論争の発端は、アメリカの高名な社会学者リチャード・セネットが、「全米人文科学協会」の「アメリカの多元主義とアイデンティティについての国民的対話」プロジェクトを『ニューヨーク・タイムズ』紙(1994年1月30日)ではげしく批判したことだ。プロジェクトの趣旨は、「テレビ中継される一連の「市民集会」を通じて、アメリカ国内のエスニックな分裂や対立を克服すべく国民共同体の紐帯やアメリカ人のアイデンティティについて確認しなおそうというもの」だったが、セネットはこれを「存在しなかったアメリカを回顧することに他ならない」と難詰した。「アメリカは、当初から富や宗教、言語の相違、奴隷容認州と奴隷反対州の対立によって断片化されていたのであり、南北戦争以後および近年、人々の間にある考え方や生活形態の多様性はますます増大している。そのような歴史と現状において「アメリカ的性格」や「国民的アイデンティティ」を要求することは、「紳士面したナショナリズム」を表明していることにほかならない」のだ(以上、辰巳伸知氏の「訳者解説」より)。
これに対してこちらも高名な哲学者のリチャード・ローティが、同じ『ニューヨーク・タイムズ』紙(1994年2月13日)に「非愛国的アカデミー」という反論を載せた。これは“The Unpatriotic Academy”としてインターネットにアップされていて、一読して強い調子に驚かされる。
ローティの主張は、アメリカの大学(アカデミズム)には自己陶酔的でわけのわからないジャーゴンばかり使っている“サヨク”の知識人が跋扈していて、彼らが「マルチカルチュラリズム(多文化主義)」とか「差異の政治(the politics of difference)」とかを言い立ててアメリカの連帯を破壊しているというものだ。ローティが支持するのは多元主義(pluralism)で、さまざまな文化をもつコミュニティが、(アメリカという)より大きなコミュニティを織り上げていくことだ。ところが文化多元主義のサヨクは人種や宗教・文化によってコミュニティを分断し、対立させている。
「すべての国と同様に、アメリカの歴史には誇るべきものも恥ずべきものもあった」とローティは書く。「しかし、(ひとびとが)自分の国に誇りをもたなければ、(アメリカ人という)アイデンティティをもたなければ、そのアイデンティティを喜びとともに受け入れ、じっくりと噛みしめ、ともに歩んでいこうとしなければ、よりよい国をつくっていくことなどできるはずがない」
これを読んで、「『哲学と自然の鏡』のローティってこんなゴロゴリの保守派だったの?」と驚くひともいるだろう。だったら、次の文章を読むと腰が抜けそうになるにちがいない。
「もしもイデオロギー的な純粋さを追求したり、(正義の)怒りをぶちまけたいという必要から、アカデミックなサヨクが「差異の政治」に固執するなら、そんなものは誰からも相手にされず、なんの役にも立たなくなるにちがいない。非愛国的なサヨクは、けっしてどんな(まともな)場所にもたどりつけない。この国を誇りに思うことを拒絶するようなサヨクは、この国の政治になんの影響も与えられないばかりか、侮辱の対象になってお終いだろう」
愛国者であるローティは、アメリカの大学を「支配」している非愛国的なサヨクに我慢ならなかったのだ。
アメリカでは愛国を指す「ナショナリズム」と「パトリオット」は明確に区別されているは、このローティの投稿に驚愕した哲学者のマーサ・ヌスバウムが『ボストン・レビュー』(1994年10/11月号)に寄稿した「愛国主義とコスモポリタニズム」と、それに対するアマルティア・セン、イマニュエル・ウォーラーステイン、マイケル・ウォルツァーなど著名な知識人の応答をまとめたものだ。ヌスバウムはアリストテレスをはじめとするヨーロッパ古典研究者で、「アリストテレス派社会民主主義」を標榜して活発な政治的・倫理的発言を行なっている(訳者解説より)。とはいえ、ここで述べたいのは(私の手に余る)論争の評価ではなく、「愛国」という言葉の使い方だ。
