2008年に初開催した「放送禁止」は2,000万円の赤字

「俺の中では、ブームが終わって来てるね。コメンテーターブーム、終わりだな」

千原ジュニアのYouTubeチャンネルに出演したカンニング竹山は、芸人仲間と酒を酌み交わしながら、そんな本音を吐露した。情報番組やワイドショーで数々のトークテーマと向き合い、ときに炎上の渦中にも立ってきた竹山が、なぜ今そう感じるのか。


その答えを探っていくと、たどり着いたのは今年で18年目を迎える単独ライブ「放送禁止」だった。2006年に相方・中島忠幸さんを亡くし、漫才師としての軸を失ったあとに始まったこの舞台は、竹山にとって“何の仕事をしても怖くなくなる場所”、そして人生の新たな“軸”となった。コメンテーター、芸人、そして一人の働く人としての竹山を支えてきたものとは何か。

今回の前編では、「放送禁止」という唯一無二の舞台の成り立ちと、その先にあるコメンテーター論、そして竹山流の仕事論を聞いた。

○“金儲け”のためではない「放送禁止」 観客と毎回交わす約束とは

――「放送禁止」は今年で18年目を迎え、長い歴史のある単独ライブになりましたね。

DVD化をやめたのは、会場まで足を運んでくれるお客さんが一番大切ということと、金儲けのためにやらないということ。あと一応「ルール」があって、絶対に誰にも言っちゃいけない“他言無用”の決まりがあるんですよ。これは、お客さんとの約束です。終わった後に僕も言わないし、見たお客さんも誰にも何も言わない。そういう約束のもとでやってるから、それを舞台上でも毎回伝えるんです。だからといって、そんなにマズいことをやってるんじゃなくて、結構皆さん感動して泣くこともあって。いろいろ調べたり取材をしたりして話すから、いろんな反応があるんですよ。


――Prime Videoでも配信中の2008年「放送禁止」を拝見したのですが、近年とはかなり違う構成だそうですね。

だいぶ違いますよ。初期と後期はもう全然違います。今はもう一人でやってるですが、それが10年以上続いています。だから今回のこのインタビューで、予習編のように皆さんに読んでもらいたいなと思っても、予習にもならないというか(笑)。どのようなことをやるのかも一切言えないし、「こんなライブだから、ぜひ見に来てください」みたいな具体的なアピールも一切言えません(笑)。
○初開催で売れたチケットは「2日間で30枚くらい」

――なおさら気になります(笑)。今年は4月2日から5日に東京・池袋のサンシャイン劇場で行われますが、内容については本当に誰も知らないんですか?

今年、何をどうやるか知ってるのは、鈴木おさむさんと僕と、あと中田っていう初回からサブでついてるやつ、その3人だけです。マネージャーも知らない。全体リハが、数日前の真夜中にあるんですが、照明さんや衣装さんも全員来て、関わっているスタッフ全員がそこで初めて知ることになります。

――そこからさらに変わることもありますか?

あります。おさむさんがリハを見ながら、「ここで音楽流して」とか細かく指示して、僕は淡々と黙々とやるだけ。
映像も極力使えないライブなんですよ。僕が舞台上に出たら、休みはない。映像を流している間に着替えるとか、そういうのも一切ない。着替える必要があるなら、舞台上でそのまま着替えることになります。だから2時間ぶっ通し、トイレにも行けないんです。

――かなり過酷ですね!

そもそもライブを始める時、最初はどういうテーマにすべきなのかも分からなかったです。一人でライブなんかやったことなかったから。今は一人ですけど、最初の頃は役者さんに入ってもらってたんですよ。忘れもしないんですが、初回はチケットが全然売れず、2日間で売れたのが30枚くらい。それが「放送禁止」のはじまりです。2008年は、2,000万円ぐらい損して、「2,000万出して好きなことしゃべってるわ!」ってずっとネタにしていました。

――絶対に真似できません(笑)。
そもそも「放送禁止」というタイトルには、どのような意味が込められているのでしょうか。

「言っちゃいけないことを言う」ってことじゃないんです。初期のテーマは、昔のテレビだったら編集室で落とさなかったよね、この話。でも今は、「これは編集で落とすよね」ということも増えました。だから、「編集室で落とさない話もやります」ぐらいのレベルの“放送禁止”なんです。本当に放送禁止用語を言うとか、そういうことではないです。

○相方が亡くなった後に気づいた“心の穴”

