昨年の大河ドラマ『光る君へ』(NHK総合ほか)でも、高い演技力と人を惹き付けて止まない存在感を見せつけた吉高由里子が、現代社会に潜む矛盾や孤独を浮かび上がらせる主演舞台『シャイニングな女たち』を前に、作・演出を手掛ける蓬莱竜太(「蓬」は「1点しんにょう」が正式表記)と対談。「女性は常に闘いにさらされているが、吉高さんにはしなやかな強さがある」と印象を語る蓬莱に、吉高は「闘っている分、得している部分もある」と“らしい”言葉を発した。



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■「ちゃんと傷つく」。その人個人の内面を刺激する、蓬莱作品の魅力

――本作は群像劇です。主人公の海(吉高)が、他人の「お別れの会」に紛れ込んでビュッフェを食べて帰る行為を繰り返していたところ、大学時代の仲間の「お別れの会」に出くわしたことから始まります。他人の「お別れの会」に参加する主人公という設定はどこから。

蓬莱竜太(以下「蓬莱」):実際にそうした人がいたらしいんです。それを聞いたことがあって「そんな人がいるんだ」と。

吉高由里子(以下「吉高」):実際にあるでき事からきていたんですね。

蓬莱:そんな人が本当に自分の近しい人の「お別れの会」に遭遇して、“自分は呼ばれていない”ことに気づいたらどうなるだろう。それを吉高さんに演じてもらえたら、どうなるかなと思いまして。他人の「お別れの会」に通う行動自体には闇があるんですけど、そうせざるを得ない状態にあった人が、そんな偶然に遭遇したらどうなるのか。そこから話を展開させていけたらと思いました。

――吉高さんは、もともと蓬莱さんの作品に出演したいと思われていたとか。
どんなところに魅力を感じていたのでしょうか。


吉高:ちゃんと傷つくところです。自分の経験を呼び戻されるようで苦しいんですけど、でもどこかで慣れてしまっていた自分にハッとさせられるというか、改めて気づかされる部分が多くて刺激を受けます。他人の「お別れの会」に参加するという気持ちは私にはわかりませんが、台本に、海が知らない人の「お別れの会」に参加していて、「なんかわからないけど泣いているかも」となる描写があるんです。私も昔、学校の同級生が亡くなって、ほとんど話したこともなかった人だったのですが、同級生だということでお葬式に参加したら泣けてきたことがあって。

蓬莱:へえ。

吉高:魂が抜け落ちた肉体だけがある現実に、この人はもういないんだけど、自分は生きているという実感と、でも肉体同士は対峙(たいじ)しているという不思議な感覚に戸惑ったというか。悲しいとも違うんですけど。奇妙な感覚に陥ったあの日のことを思い出したんです。……ほら、忘れている感覚を、こうやっていきなり思い出させてくるんですよ。

蓬莱:無理に思い出させようと思っているわけじゃないんだけど(苦笑)。

吉高:意図はしていないかもしれませんけど、無意識の暴力があるんですよ。
そこが魅力で。この先もきっと、あるのだと思います。

■吉高由里子「夜中に知らない人のライブ配信を見たり…」

――物語には、SNSが重要なツールとして絡んでくるとか。

蓬莱:SNSの登場によって、だいぶ変わりましたよね。僕個人としては非常に厄介なものが生まれたと感じています。情報を拡散する優れた部分もありますし、承認欲求を満たしやすくはなりました。ただ、匿名性もありながら承認欲求を満たせるというところが、現代の穴をついているというか、依存性が生まれてくる。現実の自分とは違う自分も作り出せますし。そういったことで自己実現を果たすことが可能になってくるのは怖いことだし、受け取った側の情報処理の仕方も難しい。

――そうですね。

蓬莱:真実かどうかもわからないまま、真実とされて広がっていくなかで、1人の人格が外から形成されてしまったりする。とても怖いツールだと思いますし、今の時代を見つめるときに描きたくなります。
主人公たちは大学時代のフットサルチームの仲間で、輝きを自分たちで作れたと思っていた。けれどSNSによって裏では違う現実が作られていて、主観と客観が当事者にもわからなくなっていく。登場人物たちを苦しめるひとつのツールとして、SNSの要素は盛り込みたいと思いました。

