だが第二次世界大戦が終わるとともに、この「神話」は大きく揺らぐことになる。人種差別に反対する公民権運動の盛り上がりのなかで、西部開拓にも「白人の手は血で汚れているのではないか」との批判が突きつけられるようになったからだ。ジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演の映画『捜索者』(1956)がつくられたのはこの時期で、映画制作の背景はアメリカのジャーナリスト、グレン・フランクルの労作『捜索者 西部劇の金字塔とアメリカ神話の創生』で詳細に述べられている。その概略は前回書いた(「インディアン」という言葉の使い方についても述べている)が、今回は「事実は小説(映画)より奇なり」という後日譚を紹介しよう。
[参考記事]
●映画『捜索者』を観たときの強い違和感と陰惨な印象の正体
西部劇の歴史を振り返ると、画期をなすのはラルフ・ネルソン監督、キャンディス・バーゲン主演の『ソルジャー・ブルー』(1970)で、コロラド州サンドクリークで1864年に起きた陸軍騎兵部隊によるシャイアン族らへの虐殺を描いて衝撃を与えた(同じ1970年に公開されたアーサー・ペン監督、ダスティン・ホフマン主演の『小さな巨人』もこの事件を扱っている)。
ジェイムズ・チヴィントン大佐率いる民兵組織が、シャイアン族やアラパホ族の男女、子ども合わせて100人以上を虐殺した場面を、フランクルは次のように叙述している。
チヴィントンの部下はシャイアンのひとびとがアメリカ国旗を振っているのも無視して、無差別に銃撃を加えた。そして、その日のうちに戦場に舞い戻ると、インディアンの負傷者たちの息の根を止め、死体の頭皮を剥ぎ、手や指を切断して装飾品を奪い、無残な有様の死体をデンヴァーまで運んで公衆の目にさらしたのだ。その後行われた調査で、シャイアンの男女や子どもたちの死体が性的な損傷を受けていたとする目撃証言も明らかになった。“翌日、戦場にいってみると、シャインアの男女や子供の死体は一体残らず頭皮を剥がれており、ほとんどの死体がおぞましい仕打ちを受けていた――大人の男女や子供たちの性器はみな切除されていたのだ”とジェイムズ・コナー中尉は証言している(グレン・フランクル『捜索者』)。
1972年には、映画『ゴッドファーザー』でマフィアのドン、ヴィト・コルレオーネを演じてアカデミー主演男優賞に選ばれたマーロン・ブランドが、「ハリウッドにおけるインディアンをはじめとした少数民族に対する人種差別への抗議」を理由に受賞を拒否している。
これ以降、インディアンを「悪者」として描くことはPCではない(政治的に正しくない)とされ、ハリウッドは長いあいだ西部劇を制作できなくなる。舞台を宇宙に移すことでこの制約を取り払い、勧善懲悪の活劇をスクリーンに復活させたのがジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』(1977)だ。――実際には1960年代から西部劇への逆風は強まっており、クリント・イーストウッドはイタリアのマカロニ・ウエスタン(『荒野の用心棒』1964)で俳優としてのキャリアをスタートするほかなかった。
1950年代半ばは西部劇が大手映画会社の年間制作本数の3分の1、中小プロダクションの半分を占めた全盛期だが、フランクルによれば、映画『捜索者』を制作していたとき、ジョン・フォードは「わたしは映画の中でインディアンを殺しすぎる、と非難されてきた。いまでは彼らに同情して人道的なパンフレットをばらまいたり、ご立派な主張を表明したりする連中が映画界にもいる。ところが、連中は絶対に自分の財布をひらくことはしないんだ。わたしはすくなくとも彼らに仕事を与えているからね」と悪態をついている。当時からPCの圧力はすでに強まっていたのだ。なお、西部劇の撮影地として偏愛したアリゾナ州モニュメントバレーでナヴァホ族の貧しい暮らしを見たフォードが、彼らに積極的に仕事を与えたことは事実だ。
オバマは「黒人大統領」だがケビン・コスナーは「インディアン俳優」と呼ばれないアメリカ社会における黒人とインディアンのちがいは、「人種」の定義をみれば明らかだ。
