フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。
リリース開始の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)

○日中合弁印刷会社からの注文

写真植字機研究所は1939年 (昭和14) 、中国・北京に設立された日中合弁の印刷会社・新民印書館に写真植字機を2台出荷した。当初1台の注文だったものが、ある理由から運搬中に機械が故障し、すぐさまもう1台が代わりの機械として出荷されたのだ。[注1]

新民印書館は、平凡社社長の下中彌三郎 (1878-1961) が中心となって1938年 (昭和13) に創設した会社だ。1937年 (昭和12) 7月7日に盧溝橋で日中両国が衝突したことに端を発し、日中戦争が始まっていた。中国では日本の侵略的行動に対し、日本製品の不買・ボイコットに始まった排日運動が起きていたが、さらにそれは抗日運動へと激しさを増していき、小中学校の教科書にもそれが反映されるようになっていた。

そこで、中国との関係を打開するため、中国・華北で教科書会社を建設する動きが日本国内で企図された。この事業を企画し、創立に奔走したのが、教科書に「善隣・友好」を基調とする根本思想をもっていた平凡社社長・下中彌三郎である。下中は共同印刷社長・大橋光吉の全面的支持を受け、急速に計画を進めた。[注2]

1938年 (昭和13) 春、下中は北京に渡り、旧知の仲で当時奉天満州共同印刷の工務部長をつとめていた和田栄吉 (1894-1984) [注3] の協力のもと、冀東 (きとう) 地区小学校教科書の編集・出版・配給などをおこなっていた東亜文化協会の飯河道雄と会談。東亜文化協会の組織をそのまま吸収することで合意して、新民印書館の構想がまとまった。

日本側は民間の出資、中国は政府の出資という構想も、下中のなかにはあった。
初代社長には池宗墨、常務理事に張漠槎、ほか4人の役員が中国側から就任。日本側からは取締役副社長に下中彌三郎、専務取締役に満州共同印刷の安永秀雄、常務取締役には共同印刷の大橋光吉のほか、田中荘太郎 (元総領事) 、井上源之丞 (凸版印刷) 、青木弘 (大日本印刷) と、大印刷会社の面々が下中への協力で参加した。役員となるはずだった元東亜文化協会の飯河道雄は、長らく抱えていた持病のため、急死したあとだった。[注4]

こうして新民印書館は、中国・華北三省 (山東、河北、山西省) のほか、河南省や蒙疆地区にまで小・中有学校の教科書を発行し、配給する目的で設立された。そのほか、政府や軍、各官庁、機関刊行物の出版ならびに印刷、一般出版、日満諸刊行物の取次販売などがおもな業務だった。[注5]

○堂々たる印刷工場

新民印書館の規模は堂々たるものだった。敷地は約1万2,000坪、建坪約3,000坪、テニスコート5面、野球場、バレーボールコート2面、サッカー場も備えていた。従業員は約1,700人、そのうち日本人は200人。機械設備は活版印刷機76台、グラビア印刷機3台、オフセット印刷機10台、断裁機15台、活字自動鋳造機13台だ。[注6]

機械をそろえるにあたっては、購入委員会が結成された。平凡社の斎藤道太郎、凸版印刷の倉田課長、共同印刷の大橋松雄専務、大日本印刷の片山技師長などの顔ぶれだ。2色刷りの自動オフセット印刷機が3万円前後で購入できる時代に、日本側の払込金の大部分にあたる100万円を予算として買い物をしようという話に、各社各人のさまざまな策動があり、中古の機械を現物出資に振り替えようとする動きもあったが、これらは斎藤が封じこめた。
折しも、1938年 (昭和13) は国家総動員法が公布された年である。物資の配給統制が目前に迫っていたので、購入を急がなくてはならなかった。

大規模な活版印刷工場をひらこうというのだから、必要とされる活字や組版設備の準備にはそうとうな時間がかかる。下中は大正時代に数年間、満州と東京で東亜印刷という印刷会社にたずさわったことがあり、活版組版工程の煩雑さをよく知っていた。そこで下中は、機械設備の検討が停滞していているのを横目に、工務部長兼活版主任の和田に10万円の資金を渡し、3台の活字自動鋳造機と5人の中国人技術者によって、あたらしい会社で必要とするだけの活字や、組版設備の整備を先に進めていた。この根回しのよさにより、機械設備が決まり東京から順次搬入されるころには、活版組版の工場はほぼ完成されていた。[注7]
○機械の買い付け

新民印書館の工場責任者だった和田は、任された事業の規模の大きさに〈印刷界始まって以来の教科書印刷専門工場の設備をしてやろう〉とたいへんな意気込みを示した。機械設備は購入委員会が設立されたとのことだが、和田の人物評伝記事では〈和田さんは半ば独断的に、いっぺんに機械類 (オフセット五台、活版数台) を購入してしまった。「勝手な男だ」と井上さん (筆者注:凸版印刷社長) の逆鱗にふれたが、二ヵ月後に鋳物などの統制下に入ったから、結果はけがの巧妙 (ママ) だった〉ともある。[注8]

