(1)宮崎駿のイラストの自画像はまさに“豚”になっている
(2)宮崎駿は戦争で作られる兵器や飛行機への憧れがあるのにも関わらず、戦争を否定するという矛盾を抱えている
(2)の宮崎駿の想いは『風立ちぬ』にて、飛行機の設計家を主人公としたことにも表れています。その劇中では、戦争の道具として使われてしまう飛行機に対する、主人公の複雑な感情が見て取れました。また、『風立ちぬ』の主人公は豚などではなく、リアルな人間そのものとして描かれていました。
『風立ちぬ』に比べると、『紅の豚』の大筋の物語は軽快で楽しく、夢のある物語のように思えます。その『紅の豚』の印象を言い換えると“純粋”です。ただし『風立ちぬ』のように“人間”になると、その純粋さが失われてしまう、戦争の醜さや世俗にまみれた存在になってしまう……人間と豚というそれぞれの姿で描かれた『風立ちぬ』と『紅の豚』には、そのような表裏一体の、同じようなテーマを感じるのです。
豚が“宮崎駿の純粋な飛行機への憧れ”の象徴であるという根拠もあります。それはエンドロールで映し出される“飛行機の黎明期”を描いたイラストで登場しているのが、みんな豚であったことです。
宮崎駿自身も、このイラストについて「どんなものでも黎明期はキラキラしているけど、それは現実に資本や国家の論理に組み込まれてしまう」と、純粋に愛するべきものも、やがては人間らしい利害関係に組み込まれてしまうことを語っていました。つまり、豚とは、宮崎駿が純粋に大好きな飛行機のことを思い続けられることそのものを示しているとも考えられるのです。
さらに、宮崎駿は『紅の豚』について「“現在形の手紙”を自分に送った作品」とも答えています。
宮崎駿は『風の谷のナウシカ』や『天空の城ラピュタ』や『となりのトトロ』を“ああいうふうにしたかったけど、できなかった、幼年時代や高校時代などの、いままでの全世代に向けての手紙”と考えており、「こうなるともう中年になった今の自分に向けての手紙を書くしかない」、ということで誕生したのが『紅の豚』だったのだそうです。
つまりは、豚のポルコは“中年”の宮崎駿の、理想の姿とも考えることもできますね。
余談その1.戦争があっても、みんなが元気でいてほしいという気持ちが表れている
ポルコは飛行艇の戦いにおいて、殺人を絶対に犯さないという信条を持っていました。高性能焼夷弾とか徹甲弾を薦められたときにも、ポルコは「ボウズ、俺たちゃ戦争やってるんじゃねえんだよ」と答えています。
ポルコが飛行艇乗りでありながら戦争や死を否定しているのは、親しい人を亡くしたこと、その親しい人と結婚していたジーナを悲しませていたことも理由なのでしょう。
映画のラストでフィオが語っていたことは、「あれから何度も大きな戦争や動乱があったけれど、その(ジーナとの)友情は今も続いている」ということでした。年老いたマンマユート団がチェスなどを楽しみ、一堂に会している絵も映し出されていました。
これらから伝わるのは、“もし戦争が起こっても、みんなが元気でいてほしい”という純然たる願いです。これは宮崎駿が持つ矛盾の答えであり、願望なのでしょう。
また、ジーナがまるでやんちゃな男の子を世話するかのように、アドリア海の男たちをたしなめていることも重要になっています。「戦争ゴッコはダメよ」と言うジーナの母性は男たちにメロメロで、「この店の50キロ以内じゃ仕事はしねえさ!豚とだって仲良くやってるぞ」とまで言わせてしまいます。
ラストでみんなが無事に生きてこられていたのも、ジーナのおかげなのかもしれませんね。
余談その2.そもそも豚になったことに明確な理由なんてない?そして物語の結末について
実は宮崎駿自身、「ポルコはなぜ豚になってしまったの?」という質問にうんざりしているようです。まだ『紅の豚』が機内上映用の15分の短編映画として製作されていたとき、鈴木敏夫プロデューサーが「そもそもなんでこいつ豚なんですか?」と聞くと、宮崎駿は「すぐ原因と結果を明らかにしようとする!」と怒っていたそうです。
上映後のアンケートでよく書かれていた“最後にポルコは人間に戻れたんですか”という質問に対しても、「人間に戻るということがそれほど大事なことなんでしょうか?」と答えています。
これは、『紅の豚』の主人公を豚にしたのは論理的に説明できるものではなく、感覚的なことが理由であるという訴えのようにも、はたまた“観客それぞれが想像してほしい”という宮崎駿の願いのようにも思えてきます。
ただし、物語の結末において、宮崎駿は「人間の顔に戻ってしまうこともあるかもしれないけど、(庭で)ジーナが出てきたら、また豚になって飛んでいっちゃいますよ。僕はそのほうが、(ポルコが)自分を許さないというほうが好きです」と答えています。
監督自身が「そのほうが好きです」などと“想像”で結末を語っているわけですから、ぜひ皆さんにも、ポルコが豚になった理由や、最後に人間に戻ったのかという疑問について「こういうことだ」と1つに断定せず、いろいろと想像を巡らせてほしいです。
こうして1つの作品に、いくつもの“後日談”が広がっていくことも、『紅の豚』の素敵なところなのですから。
自分もそんな想像の物語を1つ挙げてみます。
映画のラストで、ホテル・アドリアーノに赤い飛行艇が停泊しているので、世間的には“ジーナは(ポルコが庭に来るという)賭けに勝ったんだ!”という説が濃厚になっていますが……このシーンでは、ほかにも飛行艇がたくさん停留しているんですよね。
ひょっとすると、ポルコは庭に来たけれど、お店がまた大繁盛している、ほかの男から求婚されているのを見て、ジーナには会わず、また自由気ままにどこかに去ったのではないか……とも思えるのです。その方が、ポルコらしいかな、と。
※参考文献
『宮崎駿の雑想ノート』:大日本絵画 1992年『ジブリの教科書7 紅の豚』:文藝春秋 2014年
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(文:ヒナタカ)
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>>>【関連記事】『千と千尋の神隠し』より深く楽しめる「8つ」のポイント
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『紅の豚』作品情報
原作・脚本・監督:宮崎 駿
プロデューサー:鈴木敏夫
音楽:久石 譲
主題歌:加藤登紀子
声の出演:森山周一郎 ⋅ 加藤登紀子 ⋅ 桂 三枝 ⋅ 上條恒彦 ⋅ 岡村明美 ⋅ 大塚明夫
上映時間:約93分
配給:東宝
公開日:1992年7月18日(土)
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