「親日国」といわれるトルコやヨルダン。日本とはどんな関係があり、なぜそうした意識が生まれたのでしょうか。
トルコやヨルダンは、よく親日国だといわれています。私が訪問したことのある国の数はあまり多くありませんが、その中でもたしかにトルコとヨルダンは親日国といえるかもしれません。ですが、それならイランやオマーンも、親日国なのではないかな?などと、そんな素朴な疑問が生じました。
そこで、どの国が一般的に親日国と呼ばれているのかを知るために、インターネットで「親日国」と検索してみました。すると、読み切れないほどの件数がヒットしてしまいました。なるほど、親日国と呼ばれる国はこんなにたくさんあるのかと感心すると同時に、「親日国」という言葉自体が人気のある言葉なのだと感じました。
「親日」という言葉には、「良好な2国間関係」とか「同盟国」と表現するよりは、はるかに「親しみ」が感じられ、現地の人の笑顔まで想像できそうなニュアンスが含まれているようです。そのためでしょうか、驚いたことに、「親日国ランキング」すら、多数存在していました。いったい、どうやって親日の度合を計るのだろう……と悩んでしまいました。
どの国が本当の「親日国」なのか?検索結果では実にさまざま国々が、親日国として挙げられていました。たとえば、台湾、ブラジル、ポーランド、リトアニア、タイ、アルゼンチン、モンゴル、フィンランド、パラオ、マケドニアなどがありました。
本当に、日本はこんなに多くの国から好かれているのかな?と、さらに調べたところ、外務省のホームページにも、各国の紹介のページなどに、「親日」もしくは「親日国」という表現が、かなりたくさんの国に対して使われていました。上記以外にも、ギニア、モルディブ、ボリビア、ハイチ、パラグアイなどの国が親日国として紹介されていました。
外務省では、対日世論調査を毎年、さまざまな国で行なっているため、その結果から親日という形容詞を使っているようでした。けれども、世論調査をしていない国についても、この表現が使われている国が数多くありました。
中東の国々の中では2015年にエジプトのみと中東5カ国(エジプト、ヨルダン、チュニジア、アラブ首長国連邦、サウジアラビア)、中央アジア4カ国(ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタン)で、2012年にはトルコでも、この対日世論調査が行なわれていました。残念ながら、エジプトと中東5カ国のデータは詳細が記載されておらず(中央アジアとトルコについては全質問・回答集計結果あり)、数値がわからないため、中東各国の国別の比較はできませんでした。
アンケートの質問としては、「日本について関心がありますか」とか、「日本に対するイメージは」、「日本に行ったことがありますか」などの質問が続くのですが、親日か否かを知るために参考になりそうな質問としては、たとえば以下のようなものがありました。それぞれの結果をまとめてみたのが下記の表です。
■「日本とは現在どのような関係にあると思いますか?」
トルコカザフスタンウズベキスタンキルギスタジキ
スタンEU5ASEAN10友好関係にある 49.2485932831734どちらかというと友好関係にある34.04831 4986241どちらでもない 15どちらかというと友好関係ではない7.211 0184まったく友好関係ではない1.5237512わからない 8.116123124
■「日本は信頼できると思いますか?」
トルコカザフスタンウズベキスタンキルギスタジキ
スタンEU5ASEAN10信頼できる45.6212019492730どちらかというと信頼できる36.0534035194943どちらでもない 16どちらかというと信頼できない5.21491521105信頼できない4.8218321わからない 8.41030238125
表中のEU5とはEUのうちスペイン、イギリス、ドイツ、ポーランド、フランスの5カ国、ASEAN10はブルネイ、カンボジア、インドネシア、ラオス、マレーシア、ミャンマー、フィリピン、シンガポール、タイ、ベトナムの10カ国の平均値です。これらのこの数値は比較検討する際の参考までに記載しました。
なぜかASEAN10カ国の調査のみ、両質問の回答に「どちらでもない」という選択肢があるため、単純に比較するわけにはいきませんが、それでもトルコや中央アジアの国々は確かに数値のうえでもEUの平均値と同等かそれ以上であるために、親日的であるということができそうです。
ところで、ヨルダンは?というと、世論調査は行なわれていますが、国別の詳細が公表されていないので、アンケート結果からの検討ができませんでした。そのため、推測の域をでないのですが、ヨルダンが親日であると考えられる理由は、ヨルダン王家と皇室の関係が良好であること(アブドッラー国王は12回も日本を訪問している)、ヨルダンとパレスチナへの長期にわたる多額の援助などがある(ヨルダンはパレスチナ系の住民が占める割合が7割ともいわれている)と考えられます。
