「この世界は闇の権力によって支配されている」という考え方を陰謀論という。陰謀論の“主役”としてよく挙げられるのがフリーメーソンやユダヤ人(シオン賢者の議定書)で、ときには悪魔や宇宙人のこともある。
オウム真理教はアメリカのCIAとフリーメーソンによって攻撃されているとしてサリン製造を急いだ。

 フリーメーソンはヨーロッパの結社のひとつで、「神とは理性のことである」とする理神論を奉じる啓蒙主義者によってつくられた(中世の石工を起源とするとの説もある)。フランスの三色旗「自由・平等・友愛」の友愛とは、地縁・血縁の伝統社会の人間関係ではなく、異なる階級のひとびとが同じ理想を掲げて戦う結社的友情のことだ。

 フリーメーソンが秘密結社になったのは、革命運動のなかで王政からの弾圧を受けたためだ。近代革命が達成されるとメーソンの会員の多くが社会の主導的地位についたため、有名人クラブのようなものに変わっていった。

 戦後日本でもダグラス・マッカーサーがフリーメーソンだったため、進駐軍の知遇を得ようと入会を希望する者が相次いだ。鳩山一郎はGHQによって公職追放されたあとにメーソンに入会し、追放解除を得て首相の座を獲得した。

 数ある結社のなかで、なぜフリーメーソンだけが「陰謀」とともに語られるのだろうか。そこにはさまざまな理由があるだろうが、ひとびとに強烈な印象を残したのが1980年代にイタリア社会を震撼させたP2事件であることは間違いない。

 この事件ではフリーメーソンのなかの“秘密結社”が陰謀の主役となっており、そのことが噂や憶測ではなく司法機関と議会の調査によって立証されたのだ。

 P2事件の最大の疑惑は「法王暗殺」だが、それについてはすでに書いた。

●バチカン市国「神の資金」を扱う闇の男たち -前編-
●バチカン市国「神の資金」を扱う闇の男たち -後編-

 ここではそれに次ぐ大事件となった“神の銀行家”ロベルト・カルヴィの変死とアンブロジャーノ銀行の倒産から、「陰謀論者の運命」について考えてみたい。

イタリアの共産化に危機感を抱いたひとたち

 戦後のイタリアは、世俗的な北部で共産党が勢力を伸ばし、それに対抗する保守派のキリスト教民主党は南部の伝統的な社会を地盤とした。そこはコーザ・ノストラ(マフィア)の支配する土地で、60年代になると政治家たちの腐敗は誰の目にも明らかになった。反戦平和を求める学生運動の影響もあり、選挙のたびに共産党は大きく票を伸ばすようになった。

 1972年の選挙で、共産党はキリスト教民主党の38.8%に次ぐ27.2%の得票を獲得して第二党になった。76年の選挙では34.4%まで得票を伸ばし、38.7%のキリスト教民主党にあと一歩まで迫った。

 こうした状況に強い危機感を抱いたのが右派の政治家と軍部、それにイタリアの共産化を阻止したいアメリカCIAとバチカンだった。バチカンにとってマルクス主義の無神論は「悪魔の思想」だが、イタリアに共産党政権が誕生する衝撃はたんなるイデオロギー問題ではすまなかった。ローマの一角にあるバチカンは生殺与奪の権をイタリア政府に握られており、イタリアはその気になればラテラノ条約で認めた「主権」を見直し、バチカンの財産に課税したり、政治や行政に介入することもできるのだ。

「共産化」の危機に対抗すべく、右派連合は軍事クーデターによる政権奪取を計画した。

 最初に発覚したクーデター計画は1964年で、後の陸軍参謀長が首謀者だった。

 1970年にブルゲーゼ公爵が計画したクーデターは決行予定日が日本の真珠湾攻撃と同じ12月8日で、暗号名は「トラ=トラ」だった。

 74年10月には現役の将軍ヴィート・ミチェーリがクーデターに関与したとして逮捕された。

ミチェーリは軍事諜報機関の長で、「トラ=トラ」計画だけでなく、ローマの水道水を放射性物質で汚染させるという計画にも関与していた。ミチェーリは、これによって左翼勢力が抗議行動を起こせば軍隊を出動させ、クーデターによって自分が国家の「救世主」になると信じていたのだ。

