戦後、アメリカ統治下の沖縄を舞台に、米軍基地から奪った物資を住民に分け合えることを目的に結成された若者たちの集団“戦果アギヤー”。そのメンバーで、いつか「でっかい戦果」を上げることを夢見るグスク、ヤマコ、レイの幼なじみ3人が、理想と現実に翻弄されながらもがむしゃらに生きていく姿を描いた映画『宝島』。
【写真】妻夫木聡、笑顔がかっこよすぎる! 撮り下ろしソロショット
■沖縄の歴史と魂に、どう向き合ったか
――『宝島』という非常に大きなエネルギーを要する作品への出演を決めた理由、脚本や原作を読んだ際の第一印象からお聞かせください。
妻夫木聡(以下:妻夫木): 役柄よりもまず、原作が持っている圧倒的な熱量をどこまで脚本に落とし込めるか、そもそも映画化できるのかなというのが最初に思ったことです。尺もそうですし、ロケ地として沖縄で撮影ができるのか、基地のことも含めてとにかくお金がかかるだろうなと。役作りというより、そういうことが先に頭に来てしまいました。そこから、改めて沖縄と向き合うというのが自分にとっての一番の課題でした。ただ演じるという次元の話ではなかったので、歴史を学ぶところから始め、当時を生きた方々にもインタビューをさせていただきました。
最終的に僕の核となったのは、親友が導いてくれた佐喜眞美術館で「沖縄戦の図」という絵を見た時です。戦争というものが詰め込まれた絵から、本当に声が入ってきて動けなくなってしまって。絵に「どこかわかった気になっているんじゃないか」と言われた気がしたんです。その時初めて、「感じる」ということを忘れていたんじゃないかと思い至りました。
窪田正孝(以下:窪田): 僕はまず、キャストとスタッフにすごく惹かれました。妻夫木さんと(『ある男』以来)またご一緒できること、しかも今回はすごく関係性の深い役柄であること、そして大友啓史監督であること。それが一番でした。台本を読ませていただいて、現在の感覚ではどうしても読み込むことができなかった。当時のことをイメージし、携帯もなく、もっとアナログで、隣人とのプライベートもない世界。みんなが家族のような感覚という落とし込み方をしてから読むと、色々なものが紐解けていきました。これは今の時代にこそ描かなければいけない、日本人が向き合わなければいけないテーマなのだと。戦後80年経ちますが、日本はどこまでいっても敗戦国で、その爪痕は沖縄を始め、今の日本中に残っている。エンターテインメントを通して、役者としてこの仕事に携われることはすごく光栄ですし、やる意味をすごく持たせてもらえたのが大きかったです。
■言葉を交わさずとも共鳴した、現場の熱
――オープニングのアクションシーンから凄まじいエネルギーでした。お二人で何か特別な準備や話し合いはされたのでしょうか。
妻夫木: いや、今回本当に、キャスト同士で何か話すってことはなかったよね。
窪田: なかったですね。
妻夫木: もともと窪田くんとは仲は良かったですけど、本格的に芝居をするのは今回が初めてで。お互いを知っているからこそ、話さなくてもいられるというか。窪田くんは彼の中でレイとしての正義に向き合い、僕は僕でグスクとしての正義に向き合って生きていく。そして最終的に基地で感情をぶつけ合うところに向かって、ずっとお互いの人生を生きている感じがあったので、なおさら話さなかった。別に現場で仲が悪かったわけではなく、お互いが匂いで感じ取っていたんだと思います。
――大友監督の演出スタイルはいかがでしたか? 細かい指示はあまりされないと伺っています。
妻夫木: 監督から動きの演出はあっても、感情の面で「ああしてくれ、こうしてくれ」というのはほとんどなかったですね。それぞれが思うものを全員がぶつけ合っているような現場でした。
窪田: 監督自身、セリフを求めているわけではなくて、言葉じゃない何かを抉(えぐ)り出そうとしているんですよね。役者というより、一人の人間の中から何が出てくるのかを、ずっとフォーカスしていた。
■魂の叫びだった――壮絶なコザ暴動シーンの裏側
――クライマックスのコザ暴動のシーンは、延べ2000人規模のエキストラが参加した壮大なロケだったそうですね。
