サッカー・ワールドカップに合わせてロシアを旅し、日本×ベルギー戦が行なわれたロストフ・ナ・ドヌを訪れた話は以前書いた。

[参考記事]
●サッカーW杯観戦で観た予想外のロシア

「ドヌ」は「ドン(川)の」という意味で、「ドン川沿いのロストフ」になる。

ロシアにはネロ湖に面したロストフという古都があり、そこと区別するためにこう呼ばれている。とはいえ観光地というわけではなく、戦争と革命に翻弄されるコサックの若者を描いたミハイル・ショーロホフの長編『静かなドン』の舞台となったことくらいしか知らなかった。

 ドン川を実際に見たことでこの小説を思い出したのだが、そもそもコサックとはどんなひとたちで、彼らは現在どうなっているのだろうか。そんな興味が芽生えてすこし調べてみた。

国家からは独立し民主的な自治を行なうコサックはきわめて特異な軍事集団

 コサックの起源は諸説あるものの、13世紀に東スラヴ人の国家キエフ・ルーシが遊牧民の襲来などで混乱した際、北方の森林地帯への移動を拒んで、黒海に注ぐドニエプル川やドニエストル川の沿岸に残り、漁撈や狩猟で暮らすようになった「ブロドニク(浅瀬を渡る人)」がルーツとされる。

 1223年、チンギス汗率いるモンゴル軍がこの地を襲い、27年にキプチャク(金帳)汗国による支配が始まる。俗にいう「タタールの頚(くびき)」で、これにともなってスラヴ人の脱走兵士などが合流して武装化が進んだ。彼らがコサックと呼ばれるようになるのだが、その実態は周辺の町や村の略奪を生業とする匪賊や野盗の類だった。なお「コサック」は日本語読みで、ロシア語では「カザーク」で、その原義はチュルク(トルコ)語の「自由な人」「反逆者」だとされる(これにも諸説ある)。

 キプチャク汗国は約300年つづいて1502年に滅亡するが、その間にロシア(スラヴ)人とタタール(モンゴル系やテュルク系などの遊牧民)の混血が進んだ。その後、モスクワ公国が台頭するが、キプチャク汗国はロシア人が軍隊をもつことを許さなかったので、公国の常備軍はタタール化したロシア人を主力にするほかなかった。その常備軍もきわめて貧弱で、自治権と引き換えにコサックが辺境の警備を請け負うことになった。

いまでいう傭兵だが、国家から報酬が支払われたわけではなく、そのかわりに周辺のタタールの町への略奪が黙認された。

 農奴制は16世紀のロシア(モスクワ大公国)で確立し、農民たちは領主の土地にしばりつけられたが、苛酷な税に耐えかねて逃亡する者も多かった。こうした逃亡農民や、法を犯した者たちは「自由な大地」を目指して南に向かった。ひとたびコサックの集団に加われば、「仲間を引き渡さない」という掟によって、刑吏や地主、債権者の追及から守られたからだ。ロシア創成期において、コサックはある種のアジールだった。

 ロシア人とタタールの混じり合ったコサックは遊牧民の文化から大きな影響を受けており、日本でもよく知られる民謡や踊りにもその痕跡は色濃く残っている。だがコサックには、ロシアとの強い精神的なつながりがあった。それが宗教で、タタールの遊牧民もコサックに加わる際には必ずロシア正教に改宗した。正教への熱烈な帰依は、のちに熱烈なロシア愛国主義と結びつくことになる。

 武装集団であると同時に漁撈民でもあるコサックは、ドニエプル川からドン川、カスピ海に注ぐヴォルガ川へと定住地を広げていった。ドン川流域で暮らすようになったのがドン・コサックで、数千人規模の兵士を要するコサック最大の軍団を形成した。

 コサックの敵はクリミア汗国など周辺のタタール人であり、南のオスマン帝国だった。

宗教以外はタタール化したコサックは、遊牧民と同様に馬を操り、騎兵の戦闘術に習熟していた。

 集団の規模が大きくなるにつれて、コサックは独特の自治組織をつくるようになる。重要な問題は全員が集まる総会で決定され、多数決によって統率者であるアタマンが選ばれた。

 アタマンの任期は1年で、再任されることもあるが世襲は認められず、任期が終わると一般のコサックの身分に戻った。軍団はモンゴルの兵制と同じく50人単位、100人単位の部隊に編成され、指揮官は互選された。

 ロシアへの親近感はあるものの国家からは独立し、民主的な自治を行なうコサックはきわめて特異な軍事集団だった。彼らの日常は戦いに明け暮れ、周辺のタタールの町を略奪する一方で、しばしばタタール人の攻撃を受けた。さらわれたコサックの女や子どもは奴隷市場で売られ、オスマン帝国などに送られていった。