――吉高さん自身は、匿名性と対極の立場でSNSと付き合われていると思います。Xのポストも、すぐニュース記事になります。

吉高:そんな時の人じゃないですよ。むしろSNSって、発信のスタートラインがみんなこんなにも一緒なんだ、と感じます。こういった仕事をしているから何でもニュースになるというわけでもなくて、一般の方の投稿でも急にバズることがある。アンディ・ウォーホルが「人は誰でも15分だけ有名になれる日が、いつの日か来る」と言いましたけど、まさにそういう時代だなと感じますし、一層言葉には気をつけなきゃと思います。

――たしかに、そうですね。

吉高:怖いですよ。あともちろん、私自身、発信する側だけじゃなくて、見る側でもあります。
夜中に知らない人のライブ配信を見たり。

蓬莱:へえ。

吉高:どういう人かも知らない、会うこともないだろう人のライブ配信を、「眠れない私は、今なんでこうして見ているんだろう」と(笑)。すごく変な気持ちになります。夜な夜な見て、ちょっと質問したりして。

蓬莱:夜な夜な!?(笑)

吉高:ライブ配信って、質問できたりするじゃないですか。そうすると返事がきたりして、「あ、答えてくれた」ってちょっとうれしかったり。「なんなんだろう、この気持ち」となる。名前をつけてほしいです。同じ時間を共有している人たちとの感じというか。なんですかね、これ。寒くなってきたからかな。
会うこともないし、その人の生活に関わることもないんですけど。

蓬莱:関わりのない人だから話せることっていうのも、あるよね。

吉高:そう、それは絶対あると思います。

■常に女性たちは、幸せな生き方や充実した生き方を強いられている

――本作に登場する女性たちは、さまざまな闘いに直面しそうですが、蓬莱さんは「女性は否応なく闘わなければならないものが多いと常々感じている」と、公式でコメントされています。普段、どんなものと闘っていると?

蓬莱:まず男性社会との闘いがあります。女性というのは機嫌がよくなきゃいけないとか、美醜のことで差別されたりとか。男性社会のなかで、まず一度いろんなことで戦いの中にさらされて、その中で自分の居場所やアイデンティティを見つけていく。あるいは見つけないと不幸な女性と思われるとか、幸せでなければいけないとされる情報化社会というか。幸せな生き方や充実した生き方を強いられているという意味で、すごく闘いにさらされていると思います。

――幸せな生き方や充実した生き方を強いられている。

蓬莱:そうした意味で内的な闘いよりも外的な闘いを要求されることが多い。多様性の時代になったとて、今度は多様性の難しさという闘いも出てくる。
その意味ではもちろん男性にも闘いはありますが、女性のほうが常に闘いに強いられている社会だと感じます。

――そして、吉高さんには「闘いから逃げない強さとしなやかな明るさ」を感じるとコメントされています。

蓬莱:逃げないというか。闘っているのか、泳いでいるのか、すごくしなやかに映るんですよね、吉高さんの在り方って。それが同性異性問わず、吉高さんを魅力的に感じる大きな要因なのかなと思います。

吉高:私はいわゆる昔からある男尊女卑を目の当たりにしている世代ではないですが、男の人を立てないといけないとか、そういう場面も経験してこなかったわけではありません。でも闘っている分、経験していない男の人より、得している部分もあるのかなとは思います。

――「闘っている分、得している」ですか。吉高さんならではの言葉に感じます。

吉高:経験って、出会ってぶつかってきた全てが自分自身の一部になる。それこそ走馬灯の一部になるものだと思っているんです。私、無理はしたくないし、無理をするのも無理な性質で、もがいているそのときは客観視なんて到底できないし、あまり邪な気持ちにはなりたくないけれど、でもいろんな感情の起伏を経験できるのも全部、人間に生まれてきた醍醐味(だいごみ)なのかなと。そう思うことにしていて。心も体もいっぱい動かした人生でよかったと思えるようにしたいと思っています。

(取材・文:望月ふみ 写真:上野留加)

 パルコ・プロデュース2025『シャイニングな女たち』は、東京・PARCO劇場にて12月7日~28日、大阪・森ノ宮ピロティホールにて2026年1月9日~13日、福岡・福岡市民ホール 中ホールにて同年1月16日~18日、長野・サントミューゼ(上田市交流文化芸術センター)大ホールにて同年1月24日~25日、愛知・Niterra日本特殊陶業市民会館ビレッジホールにて同年1月29日~30日上演。

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