坂上泉氏の同名小説を実写ドラマ化した『連続ドラマW 1972 渚の螢火』(毎週日曜22:00~ ※全5話、第1話は無料放送)が、10月19日からWOWOWで放送スタートする。舞台となるのは、本土復帰直前の1972年の沖縄。
――非常に意義深い題材の作品ですが、高橋さんの出演の決め手は?
『1972 渚の螢火』は、歴史的な史実を土台にしてはいるんですけれど、娯楽であるドラマでこれをやるのは可能なのかということを最初に考えた上で、「うん、やれそうだな」「平山さんだから大丈夫だな」と思えた、というのがこの作品に参加した理由です。
考えていること自体はほぼ同じでも、置かれた立場や出力の仕方でこれだけ異なってくるんだ、ということがキャラクターごとにしっかり描かれています。何が良い、何が悪い、というところまでこのドラマを観ている人たちが想いを巡らせられたら、娯楽として成立するかなと思ったんです。
――舞台は1972年の沖縄。高橋さんが生まれる前の時代ですが、どれくらい関心がありましたか?
僕はもともと沖縄が好きで、プライベートの旅行でも行っていたので、歴史的な背景は感じていたんです。1日で信号が変わってしまったとか、右側通行になってしまったとか、知識としてはわかっていたけれど、実際に芝居で疑似体験してみるとだいぶ変わってきます。
現地の人にできる限り話を伺いたいなと思っていたら、その場に居合わせた方や、コザ暴動に参加した人など、実際に沖縄本土復帰"前夜"を経験した方々に偶然出会えて。
○自分が感じる当時の沖縄の彩度が上がっていった
――お聞きになったお話の中で特に印象的なエピソードはありますか?
アメリカの米軍基地に"戦果アギヤー"として盗みに入って捕まった子どもがいたんだそうです。厳しく罰せられたとか、場合によっては殺されてたかもしれないというような背景が普通にあると思うじゃないですか。
でも実際は応接室みたいなところに連れていかれて、ポップコーンサイズぐらいのコーラを出されて、「これをイッキ飲みしたら帰してやる!」と言われた、と。つまり、「歴史ではこうだ」と伝わっていることも、自分で調べてみないと実際のところはわからないし誰に聞いたかにもよる。一般論で"アメリカはこうだった"とひとくくりにすることはできない。実際は個として向き合ってるんです。現地でひと月過ごしてさまざまなお話を聞いていく中で、どんどん自分が感じる当時の沖縄の彩度が上がっていきました。そのことに今回とても助けられたなと思っています。
――今回演じられた真栄田太一という人物を、どのように捉えましたか?
劇中で、「真栄田、それじゃ伝わんないよ」と言われているのと同じようなことが、過去の僕にもありました。つまり、与那覇が真栄田を評する時のように、「あいつは本当に何を考えているのかわからなかった」と僕自身もよく言われていたので、シンパシーを感じていました。
恐らくその根底には、照れくさいとか、あまり説明したくないという思いがあって、真栄田としては、"語ってもどうせわかってもらえないだろう"と、感じていたのではないかと。
いろんな価値観がどんどん入ってくる中で、自分がこうだと信じているものがあったとしても、そこに自分とは別の考えを持っている人が現れた時に、確固たるものであったはずの自身のアイデンティティが揺れてしまう。真栄田はそういう意味ではとても素直で、取り繕ったり、虚勢を張ったりしない。いい人間だなと思いながら演じました。
――もともと八重山出身の真栄田が、一度進学で東京に出て仕事でまた沖縄に戻り、「自分は何者か」と葛藤する姿は、ご自身の俳優としての在り方にも重なりますか?
もちろんそういう部分もあると思うんですけれど、もっと引いてみると、あの時代の日本というのは国家としてもアイデンティティに揺れていたと思うんです。僕の中での真栄田像と、当時の日本が置かれていた状況が重なる部分がある。彼の中には日本の縮図的なものが詰まっていたんじゃないかと思います。
思想のぶつかり合いの中で、"もしかしたら国を転覆できるんじゃないか"と思っていた人もいた。そのぐらいアイデンティティが揺れていた時期だと感じます。
「日本人が日本人として生きていくためには…」「うちなんちゅ(沖縄生まれの人)として生きていくためには…」というのは、当時、それぞれが思っていたことなんじゃないかなと感じるので、そのことは意識的に考えて臨んだ気がします。
――沖縄への愛が深すぎるがゆえに、元同級生だった真栄田を敵対視する、琉球警察・捜査一課の班長、与那覇を演じた青木崇高さんとの共演はいかがでしたか?
