ハバロフスクはアムール川とウスリー川の合流するシベリアの要衝で、夏でも夜になると気温は20度ちかくまで下がり、酷暑の日本から比べるとものすごく快適だ。日本海に面し、ロシア海軍の太平洋艦隊基地が置かれる海の要衝ウラジオストクまではシベリア鉄道で760キロ、約12時間の旅になる。

 ハバロフスクやウラジオストクは「日本からもっとも近いヨーロッパ」といわれるが、これは誇張ではなく、石造りの建物を抜けてロシア正教会のドームがふいに現われると、ここが東京から飛行機で2~3時間の街だとは思えなくなる。

 こうした錯覚が生まれるのは、極東の都市部に暮らすひとびとの多くがスラブ人などのコケイジャン(白人)であることも理由だ。彼らの祖先は、モスクワやサンクトペテルブルク、あるいはウクライナやベラルーシから、さまざまな事情でユーラシア大陸の東の果てへと流れてきた。

 短い夏はシベリアのもっとも美しい季節で、石畳の道をドレスアップした金髪・碧眼の女性が歩いていると、まるで映画の一シーンのようだ。アムール川の岸辺での日光浴も、そこだけ切り取ればニースやカンヌと変わらない(ただしアムール川は対岸の中国の工場からの廃棄物で汚染が懸念され、遊泳が禁止されている)。

 シベリアの町は日本人にとっても魅力的な避暑地になり得ると思うのだが、残念なことにその魅力をじゅうぶんに活かしきっていないようだ。

 日本人の多くは、「ロシアはよくわからない」と思っている。たしかにこの国は多くの謎に満ちている。

 ロシアを観光する日本人が最初に遭遇する理不尽がビザであることは前回書いたが、それ以外でも違和感を覚えることがしばしばある。

 たとえば、シベリア鉄道の遅延や運休。今回の旅では午前8時10分ハバロフスク発の列車でウラジオストクに移動することにしていたのだが、列車が駅に着いたのは7時間半遅れの午後3時40分だった。当然、到着もその分だけ遅れてウラジオストクの駅を降りたのは午前3時だった。

 あとで訊いてみると、シベリア鉄道が遅れるのは日常茶飯事で、列車が来ただけでも幸運だと思った方がいい、という。実際、翌日も午前3時過ぎに、ホテルの廊下から、「いやー、大変な旅でしたね」という年配らしき日本人の会話が聞こえてきたから、ヒドい目にあったのは私だけではないのだ。

 遅延が日常化しているからか、ハバロフスクの駅でも誰も慌てたりしない。

 駅では英語のアナウンスがまったくなく、列車の発着ボードからいきなり乗車予定の列車の表示が消えてしまった。事情を訊こうにも駅員はまったく英語が通じない(ロシア人の多くは片言ですら英語をしゃべらない)ので、紙にロシア語の説明を書いてもらい、英語のわかりそうな旅行者をようやく見つけて、(その時点では)5時間の遅れのためにボードの表示が一時的に削除されたことを教えてもらった。

 日本だと、新幹線が5時間遅れれば乗客が駅員に詰め寄ったり、説明が連呼されたり、なにかしら“異常事態”の雰囲気が伝わると思うのだが、すくなくともハバロフスク駅では、乗客の様子からは怒りも困惑も感じられず、日常のささいな不都合でもあるかのようにみんな淡々と待合室に座っているのだ。

 私がよくわからないのは、そもそも5時間も列車が遅れているのに、なぜ到着予定時間の30分前にならないと乗客に告知されないのか、ということだ。もっと早くわかれば予定の立てようもあるが、ホテルをチェックアウトして駅に着いてからではどうしようもない(けっきょくセルフサービスの食堂でビールを飲んで過ごした)。

 モスクワからウラジオストクまでシベリア鉄道の走行距離は9297キロもあるのだから、定刻の運行が困難な事情はわかる。それでも乗客の苦境を考えれば、やれることはいくらでもあるはずだ。一方的な遅延や運休に抗議しなければ、鉄道会社はいまのままでいいと思って、改善に向けたなんの努力もしないだろう。

不可解なほどに不便な駅や地下道

 ハバロフクス駅では、じつはもうひとつ違和感を覚えたことがあった。

 列車が到着する20分ほど前になるとホームの番線が表示される。それを見てみんなが移動を始めるのだが、このときになぜか駅舎をいったん出て、近くの跨線橋まで屋外をスーツケースを引きずって歩かなければならない。夏だからいいものの、氷点下40度も珍しくない冬季には、おまけに吹雪にでもなったら、ものすごく大変だろう。

 さらにこの跨線橋は、高さはビルの3階くらあるのだが、エレベーターもエスカレーターもついていないので重い荷物を自力で引っ張り上げるしかない(助力を求めようにも駅員の姿はない)。これでは障害のあるひとはもちろん、女性も苦労するだろう。そのせいかロシアでは、車椅子のひとを街で見かけることはない。

