[参考記事]
●ロシアへの併合で活気づく「係争地」クリミアはクレジットカードもATMも使えなかった
セバストポリ近郊には、古代ギリシアにまで遡るケルソネソスの遺跡があり、ローマ時代の劇場や温泉の跡などが保存されている。
古代の世界観においては、地球は平面で、大河の水源である巨大な水域(オーケアノス)によって囲まれているとされた。
ギリシア人が「世界の果て」を目指して黒海での活動を始めたのは紀元前1000年紀の前半、あるいはさらに早い時期にまで遡るとされる。当初は南岸で鉱物資源などを探索していたが、やがて北岸のドニエプル川などを上ってユーラシア草原地帯にまで到達した。ドナウ川やドン川も同じだが、大河が流れ込み航行が容易で、魚類や造船用木材が豊富な黒海沿岸はたちまちギリシア人を魅了し、冒険心を掻き立てた。当時、エーゲ海沿岸の都市国家は人口が急増しており、それにともなう食糧危機も移住の要因だったようだ。
プラトンの時代のギリシア人にとっては、世界とは「ヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)からファシス(リオニ)川まで広がるもの」(『パイドン』)だった。リオニ川は南コーカサスのジョージア(グルジア)を流れて黒海東岸に注ぎ、河口にはファシスの街があった。紀元前400年頃には、ギリシア人はすでに地中海の西端から黒海の東端まで航海していたのだ。
だがそれでも、勝手知ったるエーゲ海とは異なり、ギリシア人にとって黒海は「人知のかなたの世界」への旅だった。
ドナウ川河口(あるいはドニエプル川河口)の岩がちな島にはアキレウスの墓があり、ヘラクレスが番犬ケルベロスを捕まえるために冥府に下った場所は黒海南岸だった。
ヘラクレスなどの英雄たちがアルゴー号に乗り込んだのは、黄金の羊の毛皮(金羊毛)を手に入れるためだった。この秘宝はコルキスの王が所有し、眠らないドラゴンによって守られているとされた。コルキスはコーカサス(カフカス)のことで、現在のジョージア(グルジア)にあたる。この名高い冒険の舞台は黒海で、物語の原型はホメロスやヘシオドスの時代から知られていたが、紀元前4世紀末のヘレニズム期に完成した。
この頃、黒海北方には「キンメリア」と呼ばれる遊牧民族がいた。創世記ではノアの孫の一人ゴメルと結びつけられ、預言者エレミヤは、「北方から」現われ、弓と槍で武装して「海のように咆哮する」残虐なキンメリアの騎兵の侵攻を悲嘆した。これが事実とすると、紀元前8世紀のことと推測される。
キンメリアはわずかな資料だけを残して間もなく歴史から姿を消したが、その名は「クリミア」として残された。さらに、この伝説は意外なところでも使われている。
古代ギリシアの黒海交易の拠点は、エーゲ海東岸のイオニア地方(現在のトルコ)にあるミトレスだった。紀元前600年代中頃、北方との交易に注力するようになったミトレスはエーゲ海から黒海への出入口であるダーダネルス海峡とボスポラス海峡を管理下に置き、前500年頃までの1世紀半にわたって、穀物・金属・保存加工された魚の交易で富をかき集めて、ギリシア世界でもっとも強力な都市のひとつとして繁栄した。
ミトレス人は黒海南岸にシノペ、コーカサス山麓にディオスクリアス、アゾフ海の入口にパンティカパイオン、北方の草原地帯の玄関口としてヒュパニス川(現在のブーグ川)河口のオルビアなどの植民都市を次々と建設した。ケルソネソスが建設されたのは紀元前5世紀で、黒海西岸のトミス(コンスタンツァ)、オデッスス(ヴァルナ)などの主要都市とともに交易拠点として繁栄した。