――令和の今、タイトルだけでもかなり強い言葉に聞こえますね。

今の方が敏感になってる印象はありますね。ここ数年は、徹底的に取材をして、いろんなテーマを扱ってきました。池袋の事故でご家族を亡くされた松永拓也さんを取材させてもらって、どのような誹謗中傷があったのかなどお聞きしました。あとは、『週刊文春』の話とか、覚醒剤についてとか、サンミュージックの歴史とか。でも、それに共通項があるかというと、「自分が気になってるから」だけなんですよ。
笑いにできそうにないものを、笑いの舞台でどう人に伝えられるのか。どうすれば、みんなが考えるきっかけになったり、笑ったりするのか。そこをいつも重視しています。

――過去のインタビューでは、このライブはご自身の「軸」だとおっしゃっていました。

そうですね。相方の中島(忠幸)が2006年に亡くなって、テレビだけめちゃくちゃ忙しかったんです。今後ピンでどうやって生きていくかいろいろと考えていたら、おさむさんに「竹山くん、心にぽっかり穴が空いてるでしょ? それって軸がないから。もう漫才師じゃなくなったから」と言われたんですよ。確かにその通りで、自分は漫才師じゃなくなった。じゃあ、俺は何者なんだろうって。それまで気づいてなかったけど、どんなに売れなくても、相方と地方行って漫才やれば笑えるだろうっていう武器が一個あった。それがなくなった。


そしたらおさむさんが、「僕が手伝いますから、今から『カンニング竹山』っていうピン芸人を作っていきましょう。これを10年続けたら、10年後、どんな仕事をやっても怖くなくなりますよ」と言ってくれて。役者業やコメンテーター、お笑いと関係ない仕事でも、これさえやっとけば怖くなくなるって。結果、もうその通りでしたね。

コメンテーターの理想と現実「もう自分が目指したのと違うな」

――その“怖くなくなる”という感覚は、コメンテーターの仕事にも活かされていますか。

ワイドショーなんか出てると、すぐに炎上するんですけど、どこか心の中でへっちゃらなんです。全部ライブでしゃべってやるよって。それが根源ですよね。「放送禁止」がスタートして2年目ぐらいのときに週刊誌にスキャンダルが載って、「すみません。もうライブできなくなります……」とおさむさんに伝えたら、ゲラゲラ笑いながら、「いいネタ拾ったね! それをやるんだよ!」「カンニング竹山という芸人は、生きてる証で笑ってもらうんだよ。生きてることが芸なんだよ。それをすべて笑いにするのが『放送禁止』なんだ」って。
そこで「ああ、なるほど」となったんです。

――ネガティブな声に傷つくことはあっても、心は決して折れない。

もちろん傷つくことはありますよ。嫌だなとか、面倒くせえなとか気持ちは下がる。こっちは2ちゃんねる時代から慣れっこだけど、最近も思わぬところから煙立って、いつの間にか消せない火事になってることもある。でも、そこで俺まで落ち込んじゃったら終わりだろって。俺、何のために芸人やってんだよっていうのが、頭のどこかにいつもあるから。「俺はうるせえよ! って言わなきゃいけない芸人だろ」って。

○加藤浩次と誓い合った「新しいテレビをつくる」

――コメンテーターの仕事そのものについては、どのような変化を感じてきましたか?

もともとはTBSラジオの報道部に声かけられて、ニュースを掘り下げる番組『ニュース探究ラジオ Dig』をやらせてもらったんですよ。新聞を読まなきゃいけないし、各紙の違いも教わって、そこでかなり鍛えられました。3年ぐらいやらせてもらって、最後の方にはとてつもない数字を取って、そこから情報番組に呼ばれるようになったんです。

――情報番組のどこに面白みを感じたのでしょうか。

情報番組はバラエティと報道の狭間だから、本来は何でもできるんですよね。それを目指して初めてやった番組が、加藤浩次さんの『スッキリ』。加藤さんとも、「情報番組って何でもできますよね」「俺も新しいテレビを作りてえんだよ」っていつも話していて。その後に、坂上忍さんに出会ってからも常に「新しいテレビ」を目指してずっとやってました。

それと同時に、SNSの影響が大きくなって、批判がいっぱい起きる時代になってきて、だんだん、「あれ? ちょっと違うな」となってきて。池上彰さんにはなれないけど、バカっぽく、アホらしく、とっつきやすく分かりやすく伝えられるポジションに行けたらいいなと思ってたんです。それをいろいろやってたんだけど、だんだん「もう自分が目指したのと違うな」「やりたかったこととも変わってきたな」って。

○“何を言っても叩かれる”時代の生き抜き方

――最近では、千原ジュニアさんのYouTubeチャンネルの企画「スナックJ」に出演された際、「俺の中では、ブームが終わって来てるね。コメンテーターブーム、終わりだな」とおっしゃっていましたが、やはり難しい仕事なんですね。

