北朝鮮の地方都市で、生活の苦しさを訴える落書きが発見され、住民たちの厳しい日常が改めて浮き彫りになった。
問題の落書きは、平安南道价川市の総合市場入り口の壁に白いペンキで大きく書かれた「숨 막혀서 못 살겠다(息が詰まって生きられない)」という言葉だった。市場を管理する人々はすぐに当局へ通報し、市保衛部は「体制を揺るがす重大事件」として非常事態を宣言。通行人や市場商人の筆跡を一人ひとり調べるなど、犯人捜しに躍起になっている。
こうした落書きや「匿名の声」は今回が初めてではない。2019年には南浦市の港区で同様の落書きが発見され、2022年には温泉郡で「生きるのが苦しい」と記された風船が各地に漂ったこともあった。さらには、反政府組織を名乗る団体が、故金日成主席の石碑に落書きをする動画を世界に公開したこともある。
いずれも政治的な重大事件として扱われてきたが、現地住民の反応は意外にも冷静だった。ある住民は「誰が書いたかは分からないが、胸がすっとした」と語る。日増しに高騰する物価や為替、締めつけを強める統制の中で、生活の行き場を失った人々の共感を呼んだのだ。
こうした行為は、抑圧的な環境の中で不安やストレスを吐き出す心理的な出口であると同時に、社会全体の絶望感を映し出す鏡でもある。
北朝鮮の生活環境は、生存そのものが危ぶまれるほど深刻だ。最も基本的な食生活さえ保障されず、子どもを学校に通わせ、職場に勤めても希望は見えない。むしろ困難は雪だるま式に膨らみ、人々の胸をさらに圧迫している。これは1950年代の朝鮮戦争直後や1990年代の「苦難の行軍」に匹敵する、いやそれ以上に過酷な状況といえるだろう。
こうした現実を生み出した根本的な原因は、労働党政権の誤った政策と権力欲にある。党が権力と財を独占し続ける限り、不安と不満は消えるどころか積み重なり、社会全体を覆っていく。統制と監視だけでは決して住民の絶望を取り除けない。むしろ圧力が強まるほど、人々はより過激な方法で心の声を外へ吐き出すだろう。
「すべての落書きは自己表現から始まるが、共感を得れば文化となる」という言葉がある。今回の「息が詰まって生きられない」という叫びは、単なる落書きではなく、社会全体が共有する苦しみの象徴だ。当局がこれを犯罪視するだけでは、問題の本質を覆い隠すことにしかならない。
北朝鮮住民の落書きは、体制の硬直と圧迫の中で噴き出した緊急のシグナルである。人間らしく生きたいという切実な願いを無視するならば、同じような「声なき叫び」はこれからも繰り返されるに違いない。