古代ギリシア人の優れた航海術なら、黒海東北部の内海であるアゾフ海からエーゲ海のロードス島まで、風向きがよければ9日間で航行することが可能だった。大河の沿岸で栽培された小麦や大麦はイオニアやギリシア本土にとって必要不可欠な食料で、スパルタとの戦争中、アテナイは黒海からの輸入穀物に依存していた。アテナイが降伏した一因は、スパルタによってダーダネルス海峡を封鎖されたことだった。
オペラ『ポント王のミトリダーテ』のモデルとなったミトリダテスの悲劇的な運命ギリシア人に代わってローマ人が地中海世界の覇権を握った紀元前1世紀、黒海にはポントス王国が勃興した。とりわけ有名なのがミトリダテス六世エウパトルだ。
伝説によれば、父王が暗殺されたあと、ミトリダテスの母親は彼を殺して弟を王位につけようとした。その謀略を知ったミトリダテスは山中に逃れ、協力者の軍勢を募ると王宮に攻め入って母を投獄し、弟を処刑した。
ポントス王国は黒海南岸のコーカサスに近い東部を発祥の地とするが、ミトリダテス王の時代にクリミア半島のケルソネソスを領有し、アゾフ海沿岸に領土を広げた。このように領土が南と北に分裂するのは奇妙に思えるが、黒海は東西に長く南北に短いため、当時の航海術の水準を考えれば南岸と北岸は「隣接」していたのだ。
ローマとカルタゴが争ったポエニ戦争ではポントス王国はローマの側についたが、ミトリダテスの時代には黒海を支配下に置こうとするローマと敵対関係になる。
ミトリダテスは25万の歩兵と4万の騎兵、数百隻の艦隊を従え、黒海沿岸のローマの同盟国を圧倒していた。ローマの命を受けて同盟国がポントス王国に先制攻撃をかけると、ミトリダテスは容易に侵略軍を打ち破り、小アジアを通ってエーゲ海沿岸まで進出、ローマに代わってヘレニズムの偉大な国家を復活させると宣言した。
紀元前88年からのミトリダテス戦争ではギリシア本土まで侵入しアテナイを占領したが、ローマ軍が増援部隊を投入すると快進撃は止まり、征服地を放棄して撤退した。
この対立に決着をつけたのが共和政ローマの英雄でカエサルのライバルでもあったポンペイウスで、紀元前66年に大軍団を引き連れて黒海に遠征すると、ミトリダテスはコーカサスに逃亡し、北に向かってクリミア半島の要衝パンティカパイオンに辿り着いた。
クリミアの地でミトリダテスは、スキタイ人とゲタイ人から新たな軍勢を呼び集め、ドナウ川を遡行して進軍し、ガリア人の助けでイタリアに侵入してローマ本市を攻撃するという壮大な計画を練っていた。だが配下の兵士たちに反乱が起き、息子の1人であるファルナケスに王位を奪われると、生きてローマに連行されることを拒んだミトリダテスは毒を飲んだ。それが効かないとみると、ガリア人の家臣の1人がこれを哀れんで剣でとどめをさしたという。
ファルケナスは好意と友情の証としてポンペイウスに父の遺体を送ったが、防腐処置人が脳を取り除くのを忘れたため、王の遺体は腐敗して顔面を著しく崩壊させ、ほとんど身元判別不能な有様だった。その死体を確認したポンペイウスは、ミトリダテスをローマの東方におけるもっとも偉大な敵だと宣言し、シノペに特別に誂えた霊廟に埋葬した。
ミトリダテスの悲劇的な運命は西欧人を魅了し、ラシーヌの戯曲をモーツァルトがオペラにした『ポント王のミトリダーテ』などで広く知られている。
黒海の歴史の画期はビザンティウムに「新ローマ」を建設したこと黒海の歴史の画期は、キリスト教を国教としたローマ帝国皇帝コンスタンティノス一世が、紀元330年にボスポラス海峡に面した東西交易の要衝ビザンティウムに「新ローマ」を建設したことだ。コンスタンティノープルと名づけられたこの都市は、ローマが東西に分裂すると東ローマの首都となり、オスマン帝国(メフメト二世)によって1453年に陥落するまで1000年以上にわたり、正教の守護者として東方世界(ロシア、東欧)に大きな影響力をもった。
