昨年末の時点で、韓国の総人口約5121万人に占める外国人は、約265万人、全体の5.2%を占める。居住外国人のうちの3割強に当たる約96万人は中国国籍で、その7割が中国東北地方出身の朝鮮族と言われる人たちだ。
その一方で、韓国国民の間には「朝鮮族=犯罪予備軍」という偏見も強い。ファクトチェックで事実ではないと否定されているが、朝鮮族が凶悪事件を起こすたびに韓国メディアは大きく報道し、また映画などでも凶悪犯として描かれることが多く、そのような偏見を助長する。その走りともいうべき事件が、1996年に起きたペスカマ15号(以下ペスカマ号)での大量殺人だ。
船長らの暴言、暴力などに耐えかねた朝鮮族の船員が、合わせて11人を殺害するという凶悪事件を起こしたというもので、1996年12月に釜山地裁は被告全員に死刑判決を下した。しかし、その後の2審で無期懲役に減刑され、大法院で判決が確定し、現在も服役中だ。担当の弁護士は、後に大統領となる文在寅氏だった。また、6人の中で唯一死刑判決が支持された被告も、文氏が盧武鉉政権の大統領秘書室長だった時代に無期懲役に減刑した。
人権弁護士と言われた文氏の面目躍如とも思えるエピソードだが、いざ政権を取るや、同様の立場に置かれた脱北者に対し、深刻な差別的態度を見せた。その件は後に触れるとして、まずはぺスカマ号事件について振り返ってみよう。ここでは韓国の月刊朝鮮とニューデイリーの記事をもとに、事件を再構成した。
激しい暴力と差別に募る憎悪
遠洋マグロ漁船ペスカマ号は、今から29年前の1996年6月7日、韓国人船員8人、インドネシア人船員10人を乗せて釜山港を出港し、同月15日にグアムで朝鮮族船員7人を乗船させた。韓国語で意思疎通ができる点が、有利だと考えられていたからだ。
同月27日から操業に入ったが、船上の空気は異様なものだった。主犯とされた全在千受刑者は、法廷に提出した嘆願書で次のように主張した。以下、月刊朝鮮から引用する。
18日、甲板長は中国人(編集部注:朝鮮族)船員をからかい始めました。甲板長は李春勝に「おい、メス犬はいるのか?子どもはいるのか?」と尋ねたが、李春勝が意味を理解できなかったため、「おい、赤ん坊はいるのか?お前はメス犬の陰部から出てきたんじゃないのか」と言いました。それを聞いた韓国人の一等航海士や機関長などは手を叩いて笑い、甲板長は李春勝の頭を手ではたいて転ばせました。まるで動物をもてあそぶかのような振る舞いでした。船員たちは内心の怒りをこらえながら、苦笑を浮かべていました。この時から、船員たちは韓国人にからかいや暴力、暴行を受けるようになったのです。
崔錦浩受刑者も、朝鮮族やインドネシア人の船員が船長や甲板長から鉄パイプや棍棒で殴られていたと証言した。全在千以外の全員がそもそも乗船経験自体がなく、仕事をまともにこなせないことに対する腹いせだった。一方、韓国人で唯一生き残った李仁錫一等航海士も、暴力があったことは認めたが、「そこまでひどいものではなかった」と主張した。
深い絶望
チェ・ギテク船長は、上述の李春勝受刑者を鉄パイプで殴ろうとしたが、李は肩に一発受けたのち船長を殴り返し、甲板にあったマグロ解体用のナイフを手にした。こうして韓国人と朝鮮族の間で、ナイフや棒、斧を手にしての睨み合いが発生。朝鮮族の船員は操業を拒否し、「陸に下ろしてほしい」と要求したという。
船長は激怒したものの、話し合いの結果、いったんは謝罪して今後は暴力を振るわないと約束。甲板長も同様に暴力の再発防止を誓ったことで、朝鮮族と韓国人船員の対立は収束した。
だが、この対立のしこりは残っていた。白忠范受刑者は、船長や甲板長による暴力はその後も続いたと供述した。船長は、手に鉄パイプを持って船員に指示を出し、漁船乗船が初めての船員たちを殴りつけた。ただでさえ強度の高い労働、いくら働いてもインセンティブのない固定給に対して朝鮮族とインドネシア人船員の不満は高まった。
29日の休憩終了後、一等航海士の李仁錫氏が操業参加を求めたが、全在千と崔萬奉を除く朝鮮族5人は体調不良を理由にこれを拒否し、下船を主張。チェ船長が確認を行った上で、30日に懲戒委員会が開かれ、5人の下船が決められた。この決定が、後の悲劇の引き金となった。