 クーデターを決行するにはなにかのきっかけが必要だ。社会不安を引き起こす「謀略」は、クーデター計画の重要な一部だった。

 1969年12月にミラノの繁華街で爆弾が炸裂し、死者14名負傷者80名の大惨事を引き起こしたが、これは右翼(ブラックテロリスト)の犯行と考えられている。

 1978年3月にはキリスト教民主党のアンドレ・モロ元首相が左翼テロ組織「赤い旅団」に誘拐・殺害されるという事件が起きた。モロ元首相が共産党との大連立を模索していたため、ジュリオ・アンドレオッティら右派の政治家がCIAの意を受けてテロリストとの交渉を拒否し、死に至らしめたといわれている(赤い旅団が右翼から資金提供を受けてモロ元首相を殺害した、との陰謀説もある)。

 さらに1980年、ボローニャ中央駅で大規模な爆発事件が起き、85人が死亡、200人以上が負傷した。ネオファシストの武装革命組織によるテロとして幹部らが逮捕されたが、その背後で軍部や情報組織の関与が疑われた。

 共産党の政権参加が現実のものとなりつつあった70年代のイタリア社会は極度の緊張の下に置かれていた。そこは権力者や反体制派が陰謀をめぐらし、無数のクーデターやテロ計画が生まれては消える「陰謀論的世界」だった。
 ロベルト・カルヴィがアンブロジャーノ銀行の頭取になったのは、まさにこの時期だった。

陰謀論者の銀行家カルヴィ

 1920年に銀行家の父のもとに生まれたカルヴィは、その極端な二面性でいつも知人たちを驚かせた。

 ひとつは、冷静沈着で有能なビジネスマンとしてのカルヴィ。エリート軍人のための騎兵士官養成学校に入ったカルヴィは、第二次世界大戦で苛酷なロシア戦線に出征し、厳冬期の撤退戦で整然と部隊を率いてイタリア・ドイツ両軍から勲章を授けられた。

 もうひとつは、陰謀論者のとしてのカルヴィ。大銀行の頭取としてイタリア経済界の頂点に立ったこの男は、「この世界は陰謀によって動いている」と信じて疑わなかったのだ。

「陰謀」の中心にいたのは、右翼のフィクサー、リチオ・ジェッリだった。

 1963年にフリーメーソンに入会したジェッリは、イタリア・フリーメーソンのグランドマスター(団長)から、会員を重要人物に限定した結社をつくる許可を得た。この「結社の中の結社」がP2(プロトコル2)だ。

 ジェッリは人身掌握術の天才といわれ、政界や軍部、経済界の重要人物を次々とP2に勧誘していった。当初は有力者の互助会のようなものだったが、70年代の政治的緊張のなかでその勢力は急速に拡大していく。

 全盛期のジェッリは、事務所としてローマのホテル・エクセルシオールに3部屋続きのスイートを借りていた。そこには入口と出口が別々にあり、面会者同士が顔を合わすことがないようになっていた。

誰がP2会員かをジェッリ以外知らないということが、彼の権力の源泉になっていたからだ。

 ホテルにはジェッリに謁見を求めるひとびとが絶え間なく訪れた。ジェッリは彼らの相談事を聞き、別の有力者に話をしたり紹介したりして謝礼を受け取った。こうしたやり取りのなかで、ジェッリの手元には膨大な情報が蓄積していった。

 ジェッリはイタリアの政治を強力な大統領制に変えることを提唱していた。この時期のイタリアはいつクーデターが起きてもおかしくなかったのだから、P2はクーデター後の右派=軍事政権の中心になると考えられていたのだ(フリーメーソンはカトリックでは異端とされ、教皇クレメンス12世によって破門令が出されているにもかかわらず、バチカン内に最高幹部を含む多くのP2会員がいたこともこれが理由だろう)。

 だが1981年、P2の存在が白日の下に晒される事件が起こる。シチリアマフィアとのつながりを知った捜査官がジェッリの自宅と事務所を捜索すると、P2の入会申込書が出てきたのだ。そのリストには閣僚を含む国会議員43名のほか、軍部や諜報機関の首脳、産業界や金融界、国営企業の役員、新聞・出版グループや国営放送首脳など、942名の名前が記されていた。

 当時の首相はキリスト教民主党のアルナルド・フォルラーニだったが、捜査当局からこの報告を受けるとあまりの衝撃にリストの公表を禁じた。そのリストがメディアにリークされたことで、フォルラーニ内閣は総辞職に追い込まれることになった。