与那覇との共演シーンは多いんですが、中でも一番印象に残っているのはトイレで「真栄田太一!」と声を掛けられるところ。"過去の何か"がちょっと匂ってしまうようなシーンで、この二人がどういう関係だったのかが想像できる感じがしたんです。
与那覇と真栄田がぶつかるシーンで、小林薫さん演じる琉球警察のベテラン刑事の玉城泰栄さんに「そう思ってるってことはお前も変わんないんだよ」と言われた時の与那覇の顔を見て、人って本当に"出力の違い"だけでここまで誤解が広がるんだなという感覚を得ることができました。そこから少しずつ、ぶつかりながらもやがてよき相棒となっていく流れは、毎シーンとても印象に残っています。
青木さんとは、撮影中でもプライベートでもずっと一緒にいました。ご飯を食べに行って、お互い「あの作品をやってる時ってどうだった?」と話したり、東京に戻ってからも自宅に招いて食事をしたりもして、だいぶ仲良くなったかなと思います。素敵な出会いでした。
○ドキュメンタリーのようにはしたくなかった
――平山秀幸監督への強い信頼感が伝わってきますが、現場ではどのようなコミュニケーションを?
僕はお芝居をするにあたって演技プランを事前に用意することは基本的にないですし、たとえあったとしても自分から「こうしたいんです」ということは言いません。俳優にとって、"お芝居で提示することがすべて"だと思っているので。平山さんは、僕の芝居を受け取って、「一生、それだと多分伝わんないわ」ということもストレートに言ってくださる方なので、とても信頼できます。まさにお芝居で"対話"していた感じです。
真栄田は、感情が分かりづらい人間なんです。もともと、主人公だからといって感情がわかりやすく伝わるようなキャラクターには設定されてなくて。ほんの一瞬の感情の発露から逆算して感情を拾っていったので、それがどこまで伝わるか常に意識していました。
――沖縄の言葉(うちなーぐち)の扱い方も印象的でした。
沖縄の方言指導を担当され、出演者でもあるベンビーさんに、「正確なうちなーぐちにしたくないんです」とお話ししました。長い東京生活の末、自分がどこの人間なのかということがわからなくなり取り返しがつかなくなっている真栄田の状態を、一瞬の言葉で出せないかと。思い、わざとうちなーぐちと標準語が混じっているようにしたいとお伝えしました。
「このくらいだったら混ざっても大丈夫ですよね」とか、「これだったら思いっきり話してる感じには聞こえないですよね」と、バランスを取りながら調整していました。
――完成した作品をご覧になって、どんな印象を持たれましたか?
まず、"ちゃんとドラマになっていた"というのが一番安心したところです。僕はこの作品をドキュメンタリーのようにはしたくなかったんです。もしそうなってしまうと、ドラマとして作る意味がなくなってしまうと思っていたので。
見ている方の想像する余白がちゃんと立ち上がくるような物語になればいいなと思いながら撮影に臨んでいましたが、完成した作品を見て、その"余白"がきちんと提示されていたように感じました。そこは少し胸を撫で下ろした、という気持ちです。
――お話を伺っていると、高橋さんは俳優として、"言葉が持ち得る力"というものにとても敏感なように感じたのですが、インタビューという場をどう感じていますか?
普段、日常生活を送る上で「こういった事象に対して自分はこんな風に考えているんだ」と自分の思いや考えを発語するタイミングはほぼないですから(笑)。取材で話すことで、初めて自分の考えが自身の脳に定着していく部分がある。
ただ最近、舞台挨拶などで発言した際、ごく表面的な部分だけが思わぬ形で拡散されることもあって、ある意味それは社会の映し鏡でもあると思うんです。つまり、それを発信する側も受け取る側も、思考する余裕を失いつつあるのではないか……と感じることがあります。これは上から目線でも何でもなくて、何に対しても一人ひとりが考えることをやめてしまうと、いずれ社会全体が衰退する方向に向かっていくような気がするんです。僕がお芝居であえてわかりやすい"ガイド"を与えすぎないようにしている理由も、実はそこにあって。想像する余白があった方が、より豊かに見えるんじゃないかと思っています。余白の部分から、何をどこまで読み取ってもらえるか。相手を信じて委ねる行為でもあるんです。