日本では、「愛国主義」はナショナリズム(Nationalism)のことで、パトリオティズム(Patriotism)は「愛郷主義」、パトリオット(Patriot)は「愛郷者」などと訳されるが(ただしPatriot Lawは「愛国者法」)、アメリカのアカデミズムではローティもヌスバウムも(そして議論に参加した全員が)「国を愛する」意味でPatriotismを使っていて、Nationalismとは厳密に区別されている。そもそもローティの逆鱗に触れたのは、「アメリカの遺産を学ぼう」プロジェクトをセネットが「紳士面したナショナリズム(the gentlemanly face of nationalism)」と揶揄したからなのだ。
このことからわかるように、パトリオティズムの「愛国」はポジティブな、ナショナリズムの「愛国」はネガティブな含意がある。そしてヌスバウムをはじめ、ローティに批判的な論者も含め全員が「パトリオット(愛国者)」であることを当然と前提としている。
それに対して日本では、「愛国主義=ナショナリズム」は「軍国主義」と同義で、日本を悲惨な戦争に引きずり込んだ元凶とされてきた。その結果、「愛国」は右翼の独占物になってしまったのだが、アメリカのリベラルがこれを知ったら仰天するだろう。
「リベラル/保守」についての議論が混乱する理由のひとつは、日本ではふたつの「愛国」が区別されていないからだ。愛国者(パトリオット)であってもナショナリズムを批判することはできる。というか、アメリカのリベラルは「アンチ・ナショナリズムの愛国主義者」だ。
この理解がグローバルスタンダードなのは、そもそも国を愛していない者には国について論じる理由がないからだ。「愛国」を否定する者は、「好きでもない国のことにいちいち口出しするな」という“愛国者”からの批判にこたえることができない。ローティの“Unpatriotic(非愛国的)”に皆が驚愕したのは、これが「議論に参加する資格のない奴ら」という(知識人としては)最大級の批判だからだろう。実際、その後の論争で「非愛国的」であることを擁護した者は一人もいない。全員が「愛国者」として、ありうべき「愛国」について論じているのだ。
このように考えると、日本の「リベラル」の苦境がわかる。「戦後民主主義」は「愛国」を右翼に譲り渡し、「愛国主義(ナショナリズム)」を拒絶してきたために、「愛国リベラル(Patriotic Liberal)」という世界では当たり前の政治的立場を失ってしまった。そのあげく、ネトウヨから「売国奴は黙れ」という攻撃を受けることになるのだが、これに反論するには、「自分たちは愛国者(パトリオット)であり、日本という国を愛しているからこそ(政治や権力を)批判するのだ」と主張しなければならない。
の原著タイトルは“For Love of Country”で、まさに「(国への)愛」がテーマだ。ヌスバウムをはじめとして、すべての論者に「愛国」の理解は共通している。
はじめに、人間の本性として家族(親や子ども、妻や夫)への愛がある。その周辺に近親者(親族)や友人などへの愛があり、それが生まれ故郷への愛につながっている。これが「愛郷心」だ。この同心円が「国」にまで拡張されて、愛国主義(パトリオティズム)になる。
この理解では、国を愛することは家族や恋人を愛するような自然な感情だ。それに対してナショナリズムは、「国家主義」や「全体主義」のようなニュアンスで使われる。ただしこの訳語にも問題があって、Nation Stateを「国民国家」と訳すなら、ナショナリズムは「国民主義」としなければならない。
ともあれ、ナショナリズムを「国家や国民という全体を個人より優先する立場」とするならば、リベラルがナショナリズムを拒絶する理由は明らかだ。リベラルとはその定義上、自由な市民が平等な権利のもとに国家(市民社会)をつくるという政治思想だからだ。
同様に、一般に“保守派”と呼ばれる共同体主義者(コミュニタリアン)がナショナリズムを拒否する理由もわかる。「白熱教室」のマイケル・サンデルが典型だが、彼らは共同体の伝統や文化を利己的な個人より重視するが、その共同体は国家に従属するものではない。建国の父祖たちがアメリカを「合州国」にしたのは、自立した共同体が集まって民主的な国家を運営するためなのだ。
