37年続けているアンパンマン声優「大きな宝物をいただいた」
1988年10月にテレビアニメ『それいけ!アンパンマン』(日本テレビ系)の放送がスタートした当時からアンパンマンの声優を務める戸田恵子。映画シリーズは最新作『それいけ!アンパンマン チャポンのヒーロー!』(公開中)で36作目となる。37年にわたってアンパンマンに命を吹き込んでいる戸田にインタビューし、『アンパンマン』への思いや原作者・やなせたかしさんとの思い出などを聞いた。戸田は、収録で毎週顔を合わせる『アンパンマン』の制作陣や声優たちのことを「家族のよう」だと語る。
「毎週月曜日の朝10時、番組が始まった時から変わらない時間帯に毎週みんな会うんです。そこで1週間のことがリセットされて、また1から始まる。月曜日の朝は私たちにとってはそういう時間になっています」
そして、コロナ禍の苦しい時期や、仲間を失った悲しみも乗り越え、命を吹き込み続けてきたアンパンマン声優の仕事を「宝物」と表現する。
「いろんなことをみんなで乗り越えてきた37年。朝起きて歯を磨くのと同じぐらい、毎週月曜日のその時間はみんなの中に組み込まれていて、『アンパンマン』と共に私たちも年を取ってきたわけで、大きな宝物をいただいたという気持ちです。最初は他の仕事と変わらず1つの仕事としてスタートしましたが、続けていくうちに宝物感が増していきました。こんなに長くできる仕事はないので」
昭和、平成、令和と3つの時代を通じて、「愛と勇気」を届けている『アンパンマン』。戸田もアンパンマンを演じることで「逆に元気をもらっている」と語る。
「1週間いろんなことがあって、ストレスを感じることもありますが、アンパンマンの姿を見るとリセットされて頑張ろうという気持ちになります。幼稚園や保育園の窓にアンパンマンのキャラクターを貼ってくれたり、病院の小児病棟にアンパンマンを置いてくれたり、みんなの力になっているなと感じますが、私も力をもらっていて、本当に特別な存在です」
アンパンマンを演じる際に大切にしていることは「優しい気持ちを常に持って接すること」だと明かす。
「どのキャラクターに対しても、いつも寄り添う気持ちを大事に。
誰もが知っている『アンパンマン』。子供の頃にみんなが通っていく作品を担っているという責任感もあるという。
「最初の頃は何とも思っていなかったのですが、ベビーカーを押している人のそばにアンパンマンがあったり、アンパンマンのリュックや靴を身に着けている子がいたり、街中でそういうのを見るとすごい仕事をしているんだなと。仕事をしている時はあまりわからないですが、外に出ると影響力の大きさに気づかされます」
最後の共演を回顧「『戸田さん見とけよ』と言われたような気も」
活動していく中で、やなせ先生の言葉も大切にしていると明かす。「先生はいつも『人生は喜ばせごっこ』とおっしゃっていて、『つらい時や困った時など窮地に陥ったら、人が喜ぶことをやりなさい』と。それが『アンパンマン』の中に組み込まれていて、私たちも常にそういう思いでありたいと思ってやっています。アンパンマンは根っからのそういう精神でやっているので、私にとって神です」
やなせさんは92歳を迎えた2011年、引退を考えて生前葬も計画していたという。
「まだ先生がお元気な頃に『生前葬をやりたい』とおっしゃっている時期があって、『弔辞を書いてくれ』と言われて、なんて書いていいかわからないけど頼まれたので書いて。本当に先生が亡くなることを思うと悲しくて泣きながら書きました」
だが、準備をしている段階で東日本大震災が発生し、やなせさんは「死んでいられない」と生前葬を取りやめ、引退も撤回。被災地に送るアンパンマンのポスターの制作などを精力的に行い、戸田は「あの時期が一番、先生のところによく通いました」と振り返る。