東ローマは「ビザンツ帝国」と呼ばれるが、これは後世のヨーロッパの歴史家たちの造語で、当時は「ロムニア(ローマ)」と呼ばれていた。ビザンツ人はギリシア語を話しヘレニズム文化を継承したが、彼らの意識では自分たちが「ローマ」そのもので、「ロマイオイ(ローマ人)」を自称した。今日でもトルコでは、ギリシア語話者を「ルムラル(ローマ人)」と呼ぶ。
ビザンツ帝国は地政学的な優位性で地中海と黒海の交易を支配し繁栄したと思われているが、実態はボスポラス海峡を通過する船から関税を徴収することしかしていなかったようだ。これは黒海沿岸にさまざまな民族集団が勃興していたからで、歴代の皇帝たちは彼ら「蛮族」と友好関係を結ぶことに腐心せざるを得なかった。
ビザンツ帝国の軍隊は馬を自在に駆る遊牧民に陸戦では歯が立たなかったが、海戦では攻守が逆転した。それは「海の火(ギリシアの火)」と呼ばれた新兵器があったからで、コンスタンティノス七世は我が子に対してその秘密をけっして明かさぬよう厳命した。
史料によれば、「海の火」は戦艦の船主に青銅で縁取られた長い木製の管を取りつけたもので、一方の先端を敵船に向け、もう一方の端は空気ポンプにつながれていた。火薬を管に詰めて着火し、反対側からポンプで空気を送り込むと、敵に向かって炎がアーチ状に射出したという。いわば火炎放射器で、その威力は強力で海面ですら燃え上がった。ビザンツ海軍の巨大戦艦にはこの「海の火」が複数取りつけられ、海兵が使用するための携帯式のものもあった。
この秘密兵器をアラブの史家は、「炎を発する管1本で12人が一撃で倒される。その炎はきわめて強力な上に粘っこいので、何人たりともそれに抗うことはできない。それはもっともムスリムが恐れた兵器であった」と描写した。「海の火」についてのもっとも古い言及は6世紀あるいは7世紀まで遡り、素材はおそらく原油かナフサで、黒海東北岸のタマン半島の地面に湧き出る油田などから採集したものと推測されている。
ビザンツ帝国は交易国家というよりも、頑強な城壁と科学技術によって守りを固め、異民族の侵入を防ぐことで生きながらえてきた。ルネサンス期になると地中海・黒海交易はヴェネチアやジェノバの商人たちに独占され、帝国の凋落は決定的なものになっていく。
7世紀から約300年にわたって黒海沿岸を支配したハザール人の物語中世の黒海の歴史で興味深いのは、7世紀から10世紀までの約300年間にわたって北岸と東岸を支配したハザール人の物語だ。
ハザール人の出自は定かではないが、その領土はコーカサス山脈の北の平原にあり、黒海とカスピ海両方に接していたとされる。
あるハザールの可汗(君主)はスペイン人に送った書簡で、彼の民はノアの息子の一人ヤペテの子孫であると述べているが、実際にはテュルク(トルコ)系であったと考えられ、ビザンツではしばしば「トゥルコイ」と呼ばれていた。ステップのテュルク系諸民族に近い言語を話していたようだ。
ハザールはヴォルガ川からクリミアに至る領域を支配し、カスピ海と黒海を結ぶルートを開いたことで、中央アジアと西方の交易の中継者として力を蓄え繁栄した。ヴォルガ川とドン川沿いのハザール諸都市は、ヨーロッパとユーラシアの商人が塩・蝋・毛皮・蜂蜜・奴隷などを交換する重要な商業拠点だった。10世紀初頭にハザールの領土を訪れたアラブの旅行家は、交易を行なうためバルト海からはるばる川を下ってやってきた、刺青をしたノース人の一団と出会っている。