リベラルな愛国者は、ナショナリズムだけでなく、「国粋主義(Jingoism)」や「排外主義(chauvinism)」にも反対する。これらが「愛国」の病理現象だからで、ローティやサンデルのような“保守派”が求めるのは、「国(アメリカ)を愛するひとたちによる寛容な多元主義」なのだ。
だったらなにが問題になるのか、と疑問に思うひともいるだろう。彼らの主張は「リベラル」そのもので、リベラルの側から批判すべきことなどどこにもないように見える。
しかしヌスバウムは、同じ「リベラル」として、ここに「コスモポリタニズム」を対置する。ここでの「コスモポリタン」はギリシアの哲学者(ストア派)のいう「世界市民」のことで、「われわれは単なる統治形態や世俗的な権力にではなく、全人類の人間性によって構成される道徳的共同体に第一の忠誠を誓うべきだ」という立場だ。
とはいえ、ヌスバウムは「愛国」を否定しているわけではない。彼女のローティに対する批判は、「愛国者(パトリオット)でありつつコスモポリタンでもある」ことは可能だし、この国の教育は若者たちを「愛国者」に育てるだけでなく、「世界市民」へと導いていくべきだ、というものだからだ。
それに対してコミュニタリアンなど保守派からは、「それはたんなる理想論で、愛国主義と世界市民主義は両立できない」との批判がなされる。国への愛をそのまま世界へと拡張することなどできず、教育によってコスモポリタンを養成しようとすれば必然的に「愛国心」を破壊してしまうというのだ。
『マルチカルチュラリズム』の著書があるカナダの政治学者チャールズ・テーラーはリベラルな共同体主義者だが、「市民社会がうまく働くのは(中略)彼らの政治的社会は非常に重要な企てであることをそのメンバーの大半が確信しており、またその社会を民主制として機能させ続けるのに不可欠な方策に彼らが参加することがきわめて重要であると信じている、という場合である」として、リベラル・デモクラシーを守るためにこそ「(国への)忠誠」や「市民の同一化」が必要だと述べている。
アメリカのアカデミズムにおける「愛国」問題とは、お互いに「愛国者(パトリオット)」であることを認めつつ、「愛国」に重きを置いたアイデンティティ教育を行なうか、国家の枠を越えた「世界市民」の育成を目指すのかの対立なのだ。
フーリガンは「チームに迷惑をかける行為のどこに“愛”があるのか」という問いにこたえることができないこれはあくまでも私見だが、この構図はサッカーのサポーターとファンのちがいで説明できるかもしれない。
日本でも世界でもサッカーチームには熱烈なサポーターがいて、チームの勝利に歓喜し、敗北に涙を流す。サポーターとは人生(アイデンティティ)がチームと一体化したひとたちで、彼らを突き動かすのは「愛」だ。
それに対してスタジアムには、たまの休日に家族や恋人とスポーツイベントを楽しみたいというひとたちもたくさん訪れる。彼らも贔屓のチームを応援するが、勝っても負けてもすぐに結果を忘れてしまうし、チームではなく個人を応援しにきたり、サッカークラブに入った子どもにプロの試合を見せにきただけの親もいる。ファンはサッカーが「好き」だが、そこには「愛」と呼べるほどの強い感情はない。
この例では、サポーターが「愛国者」、ファンが「コスモポリタン」だ。
サッカー協会が繰り返し「差別・暴力の根絶」を宣言するのは、チームへの「愛」がその正当化に使われるからだ。だがこれは、熱烈にチームを応援すると「差別主義者」になるということではない。もともと差別や暴力を好む一部の人間が、サポーターを装って不道徳な(あるいは違法な)行為の機会を得ようとするのだ。
幸いなことにサッカーでは、チーム愛と、その病理現象であるフーリガンははっきりと区別されている。それはサッカー協会が差別行為に罰則を科しているからで、チームが罰金を支払ったり、無観客試合になったりすることで、フーリガンがチームや選手たちに損害を与えていることがはっきりする。
