フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。
リリース開始の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)

○相次ぐ注文

1940年 (昭和15) 以降も、写真植字機の注文は続いた。ここで戦前の写真植字機の注文台数をまとめてみると、つぎのとおりだ。

写研の文献である『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』には〈戦前の出荷台数が、すべてで八〇台近く〉となっているが、表の出荷台数合計は70台なので、掲載されていない注文が若干あるのかもしれない。たとえば、後述する凸版印刷発注のコルフ印刷工場向けの写真植字機について1942年 (昭和17) に10台の注文書が残っているが、この分は『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』pp.48-49には入っていないように見受けられる。[注1]

さておき出荷台数をまとめた表を見ると、当初は民間企業が購入していたのが、徐々に軍関係や官庁が導入するようになり、日中戦争が始まった1937年 (昭和12) 以降は植民地関係者がおもな注文者となっているのがわかる。

この当時、印刷の主流は鉛活字をもちいた活版印刷だった。本連載第74回に書いた日中合弁印刷会社の新民印書館のように、あたらしい工場を立ち上げるにあたり大規模な活版印刷工場の設備を一からそろえた例もあるが、それを行なうには資金力と広大なスペースが必要で、たいへんな手間と時間もかかる。活字母型 [注2] をそろえ、鋳造機を設備すれば、印刷に使用する鉛活字数十万本を日本から運ぶ必要はないが、しかしそれにしても、母型メーカーから各書体・各サイズの母型をあわせて数万本を購入する必要があるのだ。

そうかんがえると、ガラスの文字盤1枚に数千字を収容し、文字の大きさも変えられる写真植字機に、軍や植民地関係者が着目したことはうなずける。印刷は、文化的側面でとらえがちだが、戦争や植民地政策においても必要不可欠なものだった。

ことに満州、朝鮮、中国への出荷が目覚ましかったのは、前掲の表に挙げたとおりである。
1940年 (昭和15) に大日本印刷が市ヶ谷工場に4台導入しているが、これも実際は南方向け日本語教科書やタイ語の日本紹介誌、衣料その他の配給切符などをつくるのに使われた。

1941年 (昭和16) ごろには、タイ語の文字盤もつくられている。これは、文字を文字盤上に横向きに配置したものを縦組みで打つことで横組みにするという、めずらしいものだった。当時の石井式写真植字機では横組みより縦組みのほうが打ちやすかったためだ。[注3]

写真植字機は、かつて1939年 (昭和9) に満州・公署印刷局に導入され、おおいに活用された実績 (本連載第63回参照)が買われ、日本国内よりも海外植民地において、より一段と活躍したのだ。[注4]

いっぽうで、強化される戦時体制のなか、写真植字機研究所の技術者はつぎつぎに軍隊に召集されていった。軍の証明で最小限の資材は鉄鋼統制会から配給があったが、労力が足りない。雇入制限令によって、新規採用も困難だった。

1941年 (昭和16) 12月、太平洋戦争に突入。
事態はさらに深刻さを増した。
注文は入れども、写真植字機の出荷ペースは急激に落ちていった。[注5]
○写植機、南方へ

写真植字機が南方に渡ったのは、そんな時期だった。
1941年 (昭和16) に凸版印刷に2台納入された機械は、同社が翌1942年 (昭和17) にジャワ島のジャカルタに運び、コルフ印刷工場で稼働させるためのものだったのだ。この工場は、日本軍が同年2月にジャワを占領した際に接収されたものである。当初、軍は朝日新聞社に管理させ、現地向けの日本語新聞やインドネシヤ語新聞を発行させていたが、やがて軍政を敷くにあたり、より広範囲の印刷物が必要となったため、幅広い印刷を手がける凸版印刷に管理を委託したのだった。

オランダ領時代、ジャワ随一の政府直轄印刷工場だったコルフ印刷工場には、印刷機はもちろん、自動欧文組版機 (モノタイプ) や製本機、果てはインキ製造設備まで設置されていたが、日本語の活字は置かれていなかった。新たに広範囲な印刷をするにあたり、それをまかなえるだけの活字を一からそろえるのは大変だが、写真植字機ならすぐに組版設備が整えられる。そこで日本から写真植字機が運ばれることになったのだ。

1942年 (昭和17) 11月5日、写真植字機は39名の一行とともにジャワに発った。そのなかには、凸版印刷の要請で同社南方室に写植技術要員として籍を置いていた並木幸三 (元写真植字機研究所所員) の姿もあった。凸版印刷は翌1943年 (昭和18) にもう一名の派遣を要請してきたので、茂吉は北京・新民印書館にいた浅野長雅をジャワに向かわせた。[注6]

コルフ印刷工場は写真植字機によって、一般の印刷物だけでなく、宣撫用文書やたばこケース、軍票、切手類、はがきなど、さまざまなものを製作した。並木は凸版印刷の資材課長として活躍し、浅野は写植機を稼働させた。〈中国語が話せたことと華僑を使用する上で、充分な働きができた〉と並木は語っている。
[注7]

並木が言うように、ふたりは中国人を助手に、これらの仕事に真摯に取り組んだ。ふたりの働きで、南方ジャワにおいても写真植字機はおおいなる実績を上げ、広くその性能が認められた。

やがて後継者ができると浅野は同じジャワのバンドン工場に配属され、ニックスという活版工場の運営を任された。並木も別の職場へと移っていった。[注8]