陰謀論者が権力を持ったとき

 ロベルト・カルヴィが26歳で入行したとき、典型的なカトリック系金融機関のアンブロジャーノ銀行はミラノの「眠ったような田舎銀行」といわれていた。

 有能なカルヴィは順調に出世を重ね、四十代半ばで最高幹部の一人になった。そんなカルヴィに目をつけたのが金融界の大立者でP2会員でもあったミケーレ・シンドーナで、彼を通してカルヴィはリチオ・ジェッリの知遇を得ることになる。

 シチリア出身のシンドーナは教会の資金集めに協力することで教皇パウロ6世の信用を得て、バチカンの財政顧問に就任していた。シンドーナがバチカンに近づいたのはマフィアの資金をマネーロンダリングするためだが、それによってバチカンも多額の利益を得ることができたのだ。

 だがそのシンドーナの金融帝国は、アメリカ進出を目論んで財政破綻寸前の銀行を高値で買収したために、74年の石油危機の混乱で崩壊してしまう。カルヴィがアンブロジャーノ銀行の頭取になったのはその翌年、75年11月のことだった。カルヴィはジェッリの後ろ盾を得て、シンドーナが築いたバチカンとの利権を引き継いだのだ。

 陰謀論的世界のなかで、すべては「闇の権力」によって動かされていると信じている有能な男が銀行の頭取になったら、いったいなにが起きるだろうか。

 結論からいうと、それから5年で「眠ったような田舎銀行」はイタリアで最大の民間金融機関になった。アンブロジャーノ銀行はジェッリの持ち込むP2関連の案件に次々と融資することで、急速に資産を増やしていったのだ。

 だが問題は、こうした情実融資の多くが不良債権化のリスクを抱えていたことだった。

 たとえばカルヴィは、イタリア最大の総合出版企業で最大部数の新聞を発行するリッツォーリ社に巨額の融資をして経営危機から救った。

これ以降マスメディアでアンブロジャーノ銀行についての多くの好意的な記事が書かれることになるが、リッツォーリ社の経営が傾けば銀行は深刻な打撃を被ることになる。

 79年になると、ミラノの治安当局がアンブロジャーノ銀行の不審な金融取引を調査しはじめた。カルヴィはルクセンブルクやパナマなどに多数の海外法人を設立していたが、それらはすべて幽霊会社で、資本の不法国外持ち出しや銀行書類の偽造、詐欺などの嫌疑が浮上したのだ。

「世界は闇の権力によって動いている」と信じる男がこうした危機に直面したとき、いったいどうするだろうか。

 カルヴィは司法当局の追及から逃れるためにジェッリのP2ネットワークに頼るが、81年5月に逮捕されてしまう。ジェッリはこのとき国外逃亡していたため、窮地に陥ったカルヴィのところに別のよりあやしげなフィクサーたちが次々と近づいてきた。

「陰謀論」にとらわれた銀行家はこうしたフィクサーの言葉を信用し、それ以外の人間を誰も信じられなくなっていく。

 アンブロジャーノ銀行の副頭取が自宅近くで足を撃たれ、襲撃犯がボディガードにその場で射殺されるという事件が起きた。これは当初、銀行に敵対するグループの犯行と思われていたが、のちに襲撃犯を雇ったのがカルヴィが懇意にしていたフィクサーだということがわかった。捜査当局は、副頭取が失脚を画策していると疑心暗鬼に陥ったカルヴィが殺害を依頼したと考えている。
「陰謀論」は、カルヴィの置かれた状況をますます悪化させただけだった。フィクサーに頼るほど違法行為が増え、それが捜査の対象となる。そうなると、新たな捜査から逃れるためにまたフィクサーに頼らざるを得ない。この有能な銀行家は最後まで、「闇の権力」は公式のルールの前では無力だということに気づかなかった。

 このようにしてロベルト・カルヴィは「陰謀論の罠」にはまり、82年6月18日、ロンドンのシティに近いブラックフライヤーズ橋で縊死しているのを発見されることになる。そこに至るまで、カルヴィがバチカン銀行とどのような取引をしていたのかは次回、述べることにしたい。

<執筆・ 橘 玲(たちばな あきら)>

作家。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。「新世紀の資本論」と評された『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ベストセラーに。著書に『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術 究極の資産運用編』『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術 至高の銀行・証券編』(以上ダイヤモンド社)などがある。ザイ・オンラインとの共同サイト『橘玲の海外投資の歩き方』にて、お金、投資についての考え方を連載中。

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