こうしてサッカーでは、チームを愛する者はそれを貶めるような行為を自重し、ライバルチームを「リスペクト」すべきだ、ということになった。フーリガンは、「チームに迷惑をかける行為のどこに“愛”があるのか」という問いにこたえることができないのだ。
それに対して日本で「愛国」を自称するひとたちは、「朝鮮人を殺せ」などと叫ぶ異様な排外主義団体が世界じゅうのメディアで報じられたとき、「日本を貶めるな」と批判したりはしなかった。そればかりか、彼らの主張に乗じて近隣の国を嘲笑したりもした。そこにあるのは「愛」でも「リスペクト」でもなく、たんなる子供じみた(歪んだ)自己満足だ。
ホワイト・ワーキングクラス(白人労働者階級)の怒りはアカデミズムの「知性主義」に向けられているサッカーが「愛の病」を(かろうじて)抑え込むことができるのは、ファンの存在も大きい。彼らは楽しむためにスタジアムに来ているのだから、そこが差別や暴力の場になったら近づこうとは思わないだろう。メインスタンドの指定席など、高いお金を払ってくれるのはファンなのだから、フーリガンをきびしく取り締まらないと経営が成り立たないのだ。
その一方で、ファンもサポーターの価値を認めている。なんといってもスタジアムの独特な雰囲気は、ゴール裏にいる熱烈なサポーターの応援がつくりだしているのだから。ファンとサポーターがお互いを認め合ってはじめて、「フィールド・オブ・ドリームス(夢の劇場)」が生まれるのだ。
サッカーではサポーター(愛国者)とファン(コスモポリタン)の共生が目指され、これに失敗するとスタジアムに閑古鳥が鳴くことになる。それがイタリアのセリエAで、かつては「男たちの人生そのもの」といわれたサッカーは、たびかさなるフーリガンの事件によってすっかり人気を失ってしまった(2007年のスタジアムの暴動で警察官1人が死亡したことで、フーリガン対策法が施行された)。
一方、ドイツのブンデスリーガはきらびやかなスター選手がいるわけでもなく、「面白くないリーグ」の代名詞だったのが、「家族で安心して楽しめるスタジアム」をアピールすることで、いまや全試合満員が当たり前になった。サッカーはグローバルスポーツなので、こうした成功例と失敗例によって、(日本を含む)他国のリーグもどうすればいいかわかるのだ。
このように考えると、社会がちゃんと機能するには、愛国者もコスモポリタンも必要だとわかる。愛国者であることで批判されるいわれはないし、すべての国民が愛国者である必要もない。問題なのはサッカーとちがって、どうすれば両者が正しく共生できるかの仕組みが欠けていることだろう。
なお、この論争が行なわれたのは20年前で、いまでは「国家」を家族や故郷と同じ“自然な”愛の対象と見なす研究者は多くないだろう。また、家族や仲間への共感にしても、それは純粋によいものではなく、部族主義につながるだけだとの批判も出てきた(ポール・ブルーム『反共感論』)。愛国心(ファスト思考)を拡張してもコスモポリタン(世界市民)になることはできず、社会を正しく運営するには理性(スロー思考)が必要なのだ。こうした啓蒙に効果があるかどうかは別として、無償の「愛」や「共感」は問題を解決するのではなく、問題を生み出しているという認識がこれからの主流になっていくだろう。
いうまでもないが、この「愛国論争」はアメリカの知的コミュニティのなかのもので、その背後には高卒や高校中退で働いている膨大な「愛国者」がいる。彼ら(脱落しつつある)白人中流層がトランプ大統領を生み出し、アメリカを分裂させたのだから、ローティの懸念は正しかったともいえる。もっとも、ホワイト・ワーキングクラス(白人労働者階級)の怒りは「サヨク」だけでなく、ここに登場するすべての論者を含むアカデミズムの「知性主義」に向けられているのだが。
橘 玲(たちばな あきら)
作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』『橘玲の中国私論』(ダイヤモンド社)『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)など。最新刊は『80's エイティーズ ある80年代の物語』(太田出版)が好評発売中。