よく知られているように、アメリカでは、黒人の血がすこしでも入っていれば人種的に「黒人」になる。これは「一滴ルール(ハイポデセント)」と呼ばれる。
アカデミー賞を受賞した『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(1990)でインディアンと暮らす元北軍中尉を演じたケビン・コスナーはチェロキーの血をひいており、映画『メリーは首ったけ』が大ヒットしたキャメロン・ディアスも母親にチェロキーの祖先がいるが、「インディアン俳優」と呼ばれることはない。それに対してバラク・オバマは黒人(ケニア人)の父と白人の母のあいだに生まれた「黒人大統領」で、タイガー・ウッズは黒人の父と中国系タイ人の母のあいだに生まれた「黒人ゴルファー」だ。
ちなみにもフィクションではなく、アメリカの歴史において、「腐敗した」文明を離れインディアンのスピリチュアルな暮らしを選んだ白人はたくさんいる。
そのなかでもっとも有名なのが、テキサス州の州都にその名がつけられたサミュエル・ヒューストンだ。1793年にヴァージニアで生まれたヒューストンは、父の死後、13歳のときに寡婦の母と8人の兄弟とともにテネシーの山地に移住したものの、農耕生活に馴染めずに家から逃げ出し、3年間チェロキー・インディアンと共に暮らしたとされる。インディアンはヒューストンを養子にして、“コロネ(鳥)”という名前を与えた。
1812年の米英戦争(第二次独立戦争)でヒューストンは、のちに第7代大統領となるアンドリュー・ジャクソンの指揮下で戦い、その指導を受けて法律を学んだあと、合衆国議会の下院議員を経て1827年にテネシー州知事に選ばれた。だがその後、19歳の花嫁イライザ・アレンとの結婚生活がわずか11週間で謎の破局を迎えたことで再選を前に知事を辞任し、テネシーを逃れてインディアン・テリトリーに向かった。そこでふたたびチェロキー族と暮らし、「亡命生活」を送ったのだ。ヒューストンは手記で当時のことを、「冷酷で策謀の渦巻く、悪徳に満ちた文明社会に再び別れを告げ、聖なる魂の子供らのあいだで暮らす道」を選んだと回想している。
1835年のテキサス独立戦争では、ヒューストンはテキサス軍を率いてメキシコと戦い、その武勲によってテキサス共和国の初代大統領に選出された。
テキサスが独立した翌1836年5月19日、「共和国」の辺境にあるパーカー家の砦がコマンチ族に襲われ、男たちが殺され、9歳の少女シンシア・アンら5人が連れ去られた。その悲劇を知ったジェームズ・パーカーは、姪たちを奪還するために「捜索者」となる。これが映画『捜索者』の背景となった史実だが、ここでテキサス大統領サミュエル・ヒューストンと「捜索者」ジェームズ・パーカーの人生は交錯する。
インディアンに育てられた子どもはインディアンになったメキシコから独立したばかりのテキサス共和国は領土こそ広大だが、人口からすると日本でいう市よりも郡に近く、大統領はさまざまなトラブルに対処しなければならなかった。開拓者の砦がコマンチに襲われ5人が拉致されたというのは当時は大事件で、ジェームズ・パーカーは大統領のサミュエル・ヒューストンに軍隊を派遣するよう要請した。
しかしヒューストンは、事件については哀悼の意を表したものの、身内を救出するためにインディアンを討伐すべきだというパーカーには終始冷淡だった。大統領の職責にある者として、優先すべきはインディアンがメキシコ軍と手を組むのを防ぐことであり、贈り物攻勢で友好的なインディアンの懐柔に努め、彼らの領土を侵害しないと約束していたからだ。それと同時にヒューストンは、ジェームズのことを「インディアンに対して不条理な憎悪を燃やしている男」と見なしていた。
テキサス大統領のヒューストンから支援を断られたことで、パーカーは独力で姪たちを奪還しようと決意した。こうして『捜索者』の物語が始まるのだが、史実ではパーカーは姪の捜索に10年を費やしたのち、あきらめたようだ。