妻夫木: もともとは千葉にオープンセットを組む予定だったのが、東宝スタジオでの撮影に変わって、最初は不安もありました。でも、監督は本当に、エキストラ一人一人に演出をし始めたんです。チーフクラスの助監督が3、4人いて、それぞれで芝居をつけていって。沖縄出身の俳優さんたちも率先して芝居をして、みんなを鼓舞していくと、エキストラさん一人一人にポッポッと命の炎が宿っていくんです。その瞬間を目の当たりにして、この暴動は「俺たちはここに生きているんだ」という魂の叫びだったのかもしれないなと、皆さんのお芝居から学ばせてもらいました。
実際にコザ暴動に参加された方に話を聞くと、「怒りという言葉以外のものがあった」「綺麗なカチャーシー(沖縄の伝統的な踊り)を踊るおばあがいた」とおっしゃるんです。監督が一人一人に命を吹き込んでいくのを見て、これはもう叫びだったんだなと感じました。
窪田: 完成した作品を観て、やはりあそこに行くために全てがあったのだと感じました。歴史的に見てもすごく大きな出来事ですし、この作品でも一番フォーカスしていた部分だったと思います。想像でしかないですけど、本来の人間ってああなんだろうなと。当時の沖縄でアメリカ兵たちに虐げられ、女性は犯され、轢き逃げされる。それが当たり前の毎日で、何も言えない。ぶち切れるのは当然じゃないですか。そういうことが溜まりに溜まって、沖縄の魂、沖縄の声が一つになった。すごく必然だったのかな、というのはあのシーンでリアルに描かれていると思いました。
■映画というものを通して、未来の形を少しでも変えられたら
――本作は二度の撮影延期を乗り越えての公開となります。この時間は、作品にとってどんな意味を持ったのでしょうか。
妻夫木: もう、信じるしかなかったですね。結果論でしかありませんが、僕は全てのことに意味があると思っています。今年の公開となり、戦後80年という年でもある。延期するたびに、逆に準備できる時間が増えていったんです。これはある意味、神様がくれた時間であり、「お前ら、もっとやれることがあるんじゃないか」という試練だったのかなと。全ては導かれてこうなったんだと思います。こんなに衣装合わせを何度もした作品はないですし、撮影初日を迎えた時は「ああ、この作品に携わっているんだ」という喜びがありました。
窪田:本当に膠着状態が長く続いていたんですよね。ただ自分たち役者は待つことしかできなかった。その時間を逆にプラスに考えるようにはしていました。そして最終的にGOが出たとき、長い時間が空いていたのですが、最初に「この映画をやりたい」と思った気持ちに戻れたんです。だからこそ、撮影で沖縄に入ったときはすごく怖かった。
妻夫木:最初延期になったとき、窪田くんはスケジュール的に撮影に参加できないかも……ってなったんだよね。
窪田:ありましたね。
妻夫木:あの時は正直「終わった」って思った(笑)。
窪田:結果論ですが、延期があったからこそ、この形で映画が届けられたんだなと言う部分は強く感じます。
――この映画を通して伝えたいこと、映画というメディアが持つ力についてどうお考えですか。
妻夫木: やはり映画を通してどう感じるかが大事なので、僕らの想いだけが先行してはいけないと思っています。特に今回、僕はコザという街に縁があり、沖縄に対する想いが強すぎてしまって、僕が最後にレイに投げかける言葉は、現代の人たちにも投げかけている言葉でもあるのですが、あくまでグスクとしての言葉として、自分の想いが乗りすぎていないか監督に何度も確認しました。僕らは演じるしかない。その中で、皆さんがどう受け取ってくれるか。過去は変えられないけど、未来は変えられる。映画というものを通して、未来の形を少しでも変えられる可能性があるなら、それはすごく幸せなこと。映画の力を、正直今は信じたいですね。
窪田: 映画には、その時間だけ現実を忘れさせてくれたり、心を救ってくれたりする力が宿っていると思います。作り手としては、その力をどう使うか気をつけなければいけない。事実を捻じ曲げて伝えることもできてしまうんです。だからこそ、僕は作品選びをちゃんとしたい。一方で僕らは役を生きることが仕事。その結果、誰かに伝わるのであれば、それは映画が誰かの心に入っていった証拠になります。この作品は、これからの若い世代に観てほしい。妻夫木さんがご自身の足で全国を回ってこの映画を届けようとしている、その姿に突き動かされる人もいると思います。妻夫木さんじゃなかったらこの作品はできなかったと思うし、これだけの人は集まらなかった。そう感じています。
(取材・文:磯部正和 写真:山田健史)
映画『宝島』は、9月19日より全国公開。