ここで問題が再燃した。
全在千を含む朝鮮族船員たちは、乗船時に派遣会社に紹介料として、1万元(当時のレートで約13万円)、船会社には担保金として5万元(約65万円)を支払っていた。また、サモアでの滞在費まで含めると最終的には20万元(約260万円)の自己負担になると知らされた。当時の中国では、国営企業の労働者の平均月収が約1300元(約1万6900円)だったことを考えると、彼らの絶望は想像しても余りある。
ただ実際には、担保金から差し引かれるのは航空費と滞在費のみだったとされ、船長の説明は事実とは異なっていた可能性がある。もし朝鮮族船員の主張が正しければ、船長の発言が彼らを精神的に追い詰めたことになる。
凶行の始まり
朝鮮族船員たちは絶望して酒浸りとなり、韓国人船員への深い恨みから8月1日午後9時に殺害を決意した。最初の標的は船長。凶器として刃物5本が用意され、全在千が指揮を取り、深夜に一人ずつ殺害する段取りが整えられた。
8月2日午前1時、全在千が操舵室で当直を開始し、30分後に船長が現れると、一瞬、人間的な葛藤を抱くも、「殺さねば自分が殺される」という恐怖がその思いを打ち消した。午前3時ごろ、全は「他の船から呼び出しがあった」と偽り、チェ船長を操舵室に誘い込んだ。その直後、外から扉をロックして閉じ込めた。
そして暗闇の中で待ち構えていた李春勝が、マグロ処理用ナイフでチェ船長の腹部を刺し、倒れたところを首を刺した。
全在千はさらに、「船長が呼んでいる」と偽って甲板長を操舵室へ誘導。操舵室のドアを開けた瞬間、崔錦浩が斧で襲撃したが、甲板長はドアを閉めて防御。斧の刃を握って耐える甲板長の背後に、崔日奎が回り込んでナイフで臀部を刺し、甲板長は階段下に転落。その後、崔錦浩が斧で甲板長の首を、朴君男が腹部を刺した。遺体は太平洋に投棄された。
午前4時、朝鮮族船員たちは、航海継続に必要だとして李仁錫一等航海士を生かしておくことにし、操舵室に誘導した。そして首を絞め殴りつけて両手を縛り、猿ぐつわを噛ませて拘束した。その後、1時間半を掛けて他の韓国人船員3人を殺害し、遺体を海に投げ込んだ。その様子をインドネシア人船員の3人が目撃してしまったう。
朝鮮族船員たちは、インドネシア人船員を共犯にするため、ナイフで脅し、19歳の韓国人実習生を生きたまま、サメの群がる海に投げ込むように強いた。
6人の朝鮮族の船員たちは、現場を目撃したインドネシア人船員3人と、反乱に加わらなかった朝鮮族の崔萬奉氏を冷凍庫に閉じ込め、外から鍵をかけた。マイナス45度に保たれた冷凍庫の中では低体温症で一日も生きてられないはずだった。ところが4人は生きていた。冷凍庫の電源が入っていなかったのだ。
7日夜、朝鮮族の船員たちは4人を殴打して海へと投げ込んだ。殺戮の嵐はようやく収まった。
朝鮮族の船員6人は、生き残った李仁錫一等航海士とインドネシア人船員6人を操舵室に呼び出した上で、日本への密航を企てた。だが、李氏とインドネシア人のアサット氏は目配せで意思疎通を図った上で、意図的に船を傾けて、朝鮮族の船員5人を船倉に閉じ込めることに成功した。そして全在千を縄で縛り上げた上で、日本の海上保安庁に通報し、保護された。
文在寅のダブスタ
労働現場における暴言、暴力、差別が根底にあったこの事件に対して、中国と韓国の双方で助命運動が起きた。
「朝鮮族同胞は祖国(韓国)で助けを求めているが、われわれ韓国人の間には(朝鮮族を)蔑視したり下に見たりする心理がある。ペスカマ15号事件の加害者も同胞として暖かく(祖国の懐に)抱くべきで、その考えには今も変わりはない」
ところがそれから8年後、彼が率いる共に民主党の政権は、同じような動機で同僚16人を殺害したと疑われた脱北漁民2人を北朝鮮に強制送還した。事件はあくまで疑惑の段階にとどまっていたにもかかわらず、ろくな捜査も行われないまま、韓国憲法にも国際条約にも違反する状況で、北朝鮮の歓心を買うため送還は強行されたのだ。彼らが北朝鮮で、凄惨な拷問を受けるであろうことは誰もが予測できた。
当時、共に民主党からは強制送還に対する批判も反省も、まったくと言っていいほど出てこなかった。
政権は今また共に民主党の手に戻った。彼らは人権問題に対し、どのような態度を取るのだろうか。