映画『捜索者』では、ジョン・ウェイン扮するイーサンは、姪のデビー(ナタリー・ウッド)が拉致されたまま大人の女になったことで、彼女を見つけたら殺そうと考える。インディアンに育てられた子どもはインディアンになってしまうからだ。だが映画の最後で、コマンチの部落を急襲してデビーを見つけたイーサンは、姪を殺すのを思いとどまり開拓者の村に連れて帰ることにする。デビーは子ども時代を覚えており、皆が抱き合って再会を喜ぶなか、亡き兄と兄嫁への責務を果たしたイーサンは一人荒野へと戻っていくのだ……。これが映画のストーリーだが、史実とはかなり異なる。
ジェームズ・パーカーが「捜索」をあきらめて15年後、すなわち拉致から25年後の1861年に、コマンチの部落を襲ったテキサス・レンジャーズがバッファローの長衣をまとった女を見つけた。兵士が撃とうすると、女は「アメリカーノ」と叫んだ。その女は青い目をしていて、懐に幼い女の子を抱いていた。訊問に対して女は、自分は拉致された白人で、娘のほかに2人の息子がいると答えた。シンシア・アンは34歳になっていた。
インディアンに拉致された少女が奇跡的に発見されたことは、当然のことながら大きなニュースになった。
当時の虜囚物語では、野蛮人(インディアン)に囚われた白人女性は、キリスト教の信仰と道徳心を守って文明社会に帰還することになっていた。シンシア・アンについての記録が徐々になくなっていくのは、ひとびとが求めるこの物語に彼女が応えることができなかったからだ。
あるとき、数カ月ほどコマンチの捕虜になり片言を話せる白人男性がシンシア・アンとの会食の場に招待された。彼がたまたま頭に浮かんだコマンチの言葉を口にした瞬間、シンシアは歓声をあげて飛び上がり、はずみでテーブルに乗った皿がぜんぶ落ちてしまうほど興奮した。
そのあとシンシアは男の腕をつかんで、コマンチの言葉とスペイン語で哀願した。彼女は、「2人の息子のことを思って、わたしは泣き暮らしているの」と訴えた。コマンチから救出されたシンシア・アンが望んでいたのは、子どもたちのいるコマンチの村に戻ることだったのだ。
こうして、文明世界を拒絶したままシンシア・アンは愛娘とともに病死することになる。その時期については、「救出」から2年後の1863年に天然痘かインフルエンザにかかったというものから、娘の死により失意の日々を過ごし1871年に死亡したというものまで諸説ある。
映画『捜索者』で主人公のイーサンは、姪のデビーを「すでにインディアンになってしまった」と突き放す。シンシア・アンの悲劇を見るならば彼の言葉は正しく、映画の最後では、デビーを殺すのを思いとどまったイーサンは、家族のいるインディアンの村に彼女を帰してやるべきだったのかもしれない。
拉致された白人の少女が25年後に発見されたというニュースはじゅうぶんに当時のひとびとを驚かせたが、実はその後、さらに驚くべき出来事が起こる。
シンシア・アンはインディアンの妻になり、2人の息子と1人の娘をもうけたが、「救出」によって息子たちとは離ればなれになってしまった。
1875年5月、コマンチが最後の抵抗をあきらめて騎兵隊に降伏した際、長身で屈強なコマンチのリーダーが通訳になにごとかを熱心に話した。聞き終えた通訳は、それを大佐に伝えた。若者の名はクアナといい、白人の母親と妹を探すためにちからを貸してくれないか、といっていた。通訳は、「母親の名はなんとシンシア・アン・パーカーだと言っています」とつけ加えた。シンシアの息子の一人は、コマンチのリーダーになっていたのだ。
母のシンシアと異なって、息子のクアナについては大量の記録があり、帰順後の人生は細部にいたるまで明らかになっている。それは彼が、当時のアメリカ社会でたちまち“セレブリティ”になったからだ。
クアナは身長190センチで、ひとを射抜くような灰色がかった青い瞳をして、常に強烈な自信をたたえて威厳があった。クアナと出会った親族の女性は、「彼は逞しい男の素晴らしい見本でした。長身で、筋肉質で、一本の矢のように背筋がすきっと伸びていました。……女性の心を奪わずにおかない男性でした」と述べている。