偽王子の乱立など混乱した動乱時代(スムータ)

 1533年にイワン4世(雷帝)がツァーリ(皇帝)に即位すると、ロシア帝国は急速に版図を拡大していく。

 この時期のドン・コサックの代表的なアタマンがイェルマークで、ポーランドとの戦い(西方戦争)で活躍したが、雷帝の指示を無視してクリミア汗国を侵略したことで怒りを買い、死刑を宣告されてしまう。イェルマークはやむなく、600人ほどの部下をひきつれてシベリアに逃亡することになる。これが有名なシベリア遠征で、シベリア汗国の首都シビリ(イスケル)を攻略する勲功によって死罪を免じられたばかりか、「シベリア公」を名乗ることを許された。

 イェルマークは1585年にタタールとの戦いで戦死するが、その後もコサックによるシベリアへの進出はつづき、1644年にはカムチャッカ半島の東端に達した。

 1584年に雷帝が死ぬと、ロシアは摂政のボリス・ゴドノフが国政を支配する動乱時代(スムータ)を迎えることになる。後継者のフョードル帝が病死して血統が途絶えるとゴドノフは自らツァーリを名乗ったが、民衆はこの新しい皇帝を認めず、ロシアは奇怪な陰謀論の渦に翻弄されることになる。

 ドミトリー皇子はイワン雷帝の6番目の后マリアの子で、存命であればただ一人の直系の皇位継承者だが、雷帝の死後、モスクワから遠く離れた地で死亡していた。公式にはてんかんの発作による事故死とされたが、ひとびとはゴドノフの命を受けた皇子の側近たちが首を掻き切ったのだと噂した。ところがそのドミトリー皇子が生きていて、ドン・コサックとともにモスクワに向かうというのだ。

 通説によれば、偽ドミトリーはユーリー・オトレピエフという下級貴族の遺児で、修道士として僧院で暮らしていたが、自分はドミトリー皇子だと話したことでゴドノフに生命を狙われることになりポーランド支配下のキエフに逃れた。

 ロシアと敵対するポーランドは偽ドミトリーを利用して帝位の簒奪を企み、ゴドノフと敵対するコサックを巻き込んで1万5000の軍勢をロシアに送り込んだ。これに対してゴドノフは全国から5万の兵を集めて迎え撃ち、形勢不利となった偽ドミトリーの寄せ集め部隊はたちまち散り散りになった。

 だがここで、敵の首領であるゴドノフが病死するという事件が起きる。するとモスクワの貴族たちはクーデターを起こし、なんと偽ドミトリーを新皇帝として迎え入れたのだ。

 だが貴族たちは、権力闘争のための道具として偽ドミトリーを利用しただけだった。

新皇帝が身勝手なふるまいをすると1年後には民衆を扇動してクレムリンに突入させ、皇帝を殺してしまう。その後、身内からツァーリを選出して戴冠式を行なうのだが、これを認めないドン・コサックが「殺されたのは偽のドミトリーで、本物のドミトリーは別に生きている」という第二の偽ドミトリー(モルチャノフというユダヤ人とされる)を担いで3万人の反乱軍を組織し、さらには北カフカスのテレク川流域を地盤とするテレク・コサックがフョードル帝の遺児ピュートルを名乗る別の偽皇子を担いで反乱を起こした。

 するとこの混乱に乗じて、ポーランドのジグムント国王が自ら軍を率いてモスクワに入場し、クレムリンを占領してしまう。ジグムント国王の狙いはロシアをポーランドの属国にすることだったが、ことここに至ってようやく内乱に明け暮れていた貴族やコサックたちの愛国主義が目覚め、国民軍を編成してポーランド軍を追い落とすことに成功した。こうして1613年にロマノフ王朝が成立することになるのだが、この大混乱によってゴドノフの時代に1400万だったロシアの人口は700万まで激減したという。

コサックの典型的なイメージは、破天荒で破滅的なラージンの生き様から作られた

 ロマノフ朝の成立からピュートル大帝が権力を握る1689年までの約70年間は、西には現在のウクライナまで領土を拡張したポーランド、南からはオスマン帝国とその属国であるクリミア汗国に脅かされる不安定な時代がつづいた。この時期に登場したコサックの英雄がステンカ・ラージンだ。

 コサックの土地には依然として逃亡農民や脱走兵士などが流れ込み、「ゴルィチ(貧民)」と呼ばれる下層階級が形成された。裕福なコサックの家系に生まれ、信望厚いアタマンだったステパン(ステンカは愛称)・ラージンはそんな下層コサックに同情的で、実権を握る保守的な長老たちと対立すると貧民に身を投じ、彼らのアタマンとなった。