SNSが発達して、みんなが自分で調べるようになって、何を言っても面白くない時代になってきた。何を言っても叩かれるし、おとなしいこと言ったら「あいつ何しに出てんだ」ってなるし、面白いこと言えよって言われても、生放送で面白いことを言うってめちゃくちゃ大変なんですよ。もっといろんな立場の人が出てきて、いろんな意見をワイワイ言える番組があったらいいと思いますけど、それは坂上さんの『バイキング』で終わりましたね。あの時代で終わった。でも、メディアって常に変化しなきゃいけないもんだから、これはしょうがないですよね。

――それでもコメンテーターを仕事として続けているのは、どういう思いですか?

来た仕事はもちろんやります。テレビは好きだし、テレビで仕事するのは本当に大好きなんで。ただ、ずっとバラエティ一本で出続けるのは難しい。若手も出てくるし、MCになるのも簡単じゃない。だから、年取ってもできる形として、生放送や情報番組の方も面白いかなと思ってやってきたんです。

テレビに出続けられるってことは、それだけ見てくれてる人がいて、評価が高いということ。ただ、それを今の地上波の中で僕がやるのは、もう無理ですよね。役者さんも年齢によってできる役が限られてくるって言うけど、芸人もそうなんですよ。バラエティの中で、昔は僕らの年齢の人が呼ばれる枠が4つとか5つぐらいあった。でも今、僕らみたいな年齢になると枠1つなんですよ。もしくはゼロ。

その1枠を、陣内くんが行くのか、俺が行くのか、柴田が行くのか、ザキヤマが行くのか、そうなってくる。だから僕らの世代で、みんなでワーってやる番組は、どんどん無くなるんです。僕は見たいですけどね。でも、若い子はもう見ないんですよ。テレビってそんなもんだから。
○バラエティは「未だに怖い」「でも、行くしかない」

――そのような時代の変化とともに、仕事の選び方も変わってきたのでしょうか。

基本は“何でもやる”方向では行きたいんですけど、そこに自分が出たら邪魔、迷惑がかかるから控える、そういう選び方はあります。例えば『ラヴィット!』にたまに出るのはいいけど、レギュラーになりたいとは思わない。若手が頑張ってるところに、自分がずっといたら邪魔だから。だから今、一番楽しいのは、出演することよりも番組を作って成功させていくことですよね。『昼酒』(BS-TBS『カンニング竹山の昼酒は人生の味。』毎週月曜23:00~23:30)なんかは発案から全部やってるし、ディレクターと「こういうの面白いんじゃないか」と盛り上がって、企画書作って、売り込んで、形になっていく。ああいうのは面白いですね。

――世の中の働く人々にとっても参考になる話としてお聞きしたいのですが、「やりたくない仕事」についてはどう思われますか。

めちゃくちゃありますよ。バラエティ全般、嫌でしたもん。お笑いと関係ない仕事は怖くなくなったと言いましたけど、バラエティは楽しいけどやっぱり怖さもある。芸人がわんさかそろう特番とか、嫌で嫌でしょうがなくて。何もできなかったらどうしようって。でも、行くしかないんですよ。行ってみると成功することもあるし、何か得るものもある。

だから基本的には、今の時代にはそぐわないアドバイスかもしれないけど、僕は結構「戦場に行け」って言うんですよね。戦う場所に行って身をもって経験しないと、何も分からない。負けてもいいから行く。経験をある程度積んだら、選べるようになるし、選べることも限られるようになるので、20代30代のうちは「とにかく行け!」。戦場に行って手柄を立てない限り、上には登れないんですよ。たぶん、何事においてもそうだと思います。

――売れてからも、バラエティでのそういう怖さはありましたか?

ありましたよ。芸能界の先輩がいっぱいいる時に、最近ぽっと出の俺がワーワー言わなきゃいけないとか。嫌でたまらないけど、行くしかない。たくさん芸人が呼ばれる中で何一つしゃべれなかったとか、前に出れなかったとか、そういう経験もいっぱいある。世間は「いつもギャーギャーキレてるんでしょ」ぐらいな印象でしょうけど、あれも苦しいですよ。未だに怖いし。でも、行くしかないから行くだけです。

■プロフィール
カンニング竹山 1971年4月2日生まれ、福岡県出身。サンミュージックプロダクション所属。お笑いコンビ・カンニングとして活動後、相方・中島忠幸さんの闘病と死去を経てピン芸人として活動。バラエティ番組をはじめ、情報番組、俳優業、ラジオ、番組企画など幅広く活躍する。2008年から単独ライブ「放送禁止」を毎年開催している。
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