和田は用紙も5万連ほど購入し、工場は活気に満ちた。のちに東京から視察に来た同業者は、その英断ぶりに驚いた。[注9]

設備を見れば一目瞭然だが、新民印書館は活版印刷を主力とした印刷会社だった。
そして、このころの和田は完全な活版人だった。その新民印書館が写真植字機を導入しようとかんがえたのは、なぜだったのだろうか。和田は後年、こう語っている。

〈北京に新民印書館を創り、共同や凸版から百人ぐらいの技術者を送りこんだ時に、活版の機械だけで70台、鋳造機を16台設置した。その時に写研の石井茂吉さんが写植機を売りこみにやってきた。何しろ私は150万円の現金を握っていて好きなように機械を買っていた時である。石井さんは2千円ぐらいの写植機のことでグダグダ言ってくるんで非常に困った〉[注10]

冒頭に写真を掲載した注文書を見てもわかるように、実際の購入金額は写真植字機と文字盤一式で5,000円なのだが、これは40年後のインタビューなので、和田の言う金額や機械の台数などに揺れがあるようだ。しかし、和田が責任者として機械の買い付けをしていたときに、茂吉が写真植字機の売りこみに来たというのは、写研の資料には記述がないものの、ありえることだろう。
○冷たいあしらい

こうして、おそらく1938年 (昭和13) 、新民印書館から写真植字機1台の注文が入った。写真植字機研究所は翌1939年に出荷したが、折り悪く天津駅で洪水に遭い、貨車のまま水びたしになって故障してしまった。連絡を受けた写真植字機研究所は、すぐに代わりの1台を発送した。

そして茂吉自身も、機械の状態を確認すべく、並木幸三とともに北京に渡った。
彼らが新民印書館に着いてみると、出荷した写真植字機は2台とも到着していた。

和田はじつは、十数年後の1951年 (昭和26) には写植専門会社フォトタイプを創立して社長になるなど、写真植字の良き理解者となるのだが、なにしろこのころは、前述したように生粋の活版人である。しかも、新工場を軌道に乗せるために多忙をきわめていた時期だ。日本から駆けつけた茂吉に、冷たく言い放った。

〈写植機など入れても大して使い道がない。せっかく内地から二人で来てくれたんだから一台だけ組み立てていってくれ、写植機に向く仕事があるか、ないかわからんが……〉[注11]

茂吉が確認すると、洪水で水びたしになった写植機も精密部分はぶじだった。このため「2台組み立てます」と申し出たが、「その必要はない」との一点張りだ。

今回を逃したら、茂吉はもう来られないかもしれない。並木とふたりそろっているいまのうちに2台とも組み立てておけば、いつか役に立つときがくるはずだ。茂吉がそう和田に伝えても、〈そんな時はおそらくないだろうね〉と取りつくしまもない様子だった。

それでも茂吉と並木は1週間かけて2台の写植機を組み上げた。帰国しようとする茂吉に、並木は泣きついた。


〈こんなところには、とても一人ではおれません。先生といっしょに内地へ帰りたい〉[注12]

そこで茂吉は、新民印書館の専務で、元北京総領事だった田中荘太郎 [注13] に和田とのやりとりの一部始終を話し、協力を求めた。

〈二人ともこれで帰ってしまえば、二台の機械は必ず宝の持ちぐされになってしまいます。それはわたくしの本意ではないし、機械もかわいそうです。何とかうまく動かせるよう並木の支援をお願いします〉[注14]

田中が後事を約束してくれたので、茂吉は並木を残し、日本に戻った。
○認められる写真植字機

結局、並木は1941年 (昭和16) 8月まで新民印書館におり、その後、加藤製版印刷から写真植字機研究所に入所したばかりだった浅野長雅と交代した。その浅野も1943年 (昭和18) 2月に、満州の興亜印刷を退社して写真植字機研究所に入所していた佐藤行雄と交代した。

新民印書館で、並木や浅野、佐藤らは、活版部のひとたちから足手まといとおもわれぬよう、ひとの3倍は働いた。できるだけ多くのしごとを写植にまわしてもらい、無理だとおもうようなものもあえて引き受けて、徹夜をしてでもまにあわせた。

こうした彼らの努力によって、当初は写植にまったく理解を示さなかった和田や周囲の人々も、写真植字機の良さを次第に認めるようになっていった。[注15]

前述の40年後のインタビューを見ると、和田が当初、茂吉に冷たく接したのは、かならずしも写真植字機への評価が低かったからではないようである。このころの和田は「たかが数千円の機械なのだから、水びたしになったものなど放っておけばいい」という気持ちだったのではないだろうか。