 ここでも不思議なのは、駅舎から隣のホームまでは地下を通って行けるようになっていることだ。だったらその地下通路をさらに先まで延ばしてすべてのホームを連結し、エスカレーターをつければいいだけだ。簡単に解決できることなのに、なぜいつまでもこんな不合理なことに我慢しているのだろうか。

 ロシアやロシア人を批判するつもりはないのだが、もうひとつだけ、今回の旅で印象に残ったことを紹介したい。

 ウラジオストクの観光名所のひとつにポクロフスキー聖堂がある。もともとは1902年につくられたロシア正教の寺院だが、ロシア革命後に破壊され、公園に整地されてレーニン像が建てられていた。

それが寄付を集め、2007年に再建されたのだ。聖堂の近くには与謝野晶子の歌碑のある極東連邦大学などもあり、足を運ぶ日本人観光客も多い。

 このポクロフスキー聖堂は大通りの交差点に面している。ウラジオストクの港から坂を上がってくると道路を渡るための地下道があるのだか、いったん下りた私は困惑して、階段を上ってもとの場所に戻ってしまった。

 交差点の地下道というのは、当然、二方向に分かれているはずだ。ところがその地下道は道が1本しかなく、それは私の渡りたい方角ではなかった。

 だとしたら、横断歩道で渡れるようになっているのだろうか。だがいくら探しても近くに歩行者用の歩道はない。ようやくわかったのは、ただ道を渡るだけなのに、地下道を通っていったん対角線の向こうまで行き、そこで歩行者用の信号が青になるのを待って横断歩道を渡らなければならない、ということだった。

 私がいいたいことは、もうおわかりだろう。せっかく地下道をつくったのに、なぜ正方形にせずL字型で止めてしまうのか? こんな地下道をつくる方も不思議だが、この不便きわまりない交差点に対して、なぜ誰も文句をいって直させようとしないのだろうか。

 ロシアを旅していると、同じような疑問に何度も突き当たる。

一人ひとりはあんなに洗練されているのに、政治や社会の理不尽さに対する感じ方が私たちとはちょっと違うようなのだ。

「旅行者の朝食」

 私はロシアの専門家でもなんでもないから、このことについて自説を開陳しようとは思わない。その代わり、“最強のロシア語通訳”と呼ばれ、エッセイストや書評家としても知られる故・米原万里氏の『旅行者の食卓』(文春文庫)から、表題となったエピソードを紹介したい。

 ロシア人の小噺好きは有名だが、なかには日本人には理解が難しいものもある。

 ある男が森の中で熊に出くわした。熊はさっそく男に質問する。
「お前さん、何者だい?」
「わたしは旅行者ですが」
「いや、旅行者はこのオレさまだ、お前さんは、旅行者の朝食だよ」

 ここでロシア人は、誰もが腹を抱えて笑い転げるのだという。だが子ども時代をチェコのロシア語学校で過ごし、同時通訳として旧ソ連とロシアを100回以上訪れた米原氏にも、なぜこの小噺がこんなにウケるのかまったくわからなかった。

 謎が解けたのは、「旅行者の朝食」という名前の有名な缶詰があるらしいことを知ったからだ。

 ようやくスーパーマーケットで見つけたそれは、牛肉、鶏肉、豚肉、羊肉、魚と5種類の味のベースがあって、肉や野菜や豆を一緒に煮込んで固めたような味と形状をしている。もちろん好奇心旺盛な米原氏はちゃんと賞味してみた。その味は、「一日中野山を歩き回って、何も口にせず、空きっ腹のまま寝て、その翌朝食べたら、もしかしたら美味しく感じるかもしれない」というものだった。

 ソ連時代は、スーパーに行っても缶詰は「旅行者の朝食」しかなかった。だから年配のロシア人は、誰でもその味を覚えている。そこから「旅行者の朝食」をネタにするさまざまな小噺が生まれ、ロシア人はその名前を聞いただけで笑い転げるようになったのだ。

 米原氏は、不人気な缶詰を揶揄するために小噺がつくられたことを知って、次のように書く。

「まずくて売れ行きが最悪な缶詰を生産し続けるという膨大な無駄と愚考を中止するか、缶詰の中身を改良して美味しくするために努力するよりも、その生産販売を放置したまま、それを皮肉ったり揶揄する小噺を作る方に努力を惜しまない、ロシア人の才能とエネルギーの恐ろしく非生産的な、しかしだからこそひどく文学的な方向性に感嘆を禁じ得ないのだ」

 これを読んで、ようやく私にも理解できた。

 毎日何時間も遅れる列車も、ホームに行くのに重い荷物を抱えて遠回りしなければならない駅も、道路を向こう側に渡ることのできない地下道も、小噺のネタになってロシア人の生活に潤いをもたらしているのだ、きっと。

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