695年、ローマ皇帝ユスティニアノス二世は帝位を主張する敵対者によって皇帝の座を逐われたうえ、鼻を削がれ、当時ハザールの勢力下にあったクリミア半島のケルソネソスに流刑された。しかしユスティニアノスはその流刑地で再起をはかり、削がれた鼻の代わりに黄金製の付け鼻をつけ、庇護者であったハザールの可汗の妹を娶り、その持参金としてファナゴリアの街の支配権を得た。こうしてちからを蓄えたユスティニアノスは、ついには705年に簒奪者から帝位をもぎ取ることに成功する。洗礼を受けキリスト教徒となったハザール人の妻テオドラは、ビザンツにおける最初の外国人の皇后となった。だが復位したユスティニアノスは異常に猜疑心が強くなり、側近を次々と粛清したことで政治は混乱し、最後はハザール人の支援を受けた反乱軍にコンスタンティノープルを奪われ、逃亡先の小アジアで殺された。
ハザールについては、以下のような興味深い話が伝わっている。
そのむかし、正式な宗教教育を受けることを望んだハザールのブラン可汗が、ビザンツ、アラブ、ユダヤから学識のある人物を招き、それぞれの信仰がいかなる点で優れているかを討論させた。ところが議論は怒鳴り合いの口喧嘩になり、苛立ったブランは、キリスト教とイスラームの賢者に、自分の宗教を除く他の2つから選ばねばならないとしたらどちらがましかを訊ねた。すると両者はやむを得ず「ユダヤ教」と答えたため、ハザールの民は国をあげてユダヤ教に改宗することし、ブラン可汗はその証として自ら割礼を受けた……。
この物語の典拠は当然ながらあやしいが、ハザールが700年代中盤のどこかでユダヤ教を受容したことは事実らしい。改宗の知らせは、コンスタンティノープルやバグダードから、ハザールの貴族に信仰を説くためにユダヤの学者たちをハザールの国に呼び寄せた。
この新たなユーラシアのユダヤ教帝国は中世初期には広く知れわたるところとなり、キリスト教徒の冒険者たちを東方へと駆り立てた「プレスター・ジョンの伝説」の先駆けとなった。この伝説では、異端とされたネストリウス派キリスト教の司祭がアジアあるいはアフリカにキリスト教徒の王国を建国し、イスラーム教徒に勝利を収めたとされる。
ハザールの帝国は数世紀のちにほとんど物理的な痕跡も残さず姿を消してしまったが、その記憶は生きつづけ、カスピ海はアラビア語では「バフル・アル・ハザル」、テュルク語では「ハゼル・デニズィ」すなわち「ハザールの海」と名づけられ、中世の地中海の船乗りたちはクリミア半島を「ガザリア(ハザールの地)」と呼んでいた。
故郷を失ったハザール人たちは流浪の民となり、ユダヤ教の教えを守りながらも北方ではスラヴ系と、西方(東欧)ではヨーロッパ系と交わった。この流浪の民がアシュケナージと呼ばれる東欧系ユダヤ人の祖先ではないかといわれている。
ハザールの衰亡は、森深い北部と河川沿いのステップ地方にいたルーシの諸公国に圧迫されたためだった。900年代後半には、ルーシはコーカサス北部の主要なハザールの要塞を征圧し、アゾフ海周辺からハザールの勢力を追いやった。
ルーシの起源も諸説あるが、北欧から交易のために川を下ってきたノース人が土着のスラヴ人と交じり合い、スラヴ系の言語や習慣を受容していったのではないかとされている。ビザンツの歴史家たちは、北方の強大化する国家を「ロソイ」すなわち「ロシア」と呼んだ。
ルーシ諸侯が治める都市のなかでもっとも強大なのがキエフで、ドニエプル川通商路の中継地として繁栄した。中世においては、現在のウクライナが「ロシア」だったのだ。
橘 玲(たちばな あきら)
作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)、『橘玲の中国私論』の改訂文庫本(新潮文庫)など。最新刊は、『朝日ぎらい よりよい世界のためのリベラル進化論』(朝日新書) 。
●橘玲『世の中の仕組みと人生のデザイン』を毎週木曜日に配信中!(20日間無料体験中)