 ラージンにとっての最大の問題は、貧民たちには耕す土地も仕事もなく、生きていく術をもたないことだった。唯一残された選択肢は、むかしながらのコサックの伝統、すなわち略奪だった。

 最初は黒海沿岸のオスマン帝国の町を襲うことを計画したが、守りが固いとみるや断念し、2000人の野盗の群れを率いてヴォルガ川を下りカスピ海を目指した。

 1686年3月、24隻の船に分乗したラージンの軍団はカスピ海西岸のタタール人の町を攻略し、奴隷として囚われていた多くのロシア人捕虜を解放した。さらに南に下るとペルシア国境のバクー近くで交戦になった。ラージンはペルシア艦隊を撃破し、司令官の息子と娘を捕虜にした。ロシア民謡で歌い継がれる“(ラージンが愛した)ペルシアの美しい姫”はこの司令官の娘ともいわれる。

 ペルシアの町々から略奪した莫大な財物を持ち帰ったラージンはツァーリに帰順の意を示し、大型船と大砲などの武器を引き渡すことでドンへの帰還が認められた。ラージンに率いられた下層コサックたちは船中で連日、盛大な酒盛りを繰り返しながらヴォルガ川を遡行し、意気揚々とドン・コサックの本営に入った。だがここでも傍若無人な振る舞いをつづけたため反感を買い、ラージンはツァーリの使者を切り殺してしまう。

 ふたたびお尋ね者になったラージンは、貧民たちを集めると今度はロシアの町を略奪し、反乱軍としてモスクワを目指した。

 知略に長けたラージンは、自分たちは(すでに死んでいる)皇子アレクセイと、ツァーリの不興をかって追放されたニコン総主教を担いでいると吹聴し、「農奴制の廃止、貴族や役人の打倒、少数民族との融和、人民の側に立つ下層の士族や貴族の身の安全の保障」などの“理念”を書いた檄文「魅惑の書」をばらまいて、いたるところで農民蜂起を引き起こした。

 こうしてラージンはヴォルガ川とドン川にはさまれた広大な地域を支配し、首都モスクワを脅かすまでになる。占領地域では役人や貴族が一掃され、農奴は解放されて、町は人民集会による自治によって運営された。

 これに危機感を抱いた政府側は大部隊を編成して反撃に転じ、1カ月に及ぶ攻防戦の末にラージンは撤退を余儀なくされ、最後は仲間に裏切られて国軍に身柄を引き渡された。

弟とともにモスクワに送られたラージンは、市内引き回しの後、額に焼印を捺され、生きたまま手足を切断され、最後に首を切られて処刑された。

 その後、破天荒で破滅的なラージンの生き様は伝説となり、コサックの典型的なイメージがつくられていく。だが皮肉なことに、「自由の民」だったコサックはこれ以降、ロシア帝国の臣民に組み込まれていくことになる。

 ピュートル大帝とエカテリーナ女帝の時代には、コサックは「ツァーリの私兵」として領土拡張の先兵となったのだ。

帝政ロシアの崩壊と革命によりコサックの7割が死んだ

 コサックの運命を大きく変えたのは、帝政ロシアの崩壊と革命だった。

 1917年の2月革命によってロマノフ朝が倒れるとコサックはアタマンによる伝統的な自治を復活させ、レーニンらのボリシェヴィキと対立した。10月革命よってそのボリシェヴィキが権力を握ると内戦が始まるが、コサックの貧農兵士のなかには革命思想に共鳴する者もおり、彼らは「赤いコサック」となって赤軍に加わった。それに対して富裕なコサック上層部は帝政復活をめざす反革命勢力につき、「白いコサック」として白衛軍の主力を担った。ショーロホフがで描いたのはこの時代だ。

 当初は拮抗していた両軍だが、革命に介入しようとした周辺諸国の軍隊(連合軍)が撤退すると赤軍が主導権を握るようになり、1920年4月、ドン・コサックの一部は連合軍が手配した船でクリミア半島に脱出した。その後、3万人のコサックを含む白衛軍は西ヨーロッパ諸国やアメリカに亡命し“白系ロシア人”と呼ばれるようになる。

 国内に残ったコサックたちの運命はさらに悲惨だった。

 革命直後は“赤いコサック”にドン共和国などの自治が認められたが、それもすぐに廃止され、コサックそのものがソビエトにとって危険な敵性分子とされた。さらにスターリンは、コサックが開拓してきた土地を収用したばかりか、北カフカスのコサック村を解体し、チェチェン人やイングーシ人の移住を認めた。この混乱で生じた憎悪や怨念が、現在に至るロシアの民族問題につながっている。

 1930年代には全国的な農業の集団化が行なわれ、コサックの土地は国営農場(ソホーズ)や集団農場(コルホーズ)に再組織化された。これに抵抗したロシアやウクライナ南部の旧コサックの富農たちは反革命分子として銃殺されるか、シベリア流刑になった。