浅野長雅――茂吉を支えたひと


浅野長雅はのちに〈先生 (筆者注:石井茂吉) のまわりには、いつも奥さんとお嬢さん (今の社長) (筆者注:裕子) と浅野さんがいた〉といわれた、茂吉を近くで支えた所員のひとりだ。[注9] もともとは街なかの民間印刷所として初めて写植機を入れた加藤製版印刷所の社員で、印刷の仕事のかたわら写植を覚えた。しかし彼のなかには、好きな絵の道に進みたいという思いがあった。そこで、将来商業美術でやっていこうと決意して、会社を円満退社。友人の紹介で中外製薬宣伝部に入社手続きの最中だった1941年 (昭和16) 1月、茂吉の妻・いくが訪ねてきた。一度、茂吉に会うようにというのだ。

浅野は王子堀船の茂吉宅を訪ねたが、いっぽうで、どうして茂吉といくが自分に声をかけたのか、不思議でならなかった。しかし茂吉は、加藤製版印刷所に写真植字機研究所からの指導者がだれもいなくなったことを把握しており、そこで写植を続けていたのが浅野だということも、ちゃんと知っていたのだ。
機械を売ればそれで終わりではなく、写植機の将来につねに気を配っていたからである。

訪ねてきた浅野に、茂吉はこう言った。

〈世の中にはたくさんの職業があるが、まったく新しい仕事として、この機械とともに進展を図ることは、君がこれから絵を学んで一つの道を切り開こうとすることと同じくらいのむずかしさがある。この仕事は機械製作、原字制作とともにそれを生かして使う人の心構えが重要だと考える。キーや表示板を通してオペレーターの発揮する構成美、それらは単に文字の羅列であってはならない。君の考える通り将来日本の印刷物をより美しくするということは、もちろん商業美術家たちの協力による必要があるが、この機械を通して広く出版印刷物に寄与することはだれにでもできることではないと思う。君が商業美術をこれからやろうという心構えを、写植を通して生かしてみてはどうか〉[注10]

かたわらには、いくも長時間同席し、仕事の話をしてくれた。石井夫妻の仕事に対する信念と抱負の強さに深く感銘を受けた浅野は、写真植字機研究所に入所した。そして1941年 (昭和16) 8~9月ごろからの北京・新民印書館での勤務を経て、1943年 (昭和18) 、ジャワのコルフ印刷工場に向かったのだった。

ジャワへの渡航にあたり、茂吉は〈現地での写植の活動を期待する。銃をとることがお国のためというが、君は写植のキーを握ってお国につくせ、遠い異国での活躍を期待する〉と励ました。そして短冊をとり、さらさらと筆を走らせて、浅野に渡した。
そこには、俳句がしたためられていた。

「スコールを衝いて心強さよ君が船」

浅野は〈この短冊にわたしはどれだけ励まされたことか〉と語った。ジャワへ持っていき、帰国の際には持ち帰って、大切にした。[注11]

浅野が語っているように、茂吉は当時写植機を出荷する際、かならず技術者をともに派遣し、導入先が写植機を活用できるようサポートした。しかし1941年 (昭和16) は機械の出荷が相次ぐのにともない研究所員の派遣が続いたのと同時に、所員たちがつぎつぎと軍隊に召集されていた時期だった。だから茂吉は、加藤製版印刷所で写植を打っていた浅野が退社したことを聞き、すかさずスカウトしたのだろう。このころはまだ機械は手づくりに近い状態だ。大切につくった機械が導入先で定着するよう、茂吉が心を砕いていたことが伝わってくる。

(つづく)

※本連載は隔週更新となります。
 次は1月6日更新予定です。

[注1] 「文字に生きる」編集委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.49。なお、『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.181には〈戦前の出荷台数八〇台〉とある。
いっぽう、『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965に綴じこまれている年表には、1940年の欄には〈二十年の敗戦時まで百台近くを出荷する〉とも記載されており、戦前あるいは敗戦時までの写真植字機出荷台数の記録には、文献や記述個所により多少の揺れがあるようだ。また、おなじく『追想 石井茂吉』年表の1937年の欄に〈陸海軍より十数台の注文あり〉と記載があるが、これが『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』出荷一覧のどれかに当てはまるのか、それとも抜けている分なのかは判断がつかない。もし抜けている分だとすれば、〈戦前の出荷台数八〇台〉との差分にあたるともかんがえられる。

[注2] 活字母型 (ぼけい) :活字鋳造機にセットする活字の型。母型があれば、鋳造機によって何万本でも鉛活字をつくることができる。しかし、明朝体やゴシック体といった書体ごと、使用する活字の大きさごとにすべてをそろえる必要があった。

[注3] 「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 pp.42-44
石井式写真植字機は、1936年 (昭和11) 以降、1945年 (昭和20) までに出荷された写真植字機を指す。1936年から「石井写真植字機研究所」を正式名称としていたため。

[注4] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.156-157
「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 pp.40-42

[注5] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.159

[注6] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.160-161
「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.42

[注7] 浅野長雅「写植を“ポピュラー”なものにしたかった」pp.18-19、並木幸三「『機械』と『文字盤』を仲介」p.26、『月刊印刷時報』476号「写植60年を振り返って」、印刷時報社、1984年2月 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11434939 (参照 2025-10-02)

[注8] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.161、浅野長雅「写植を“ポピュラー”なものにしたかった」pp.18-19、並木幸三「『機械』と『文字盤』を仲介」p.26、『月刊印刷時報』476号「写植60年を振り返って」、印刷時報社、1984年2月 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11434939 (参照 2025-10-02)

[注9] 山岡謹七「紫雲に乗って活躍された先生」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 p.168

[注10] 浅野長雅「永遠に生きておいでの先生」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 pp.189-190
※刊行当時、浅野は写真植字機研究所 常務取締役

[注11] 浅野長雅「永遠に生きておいでの先生」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 pp.190-193

【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965
「文字に生きる」編集委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975
『月刊印刷時報』476号「写植60年を振り返って」、印刷時報社、1984年2月 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11434939 (参照 2025-10-02)

【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ
※特記のない写真は筆者撮影
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