フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。
○大阪の「おじちゃん」
軍などから相次ぐ写真植字機の注文を受けながら、石井茂吉が横組みの送り量を改良したり、あたらしい書体の制作に取り組んでいた1938年 (昭和13)、大阪の森澤信夫は、津和親子に最初のネジ工場を明け渡し、久金属工業の久庄次郎社長や、福田製鋲所の福田専蔵社長の助けによって大阪市西成区津守町でネジ製造事業を再開していた。翌1939年 (昭和14) にはトヨタ自動車にネジを納品するようになるなど順調に業績をのばしていたことは、本連載 第60回「ネジ工場ふたたび」でふれたとおりである。
1933年 (昭和8) 春に東京・写真植字機研究所の茂吉のもとを飛び出し、大阪で1年ほど写植店、その後、ネジ工場を経営していた信夫は、これきり茂吉とケンカ別れしたかのようにおもわれがちだが、ふたりの絆はそこで完全に切れたわけではなかった。
東京時代は石井家の向かいにあった四軒長屋に住まい、三度の食事は石井家とともにとっていた信夫 (本連載 第26回参照) は、いくや子どもたちから「おじちゃん、おじちゃん」と呼ばれ、慕われていた。信夫は大阪に移ったあとも石井家、とくに子どもたちのことを気にかけており、折りにふれお菓子やおもちゃを贈っていた。[注1]
○信夫からの仕事
写真植字機研究所時代に機械の製造責任者をつとめていたのは信夫で、茂吉はレンズと文字盤をおもに担当していたから、東京と大阪にふたりが離れたあとにも、機械について信夫の意見をもとめることがあったようだ。だから茂吉は写真植字機を出荷するごとに、信夫に対して律儀に特許料を送りつづけていたし [注2] 、そうした相談ごとなどもあって、ふたりは大阪と東京をたがいに行き来したりもしていた。(本連載 第60回参照)
そうして連絡をとりあっていたため、写真植字機研究所の困窮が続いていることは信夫に伝わっていた。そして1938年 (昭和13)、信夫は茂吉のために、久金属工業からペイントを入れる製缶機2台の注文をとり、仕事を斡旋した。信夫いわく〈東京から石井茂吉が、植字機も思うように売れない、なにかいい仕事はないか、と相談にやってきた〉からだった。[注3]
ところが1938年は、すでに写真植字機の注文がつぎつぎに入りはじめ、写真植字機研究所はその製造に追われていた。
しかし、信夫がせっかくとってくれた注文である。茂吉は、製造に着手した。だが結局、この製缶機はできあがらず、未完成の状態で信夫あてに送られた。モリサワの記録によれば、1940年 (昭和15) のことのようだ。この年、石井家が信夫のネジ工場 (大阪市西成区津守町) を訪ねた仲睦まじい写真が残っている (再掲) 。子どもたちの笑顔が、両家の親密なつきあいが続いていたことを物語っている。[注4]
(つづく)
※しばらく、毎月第2火曜日の更新となります。
次は11月11日更新予定です。
[注1] 取材・資料協力:モリサワ
[注2] なお、茂吉が信夫に送っていた特許料の金額は、写研とモリサワ双方の資料で食い違いがある。『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.154 には〈機械の出荷ごとに百五十円〉、馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 p.136には〈石井は機械が売れると、特許料だといって、五百円ずつたびたび森沢に送ってきた〉とある。
[注3] 馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 pp.139-140、『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.154
[注4] 本稿は、『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.154、馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 pp.139-140 および、モリサワの取材・資料協力によって執筆した。
【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974
【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