両備システムズは、1965年6月5日に岡山電子計算センターとして創業した。岡山県で、バスやタクシー事業を行う両備グループの計算センターとしてスタートした同社は、当時の最先端コンピュータであった富士通の中型メインフレーム「FACOM-231」を導入。
新築した岡山市の磨屋町センタービル2階の専用フロアでは、創業初日から大型洋服ダンスを5つの並べたほどのCPUや制御ボックスが、部屋一杯を埋め尽くしていた。「『ともに挑む、ともに創る。』 - 歴史を未来につなぐ両備システムズの60年」の過去回はこちらを参照。

両備システムズの創業とコンピュータ導入の背景

岡山電子計算センターが目指したコンピュータの共同利用は日本初の取り組みであり、業界内でも注目を集めるなかでの船出だ。両備グループ関係者、富士通関係者、来賓など、約50人が列席した開所式では、コンピュータの始動ボタンが押されると、デモストレーションプログラムによって描かれた「ビーナスの像」がラインプリンタから打ち出され、驚きの声とともに、祝福の拍手が湧きあがった。

この日までの準備期間はわずか1年。未知で、専門性が高いコンピュータという新たな事業への挑戦の始まりであった。

両備システムズの設立は、1959年のある出来事が発端となっている。同年10月、現在は公益財団法人の日本生産性本部が北米、南米、欧州の20カ国を歴訪する青年実業人チームを結成し、11人を海外派遣。その一人として、85日間にわたる長期の海外視察に、副団長となって参加したのが、両備バスの社長を務めていた松田基氏であった。当時、38歳だ。

プロペラ機が主力であり、1ドル360円の固定相場制とともに、持ち出し外貨が厳しく制限されていた時代である。
海外旅行が困難な時代の長期視察は、まさに異例なものであった。松田氏は、この海外視察で「2つの土産」を持ち帰った。

1つは青年重役会制度(Junior Board System=JB制度)である。若手社員の経営参画意識の開拓と人材登用を目的とした制度で、両備バスではこの制度をすぐに導入。現在も、両備グループ全体で、この仕組みを継承しており、トップエグゼクティブやトップマネージャーを輩出するための地盤として定着している。

もう1つの土産が、事務の機械化であった。米国の先端企業では事務機械が導入され、省力化や効率化に威力を発揮している様子を目の当たりにし、日本にもこうした時代が到来するであろうことを予感。事務の機械化は、松田氏が社長を務めていた両備バスにおいて、重要課題の1つとして取り組むことにしたのだ。

帰国後に記した見聞記のなかで同氏は「電子頭脳機(=IBMマシン)は、1分間に250万語を解読し、銅貨が肩の高さから床に落ちる間に、5桁の数字を500回掛け合わす性能を持っている」と報告。その先進性に、大きな衝撃を受けたことを明かしている。

1960年9月に両備バスでは計算室を新設し、NCR-33号式会計機などを導入。給与計算のほか、総務部の配当計算、資材部の貯蔵物品管理、経理事務などに活用。
さらに、営業部門では、バスの路線別集計、燃料統計、車両別走行粁(キロメートル)集計などの機械化にも着手していった。

だが、この時点では会計機を利用した事務の機械化であり、コンピュータ化ではなかった。両備バスでは、この取り組みを一気に加速することにした。松田氏は、1964年5月、両備グループ全体の事務の機械化を目指し、両備バスを中心とした共同計算センターを設置する考えを固めていた。

このころ、両備グループの多角化が進み、観光事業や空港管理事業、不動産事業、スーパーマーケット、石油・自動車販売事業などを展開。グループ企業11社の集中計算処理が課題となっていたのだ。

事務の機械化で先行した両備バスは、グループ全体の事務管理の合理化とコスト削減に向けた中心的役割を果たすことになり、1964年6月、両備バスの社員を中心にしたコンピュータ委員会を発足。しかも、社長方針として、1965年4月を導入目標時期に設定したのである。