「先生は『僕はもう年寄りで力がないから瓦礫を片付けに行くことはできないけど、僕にやれることがあるから今はそれをやります』とおっしゃって、いろんなものを作って被災地の子供たちやボランティアの人に配ったり、大きなポスターを作ったりされていました」
その姿を見て、戸田ら声優陣も「キャラクターの声で被災地の子供たちを応援するメッセージを届けたい」と提案。実現に至るまでさまざまな道のりもあったが、そんな時もやなせさんの言葉がとても響いたと語る。
「先生は『焦らず自分にできることを見極めて、できることをマックスでやりましょう』とおっしゃっていて、私はボランティアでドーンと大きいことができるのではないかと思ったけれど、そうではなく、今やれることをマックスでやろうと思うようになりました」
2013年4月に「神戸アンパンマンこどもミュージアム&モール」のオープニングセレモニーにやなせさんと出席した際にも、やなせさんは「できることをマックスでやる」ということを体現していたという。
「亡くなる半年前で、それが先生との最後の仕事になってしまいました。その時は杖をついていたし、目も見えないし、耳も聞こえないし、そんな晩年の感じでしたが、登場する直前に『杖をおいていこう』とおっしゃったので、『わかりました。私がかっこよくエスコートします』と言って。さらに、耳が聞こえないから『MCの人がテープカットと言ったら僕を叩いてくれ』とおっしゃって、準備万端にして出ていったんです。子供たちに元気な姿を見せるために、自分にできるマックスを選んで頑張る姿を見せていただきました」
そのやなせさんの精神が戸田にも受け継がれている。
「ちゃんと受け継げているかわかりませんが、最後に私が一緒にいたというのは、『戸田さん見とけよ』と言われたような気もします。今できることを精一杯やる。最後の最後まで先生はそうだったなと、いつもそのことを思い出します」
●“人生の師”を亡くした喪失感からアンパンマン声優卒業も考えた
2013年10月13日にやなせさんが亡くなった際には、深い喪失感からアンパンマン声優を「もうやれない」と卒業も考えたという。
「親が亡くなった時とも違う喪失感がありました。先生は人生の師みたいな感じで、私は30歳になってからアンパンマンと出会い、やなせたかしという大きな傘の中に入ってやらせていただいて、個人的にも仲良くさせていただいていたので、亡くなった時は、この大きな傘がなくてやっていけるのかなという気持ちに。やる気が出ないという自分のわがままでしたが、世代交代でいつか変わる時もあるだろうし、ちょうどいい区切りだと思ったんです」
だが、2014年の正月に「仙台アンパンマンこどもミュージアム&モール」を訪れた際、子供たちの姿を見て、アンパンマン声優を続けていくことを心に決めた。
「震災以降、毎年お正月にボランティアで仙台に行っているのですが、その時にいつもと変わらず子供たちがアンパンマンの着ぐるみに突進してきて、『アンパンマン!』と言っているのを聞いて、私は何を思っていたのかなと。子供は誰が亡くなろうが、目の前にアンパンマンがいたらそれに向かってくる。大人の事情は子供には関係ないという一心で、やろうと思い直しました。大きな傘は失ったけど、みんなで小さい傘をさして大きな傘にしようと」
そして、戸田は『アンパンマン』は「100年続けられる」と断言する。
「声優は交代していきますが、テーマが変わらないので番組は100年いける。偉大なるマンネリがいいですよね。やなせイズムが番組の中にずっとあるから、いつの世代のお子さんにも自信を持って届けられると思います」
もちろん戸田もできる限りアンパンマンの声を続けていくつもりだ。「何か変わったことが起きなければ、やらせていただきたいです」と述べた。
■戸田恵子
1957年9月12日生まれ、愛知県出身。小学5年生の時からNHK名古屋放送児童劇団に在籍し、1969年にドラマ『中学生群像』で子役デビュー。1974年にはあゆ朱美の芸名でアイドル演歌歌手デビュー。1977年に劇団・薔薇座に入団し、看板女優として活躍。