〈そこで冷たくしたところ、今の写研から出ている刷り物にはみんな「和田さんは最初冷たかった」と書いてる〉
写真植字の良き支持者となっていた40年後の和田は、おそらくは笑い話として、そう語った。[注16]

(つづく)

※次回から、隔週更新となります。
 次は12月23日更新予定です。

[注1] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.157

[注2] 久田龍二「新民印書館時代」『東京印書館の50年』東京印書館50周年社史編纂委員会 編纂、東京印書館 発行、1998 p.284
『下中彌三郎事典』下中彌三郎伝刊行会 編集、平凡社 発行、1965 p.180

[注3] 和田栄吉 (わだ・えいきち / 1894-1984) 明治27年2月3日生まれ。長野市出身。小学3年のとき上京。東京八丁堀文化小学校卒業。その後、郁文館、京北、京華の3中学校を9年かけて卒業。新聞学院などを経て萬朝報新聞工場に勤務。30歳のときに独立、週刊紙専門の印刷工場を横浜市で創業し、昭和のはじめまで経営。1932年 (昭和7) ごろ満州にわたり、共同印刷満州支社の創立に参画。その後、下中彌三郎らと協力し、新民印書館を創立。この間、工務部長~常務取締役。1945年 (昭和20) 5月帰国し、東京印書館の創立に携わり、副社長に就任。1956年 (昭和26) 写植専門工場フォトタイプ社を創立し、社長に。のちに病のため退社。1958年 (昭和33) 春、東京写真植字工業協同組合創立と同時に初代理事長に就任した。
「写真植字の企業化 和田栄吉氏を訪ねて」『印刷界』(67) 1959年6月号、日本印刷新聞社、1959 p.61より

[注4] 久田龍二「新民印書館時代」『東京印書館の50年』東京印書館50周年社史編纂委員会 編纂、東京印書館 発行、1998 pp.284-286

[注5] 北支那経済通信社 編『北支・蒙疆年鑑』昭和16年版、北支那経済通信社、1940 p.331 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1874842 (参照 2025-05-24)
『下中彌三郎事典』下中彌三郎伝刊行会 編集、平凡社 発行、1965 pp.180-184

[注6] 久田龍二「新民印書館時代」『東京印書館の50年』東京印書館50周年社史編纂委員会 編纂、東京印書館 発行、1998 p.286

[注7] 『下中彌三郎事典』下中彌三郎伝刊行会 編集、平凡社 発行、1965 pp.180-184

[注8][注9] 「人物評伝 和田栄吉さん 新民印書館を設立」『印刷界』(75) 1960年2月号、日本印刷新聞社 p.39
「連」とは、ある一定の寸法に仕上げられた紙1,000枚のこと。5万連=5,000万枚

[注10] 『ぷりんとぴあ』《復刻》・印刷史談会〈23〉和田栄吉「大正八年の幻の争議」印刷図書館 印刷史談会、史談会開催日1978年(昭和53) 11月29日 https://www.jfpi.or.jp/printpia/topics_detail21/id=3769 (参照 2025年6月8日)

[注11][注12] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.157-158

[注13] 『石井茂吉と写真植字機』では「田中壮太郎」となっているが、ここでは 久田龍二「新民印書館時代」『東京印書館の50年』東京印書館50周年社史編纂委員会 編纂、東京印書館 発行、1998 p.286 の表記にならい「田中荘太郎」とした。

[注14] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.158

[注15] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.157-159
「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.42

[注16] 『ぷりんとぴあ』《復刻》・印刷史談会〈23〉和田栄吉「大正八年の幻の争議」印刷図書館 印刷史談会、史談会開催日1978年(昭和53) 11月29日 https://www.jfpi.or.jp/printpia/topics_detail21/id=3769 (参照 2025年6月8日)

【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965
「文字に生きる」編集委員会 編『文字に生きる〈写研五〇念の歩み〉』(写研、1975)
久田龍二「新民印書館時代」『東京印書館の50年』東京印書館50周年社史編纂委員会 編纂、東京印書館 発行、1998
『下中彌三郎事典』下中彌三郎伝刊行会 編集、平凡社 発行、1965
「人物評伝 和田栄吉さん 新民印書館を設立」『印刷界』(75) 1960年2月号、日本印刷新聞社
『ぷりんとぴあ』《復刻》・印刷史談会〈23〉和田栄吉「大正八年の幻の争議」印刷図書館 印刷史談会、史談会開催日1978年(昭和53) 11月29日 https://www.jfpi.or.jp/printpia/topics_detail21/id=3769
「写真植字の企業化 和田栄吉氏を訪ねて」『印刷界』(67) 1959年6月号、日本印刷新聞社、1959

【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ
編集部おすすめ