決断の迅速さと実行力は、両備グループの創業以来の伝統的社風だが、コンピュータの新たな導入においても、この姿勢は変わらなかった。だが、名称はコンピュータ委員会であっても、コンピュータに関する知識はほとんどない組織である。のちに両備システムズの副社長を務める小松原元之氏も初期メンバーの一人だった。

当時は、両備バスに入社して1年目の若手社員。
「観光の仕事をやりたいと思って、両備バスに入社した。コンピュータについて何も分からない状態だったし、コンピュータ事業がどうなるかわからないという不安もあった。1~2年やってきてくれと言われて引き受けたが、結局、退職するまで両備システムズで勤め上げた」と笑う。

委員会のメンバーは、猛烈な勢いで調査を開始し、先進ユーザーを訪問する実地見学、メーカー説明会への参加、プログラミング講座への参加を行うとともに、導入計画の立案にも取り組んだ。

その素早さは異例ともいえ、同委員会では1964年8月には導入候補として、日立製作所のHITAC-201、NECのNEAC-2205、富士通のFACOM-231、日本IBMのIBM 1440の4機種に対象を絞り込んでいた。だが、必要とされる処理能力やレンタル費の観点から、小型機である日立、NECが有力候補となり、中型機となる富士通、IBMは選定から外そうとしていたのである。
富士通からの提案で機種選定の動きが一気に傾く

そのとき、富士通から1つの提案が持ち込まれた。両備グループが設置したコンピュータを、富士通がショールームとして拡販の拠点に活用できるようにすることで、レンタル費の一部を負担するという内容だった。

具体的には、月額160万円のレンタル費用のうち、80万円を使用料として見込むことができる提案であり、これを受け入れれば小型機並みの費用で、高性能の中型機を利用できることになる。

同委員会での機種選定を巡る動きは、一気に富士通に傾き、同月中には富士通のFACOM-231を導入することを決定した。このときの決定が、その後の長年にわたる富士通との強固な関係へと発展していくことになる。

富士通の川崎工場で生産されたFACOM-231は、1965年3月から岡山市の磨屋町センタービルに搬入が開始され、約2カ月をかけて設置が完了した。


もともとは両備グループの共同計算センターとしての役割が導入プロジェクトの目的であったが、富士通のショールーム機能が加わったこと、FACOM-231という当初想定よりも規模が大きいコンピュータの導入が可能になったことで、コンピュータ委員会では企業内計算センターの域を超え、外に向けて開かれた一般受託計算センターとして活動することを模索しはじめた。これは必然的な流れだったといえるだろう。

両備バスおよび両備交通からの転籍による11人の社員で、1965年6月に岡山電子計算センターは事業を開始。そのときには、一般受託計算センターとしての業務も同時にスタート。地方の中堅企業の受託計算を行う共同利用という新たな事業に、他社に先行する形で進出することができたのだ。

仮に富士通からの提案がなく、グループ内のコンピュータ化にあわせた小型機を導入していたら、一般受託計算センターとしての事業参入は大幅に遅れ、市場獲得では後手に回り、現在の両備システムズの基盤を築くことができたかどうかも疑問である。富士通の提案が、両備システムズの歴史において大きな決断の分岐点であったことは間違いない。

1965年12月には、受託計算業務の第1号ユーザーとして、岡山県の中四国農政局から受注。その後、建設省広島・高松地方建設局、松江・出雲工事事務所などが技術計算においてオープン利用を開始した。

存亡の危機にさらされる「事件」を経て、両備システムズに社名変更

さらに、地方自治体にも営業活動の幅を広げ、創業4年目には、岡山市の固定資産税、西大寺や倉敷市、玉野市の住民税および水道料金計算、徳島市の住民税などの受託計算を行い、のちに「自治体の両備」と言われる基盤を築いていくことになる。だが、自治体からの受託計算の取り組みは順風満帆だったわけではない。むしろ、存亡の危機にさらされる事態を招くほどの「事件」に直面していたのだ。