トルコとの関係を良好にした2つの事件次に、トルコについてですが、イスタンブールなどの観光地に行くと、日本語での呼び込みだけではなく、かなりしっかりした日本語で話しかけられることがとても多いことに驚かされます。この現象は、トルコ語がアラビア語と異なり、日本語と語順が同じで、いわゆる日本語の「て、に、を、は」の助詞も同じようにあるため、とても習得しやすい言語だからではないかといわれています。
また、トルコの人々が日本に対して好印象をいだいている理由として、よく知られている2つ事件があります。それは1890年に起きたエルトゥールル号遭難事件と、1985年イラン・イラク戦争中のトルコ航空機による邦人救出です。これらの事件は2015年に日本・トルコ合作の『海難 1890』という映画にもなっているため、ご存知の方も多いことでしょう。
エルトゥールル号遭難事件とは、1890年に和歌山県沖でオスマン帝国の軍艦が遭難した事件のことです。1887年に小松宮彰仁親王ご夫妻がトルコを訪問し、スルタンであるアブドゥル・ハミト2世に謁見した返礼として、オスマン帝国は650名を超える使節団を乗せた軍艦、エルトゥールル号を日本に派遣しました。
この船は11カ月かけて日本に到着し、オスマン帝国からの初めての使節団として歓迎されました。エルトゥールル号は1890年9月16日、日本訪問を終えて帰路についた際に、和歌山県紀州沖で台風に遭遇し、座礁、沈没してしまいました。乗組員のうち587名が死亡する悲劇となりました。
救出された69名は、日本の軍艦2隻によって無事、トルコに送り届けられました。さらに、この大惨事に対して日本国内の広くから集められた義援金も届けられました。のちに、串本町にはこの事件の慰霊碑が建てられ、友好の記念としてトルコ記念館も建設されています。
現在でも、エルトゥールル号遭難の際の犠牲者に対する追悼式が5年に一度行なわれているそうで(2015年開催)、2008年にトルコの大統領が初めて日本を訪問した際にも、この追悼式に出席したそうです。
もうひとつの出来事、トルコ航空機の邦人救出についてですが、これはイランとの戦争中に、イラクのサッダーム・フセインが「48時間以降、イラン上空にある航空機をすべて撃墜する」という発言したこと端を発しています。
その時点で、まだ200名以上の日本人がイランには取り残されていました。当時は、自衛隊機を直接派遣することが法律上不可能であったために、日本政府は邦人救出のために民間航空機をチャーターしようとしたものの、危険であることを理由に断られてしまいます。
八方ふさがりの状況で、自国民を避難させるための航空機を、あえて取り残された日本人たちのために使用させてくれたのがトルコ政府でした。これによってイランに取り残されていた日本人は、全員無事に救出されたのです。
一方、航空機に乗るはずだった500名を超えるトルコの人々は、陸路、車で脱出することになったのだそうです。この措置はトルコの人々からエルトゥールル号への恩返しであったといわれています。
この2つの出来事が、親日国としてのトルコを象徴するエピソードとして、つねに語られています。先の世論調査の結果によれば、トルコの人々の間でこの2つの事件を知っていた人の割合は、それぞれ29.9%、22.6%という結果でした。100年以上前のエルトゥールル号遭難事件を3人にひとりが知っているという事実を、多いというべきか少ないというべきなのか、判断がむずかしいところです。
同調査においてトルコの人々が日本について知っていると回答したのは、調査が行なれた年の前年にあたる2011年に、トルコ東部で発生した地震に日本から緊急支援があったことが、もっとも多くの人に知られており(65.2%)、ついで同年10月のバン(トルコ東部の都市)での地震で日本人NGO職員が被災したこと(63.0%)、東日本大震災でトルコから日本へ救援隊が派遣されたこと(55.7%)、マルマライ・プロジェクト(ボスポラス海峡海底鉄道トンネル計画)(52.5%)、第二ボスポラス大橋(44.9%)の順でした。
この第二ボスポラス大橋(ファーティフ・スルタン・メフメト橋、1988年完成)とマルマライ・プロジェクトは、日本ではほとんど知られていませんが、両方ともイスタンブールというヨーロッパ大陸側とアジア大陸にまたがる都市を結びつけるためのものです。第二ボスポラス大橋は文字どおり、黒海とマルマラ海の間に位置するボスポラス海峡をまたぐ橋で、マルマライ・プロジェクトは地下から(地下鉄で)両大陸をつなぐことを目的としています。この2つの建設には日本の企業が参加していただけでなく、円借款も利用されました。
地下から両大陸をつなぐという発想は1860年にはすでに考えられていたものの、様々な理由から実現していなかったために、「トルコ150年の夢」であるといわれてきたそうです。地下鉄の建設に着手したところ、ビザンティン帝国時代の遺跡が出土したために、工事は大幅に遅れたものの、2013年にようやく地下鉄が完成しました。
東のアジア側から西のヨーロッパ側に行くには、これまで船で約30分かかっていたそうですが、地下鉄の完成によって約4分で到着することができるようになったのでした。2012年の世論調査では、定説となっている2つのエピソードよりも、現地ではむしろ、近年の両国間での交流や日本企業との共同事業のほうがよく知られていました。若年層の多いトルコでは、近年の出来事のほうが認知度は高いのかもしれません。
(文:岩永尚子)