 第二次世界大戦では一時的にコサック騎兵師団が復活したが、戦争が終わると用済みとされ、1940年代後半には廃止された。こうしてコサックは、ソビエト政権下ではその存在を抹殺され、ひとびとの記憶からも消えていくことになる。

 帝政末期にはコサック身分の国民は約440万人いたが、内戦とソビエト時代の弾圧によって、その70%が戦死や処刑、流刑死などで生命を失ったとされる。

“大統領の私兵”として復活したコサック

 コサックの数奇な歴史を知れば、ドン川流域の街を訪れてもそこになんの痕跡も感じられないのは当然だ。ソビエト時代にコサックの共同体は根こそぎにされてしまった。

 だがソ連末期の1980年代後半になると、ゴルバチョフのペレストロイカ(改革)政策によって、国内に残っていたコサック家系の2代目、3代目の子孫を中心に、コサック復興運動が各地で自然発生的に始まった。彼らは消えたのではなく、冬の時代をずっと耐えていたのだ。

 ソビエト体制末期の1991年4月、ロシア共和国最高会議が「抑圧された諸民族の名誉回復に関する共和国法」を制定し、スターリン時代に国家反逆者のレッテルを貼られ強制移住させられたカフカス諸民族やクリミア・タタールなどと並んで、コサックも「被抑圧集団」として名誉や諸権利の回復の対象に加えることを明記した。

 新生ロシア発足(91年12月)後の92年6月、エリツィン大統領は「抑圧された諸民族の名誉と権利回復法をコサックに適用するための措置について」という大統領令を交付し、コサック復興運動を国家として支援することを約束した。民主化によって、国内に300万人とも500万人ともいわれる「コサック・アイデンティティ」をもつ集団が大きな政治勢力になっていたのだ。

 翌93年3月には、エリツィン大統領は「ロシア連邦北カフカス地域における軍編制、国境警備軍、内務軍の改革及びコサックに対する国家支援について」と題した大統領令に署名し、ロシア軍のなかにコサック出身者だけで編制する「コサック部隊」を創設することを命じた。これは保守派との権力闘争のなかで、コサックの支持を取りつけることへの見返りとされるが、国軍のなかに「私兵」が加わるという、およそ近代国家ではあり得ない事態となった。

 コサック部隊の主要任務は国境警備で、これは帝政ロシア時代、辺境に送られ領土拡張の先兵となったのとまったく同じだ。この部隊がカフカスのチェチェン独立運動を抑えるのに動員されたことから、紛争は泥沼化していくことになる。

 さらに96年1月、エリツィンは大統領府内に大統領直属のコサック軍総局を設置する大統領令を発表し、コサック軍団の登録やアタマンの任命、活動の統制に議会の承認や内閣の審議を必要としなくなった。帝政時代のコサックは“ツァーリの私兵”だったが、いまや“大統領の私兵”として復活したのだ。

 地図を見てはじめて理解したのだが、ロストフ・ナ・ドヌから北西に100キロほど行けばウクライナとの国境だ。ドネツクなどウクライナ東部はかつてはドン・コサックの土地で、現在はロシアの武装勢力(民兵)によって軍事的に支配されている。ロシアは軍の関与を否定しているが、だとしたらなぜたんなる民兵がこれほどの軍事力を保持できるのだろうか。だがこの疑問は、彼らが「コサック部隊」だと考えれば解けるだろう。

 コサックのアイデンティティは「正教」と「愛国」で、帝政ロシア時代から国土を守ることに生命を賭けてきた。この「正義」が、ウクライナやカフカスでの過剰とも思える武力行使を正当化している。

 なお本稿は、NHK記者としてソ連・ロシア情勢に長くかかわった植田樹氏の『コサックのロシア――戦う民族主義の先兵』にもとづいている。その植田氏は北方領土問題についてこう書いている。

「コサックは、彼らが南クルリ(千島列島南部)と呼ぶ北方領土(歯舞、色丹、国後、択捉)は彼らの先祖たちが獲得したロシア辺境の不可分の領土だと考えている。北方領土に関わる歴史の事実関係や外交の経緯は彼らには何の意味もなさない。いったん獲得した領土はいかなる理由であれ、手放してはならないという愛国心がすべてなのだ。理屈や法的根拠の論議も通じない」

 外務省は認めたがらないが、これが北方領土「交渉」に対するロシアの態度なのだろう。


橘 玲(たちばな あきら)

作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)、『橘玲の中国私論』の改訂文庫本(新潮文庫)など。最新刊は、『朝日ぎらい よりよい世界のためのリベラル進化論』(朝日新書) 。

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