地方自治体からの受注は好調であったものの、処理状況を見ると1人あたりの生産性が低く、システム開発が遅れ、FACOM-231の使用時間の過半数がプログラム開発に割かれ、コンパイルやデバッグ、テストランの繰り返しが行われていた。

また、キーパンチャーによる入力業務も大混乱であり、メインフレームに使用されていた紙テープは、大小無数の輪が棚、机だけでなく、床にまで広がり、そのなかから目的の紙テープを見つけ出して、修正の修正を再度修正するといった作業が行われていた。

こうした状況は最悪の事態に発展した。固定資産税と住民税のシステムをそれぞれ受託していたが、本番稼働させる時点になっても住民税のシステムは、プログラム一本すら満足なものがないという状況にあることが判明したのである。しかも、その時点で社員たちは数カ月にわたって昼夜を問わない作業の連続により、疲労困憊の極みに達していたのだ。

もはや自力での解決は無理だと判断した同社は、藁をも掴む思いで富士通に救援電報を送った。深刻な事態に陥っていることを理解した富士通の関係者は返事もそこそこに、協栄計算センター(現・アイネス)の幹部自宅に夜半に押し掛けて直談判し、支援を依頼したのだ。

同社は、民間計算センターとして初めて地方自治体向け住民記録システムを開発した企業でもあり、自治体受託計算では先輩格ともいえる存在であった。富士通からの要請を受けて、同社から3人のエンジニアが派遣され、期日ギリギリで各自治体に対して、面目を保つことができる水準にまで巻き返すことができ、ピンチを脱したのである。この一件が落着するまでの間、事業責任者は常に辞表を持ち歩いていたという。

小松原氏も「計算結果が出なければ、自治体は税金の徴収ができなくなるという最悪のシナリオも想定された。もしこのとき、アイネスの協力を得られなかったら、両備システムズは潰れていた」と述懐する。


創業からわずか数年後に訪れた最大の危機を乗り越えた両備システムズは、この経験をもとに管理や運営方法の見直しに着手し、企業体質を強化することにつなげている。1973年7月、岡山電子計算センターは両備システムズに社名を変更した。

計算センターの衣を脱ぎ捨て、情報化社会の新たな時代の波に対応する情報処理システムセンターを指向した社名変更であり、社名変更にあたっては、経済学者であるピーター・ドラッガー氏にも意見を仰いだというエピソードも残る。また同社は、社名変更にあわせて、岡山市南区豊成に竣工した新たな本社ビルに移転した。

1億5000万円の工費をかけた新本社ビルは、約1400平方メートルの敷地に鉄筋コンクリート3階建て、延床面積1720平方メートルを誇り、中四国地域最大の計算センターの登場を強く印象づけた。その後、豊成では第4棟まで拡張。両備システムズの発展を支える拠点として重要な役割を果たした。

両備システムズでは第1棟の竣工にあわせて、メインフレームをリプレースし、計算能力をさらに拡大。両備グループのなかで最も高い成長力を持った企業として、事業を拡大していった。
「ROHTAS」の開発と医療分野への進出

だが、両備システムズには、新たな試練が待ち受けていた。これまで両備システムズに計算業務を委託していた大口ユーザーが相次いで、コンピュータの自己導入を開始しはじめたのである。

その背景には、小型メインフレームの性能向上やコストダウン、日本独自と言われるオフィスコンピュータ(オフコン)の登場、PCやワープロ専用機などを代表としたOA(オフィスオートメーション)時代の到来に代表されるように、企業や自治体が自らコンピュータを導入し、使う環境が整い始めた点は見逃せない。