だがクアナが有名になった理由は、その外見だけではない。彼はとてつもなく賢く、新しい生活を始めた途端、白人たちが自分になにを期待しているのかを理解した。そして、白人たちが求める理想の「インディアン・ヒーロー」を巧みに演じるようになったのだ。
当時のベストセラー大衆小説『モヒカン族の最後』(1826)では、イングランド軍の隊長の美しい姉妹が狡猾なインディアンの族長に拉致されるが、それをモヒカン族の若きリーダー、アンカスが救出して恋に落ちる。アンカスはモヒカン族の族長と白人女性とのあいだに生まれたという設定だったが、クアナは自分の父親(シンシアの夫)はコマンチの大酋長だと説明した。――クアナ自身が周到に選別した回顧談についてフランクルは、「うなずけるものも多少あるが、大半は眉唾物と言っていい」と書いている。
クアナは白人の文明に同化した証として三つ揃いのスーツを着て、革靴を履き、ステッキを持ち、シルクハットをかぶったが、その帽子の下はきれいに編んだ髪を赤い布で包み胸の前に垂らした。それはまさに、ひとびとの思い描いた「高貴な野蛮人」の姿そのものだった。
こうして社会的な名声を得たクアナは、政府からインディアンに与えられた土地を白人の牧場主に貸与して大きな経済的利益を得た。もちろん白人たちはクアナのもつ「インディアン利権」に与ろうとしたのだが、その一方でクアナに魅了され、彼のためにちからになりたいと思ったことも間違いない。クアナと牧場主たちの友情は終生つづき、彼らがアメリカ政府にはたらきかけたことでワシントンの高官にも知己を得て、クアナは“コマンチ・インディアンの第一族長”の座を不動のものにした。
クアナは5人の妻をもっていたが、一夫一妻制を「神の命令」と考える当時のアメリカではこれは異例のことだった。それにもかかわらずクアナはアメリカ社交界の名士として受け入れられ、スターハウスと名づけた大邸宅を建て、そこで就任直後のセオドア・ルーズヴェルト大統領をもてなした。
1911年に大往生をとげるまで、クアナ・パーカーはインディアンの地位向上に尽力した。クアナを悩ませたのは、インディアンを差別する白人よりも進歩的で友好的な白人だった。彼らは善意によって子育てや教育に介入し、インディアンの文化や信仰、言語、家族を破壊しようとしたからだ。
クアナの葬儀には白人とインディアンが同数割り振られ、参列者は1200人に及んだ。シンシアとクアナの母子の物語は伝説になり、オペラや交響曲がつくられ、芝居や小説になり、「コマンチの白人族長」というコミックまでできた。テキサス州には、クアナ・パーカーを顕彰して、その名も「クアナ」と名づけらえた町が生まれた。
人口2500人ほどのクアナの町では、毎年夏になると、「テキサス・パーカー」と「コマンチ・パーカー」の一族がお互いの代表を送りあう儀式が行なわれる。クアナの死後100年を記念した2011年の総会はとりわけにぎやかで、シンシア・アンになりきった「テキサス・パーカー」の女性が「1836年5月19日を、わたしは忘れません。あの日、扉の門がひらいて……」と拉致の出来事を演じると、「これは悲劇的な物語です。でも、いろいろな意味で、素晴らしいラヴ・ストーリーでもあるのです」と結んだ。一方、「コマンチ・パーカー」の男性は、「われわれは単なる先住アメリカ人ではない。シンシア・アン・パーカーの子孫であるが故に、アメリカ国民の代表でもあるのだ」と述べた。
コマンチと白人女性のあいだに生まれ、数奇な運命を生きた男は、「白人とインディアンの和解」を見事に演じきった。そしてふたつの「パーカー家」は、1世紀にわたってその神話を語りつづけているのだ。
橘 玲(たちばな あきら)
作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』『橘玲の中国私論』(ダイヤモンド社)『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)など。最新刊は『80's エイティーズ ある80年代の物語』(太田出版)が好評発売中。
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