1975年からの約5年の間に、両備システムズのビッグユーザーである福武書店(現・ベネッセホールディングス)や、倉敷市、岡山市が相次いで自己導入に踏み切り、受託計算ビジネスは大きく縮小することを余儀なくされたのである。

特に福武書店は両備システムズの民需部門における大きな柱だった。自己導入の影響によって、1976年度の官公庁部門の売上高は前年比50%以上の減少、1977年度の民需部門(両備グループからの受託を含む)の売上高は前年比52%の減少という大打撃を受けたのだ。

このとき、両備システムズは、いくつかの「ポスト受託」事業への取り組みを開始している。たとえば、コンピュータにおける漢字情報処理への対応、COBOL85へのリファクタリング作業などは「ポスト受託」事業としての成果をあげつつあったが、そのなかでも、将来に向けた事業として重要な役割を果たしたのが、日本初の医療オンラインシステム「ROHTAS(ロータス=Ryobi Online Hospital Total Administration System)」の開発であった。

ROHTASの誕生は、1975年秋、京都に本社を置く医療システム専業のスタートアップ企業から、給食のカロリー計算システムの売り込みがあったことがきっかけだ。

病院の事務長を務め、医療事務のコンピュータ化に関心を持っていた人物が設立した企業であり、医療事務の課題を指摘し、医療分野向けオンラインシステムの開発を提案。両備システムズでは慎重に検討を繰り返した結果、この申し入れを受けることを決定した。

早速、医療プロジェクトチームを発足し、TMWとの提携により、医療システム分野への参入を図った。開発に着手したのは1976年7月で開発投資額は約5000万円。稼働目標は1977年4月とされ、開発期間はわずか8カ月しかなかった。

しかも、病院窓口処理の即時性を実現するオンラインシステムであること、1つのソフトウェアで複数の病院の処理を行う共同利用方式を採用することに加え、両備システムズが導入していたメインフレーム「FACOM230-45S」でのバッチ処理と併用して運用するという3つの条件を満たす、これまでに例がない診療報酬管理システムの開発を目指したのである。

小松原氏は「当時の両備システムズの利益は年間4000万円。2年間で2000万円ずつ、開発投資に回してもらった。まだ顧客もいないのに無茶な投資ではあったが、先行投資に対しては寛容な社風であるとともに、病院にとって必要なシステムになるという強い思いがあった」と振り返る。

完成したROHTASはこれらの要件を満たし、病院窓口処理の即時性を実現するだけでなく、当時の医療事務システムには中型機以上の導入が必要とされ、病院収入の1~2%の投資が必要されていたものをオンラインシステム化したことにより1%以下の費用で運用できるようにした。また、設置場所や専用人員が不要であり、迅速な稼働を実現できるというメリットを生んだ。

第1号ユーザーは岡山赤十字病院。1977年7月に本稼働を開始したところ、これが大きな話題を集め、予想を上回る形で導入ユーザーが拡大していった。さらに、BSN計算センター(現・BSNアイネット)や神戸コンピュータサービス(現・さくらケーシーエス)などを通じた販売が加速したほか、1985年には日本SMSとも業務提携し、それまでの大中規模病院から小規模病院へと事業展開を拡大するととともに、東京進出の本格化にもつなげた。

ROHTASの成功は、両備システムズのビジネスの主軸を受託中心のバッチ処理から、オンラインリアルタイム処理へと移行させる一方で、岡山県域内を対象にした情報サービスを全国展開へと拡大したことによるものが大きい。専業特化への道を切り拓く先導役となったのだ。

大河原克行 1965年、東京都生まれ。IT業界の専門紙「週刊BCN (ビジネスコンピュータニュース)」の編集長を務め、2001年フリーランスジャーナリストとして独立。電機、IT産業を中心に幅広く取材、執筆活動を行う。著書に「ソニースピリットはよみがえるか」(日経BP社)、「松下電器 変革への挑戦」(宝島社)など。 この著者の記事一覧はこちら
編集部おすすめ