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●「イタリア人は、暗いからこそ明るい」。
ランベッリ氏は、『イタリア的考え方』(ちくま新書)、『イタリア的-「南」の魅力』(講談社選書メチエ)で、これまで日本ではほとんど語られることのなかったイタリア人の日常の不思議を解説している。今回はそのなかから、宗教、政治、教育を紹介してみたい。
イタリア人は幼少期に宗教教育を受けるローマにはカトリックの総本山であるバチカン(ローマ教皇庁)があり、イタリアが敬虔なカトリックの国だということは誰でも知っている。実際、激論の末に国民投票で離婚が認められるようになったのが1974年、妊娠中絶が認められたのはようやく1980年だ。
だが1990年に、戦後イタリアの保守政界を支配してきたキリスト教民主党が大規模な汚職スキャンダルによって解体すると、イタリアの世俗化は確実に進みはじめた。イタリアでは8~9割の国民がカトリック教育を受けるが、ランベッリ氏の見立てによると、いまではその多くは名義だけのカトリックで、実際には無関心や無宗教だという。
カトリックでは11歳になったら聖体拝領が許されるが、そのためには1年ぐらい、毎週土曜日の午後、教区の教会で神父やボランティアからカトリックの教えを学ばなければならない。これが教理問答(カテキズムモ)で、イタリア人の多くはこれによってカトリックの教義について一定の知識を保持している。
これは幼少期に特定の宗教教育を受けることがない日本人との大きなちがいだ。日本人は宗教のことをよく知らないから関心がないが、イタリア人はカトリックの歴史や教義を知っていて、それでも世俗化や近代化のなかで宗教への関心を失うのだ。
イタリアではすべての町や村に教会があり、日本の戸籍制度のように、教会は教区の信者の出生(洗礼)、結婚、死の記録を保存している。
カトリックでは、子どもが生まれてから数カ月以内に教区の教会で洗礼(バッテージモ)を受けてキリスト教徒になる。
カトリックはプロテスタントとちがって、罪の告解を信者の義務としている。告解を行なうためには、キリスト教的な罪の概念と、それを犯した自己を客観的に認識することが必要だ。フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、この告解の秘蹟がヨーロッパ人の「内面」の構築に大きな影響を与えたと論じた。
カトリック信者にとって生涯でもっとも重要な告解の秘蹟が死の直前の終油だ。死を迎えつつある信者のもとを神父が訪れ、慰めの言葉をかけ、告解を聞き罪を許してから、その身体に神聖な油で十字架の印を描く。この終油の秘蹟を受けることで、生前の罪は許されて神に救われるのだ。
このようにカトリックは、政治的、文化的、象徴的な権威としてイタリア人の日常に直接介入している。世論調査などによると、毎日曜日にミサに行き、カトリックの秘蹟を重視するひとは国民の3分の1くらいだそうだが、イタリア人の生活に与えるその影響はやはり大きいといわざるを得ない。
カトリックは一神教でありながら多神教的イタリアの教会を訪れた観光客は、ひとびとが聖母マリアの像を熱心に拝んだり、聖者(高位の聖職者)が信仰されていることに奇異の念を持つかもしれない。ユダヤ・キリスト教は一神教で、世界を創造した唯一の神(絶対神)以外を信じてはならないとされているからだ。
ところがカトリックでは、多くの教会が(聖マリア教会のように)聖母マリアに捧げられているばかりか、聖母マリアがまるで神のようにこの世に姿を現わす(降臨する)とされている(第一次世界大戦直後に、ポルトガルのファティマで3人の子どもたちの前に現われたマリアは、奇跡を起こし預言を伝えたとされる)。
アッシジの聖フランチェスコ、パドヴァの聖アントニオ、アッシジの聖キエラ、シチリアの聖ルチアなどの聖者も同様に、信者の熱心な信仰の対象になっている。ローマ教皇庁は奇跡が行なわれたとの噂が広まると検邪聖省という裁判所で調査し、それが本物であると認定されれば福者とし(列福)、さらに奇跡が認められると聖者に昇級する。
カトリックにおいても、もちろん神は唯一絶対の存在である。だがその神はあまりにも遠く、人間は仲介者に頼らなければその存在を感じることができない。そもそもカトリック教会自体が地上における神の代理人なのだから、「ひとでありながら神に近づいた」聖者を積極的に認定するのは当然ともいえる。
信者の側も、全知全能の神に直接、自分の卑小な願いを伝えるのは気が引ける。そこで天上界において神と直接言葉を交わすことができる聖母マリアや聖者に祈ることで、神との仲介を期待するのだ。
だがこれは、理論的にはともかく、実態としてはきわめて「多神教的」だ。
仏教においても、仏陀こそが悟りの頂点にいることは共通の了解となっているが、阿弥陀如来や観音菩薩への信仰は広く見られる。神道などの伝統的宗教では祖先が神との仲介者になるとされている。カトリックは(ギリシア)正教とともに、キリスト教のなかでもこうした伝統的な習俗を色濃く残しており、これはゲルマン民族の女神信仰やアニミズムと融合した名残だと考えられている。
カトリックとプロテスタントの大きなちがいは救霊予定説を認めるかどうかだ。
プロテスタントは、神が全知全能である以上、最後の審判で神の救済を受けられるかどうかは最初から決まっているとする。これはきわめて厳格な教義で、マックス・ヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかで、プロテスタントは(自分が救済されるかどうかわからないという)この不安を克服するために、禁欲や奉職のような「資本主義の精神」を発達させたのだと論じた。これは一見逆説的だが、禁欲する自分は、禁欲できるという事実によって、神から選ばれていることを証明できるのだ。
それに対してカトリックは、神は恩寵によってひとに自由意志の余地を残したと考える。罪を犯すか道徳的な生活を送るかは個人の自由で、たとえ罪を犯したとしても、神の大いなる慈悲によって懺悔のこころさえあれば救われるのだ。――歴史的には無論、こうしたカトリックの自由意志論が教会による信者の搾取を招いたとして、その批判からカルヴァンが厳格な救霊予定説を唱えた。
カトリック教会を訪れて、そこに寺や神社へのお参りと同じような雰囲気を感じるとしたら、一神教か多神教かというちがい以上に、「神」に対する伝統的な信仰が共通しているからかもしれない。
バールは「男性の社交場」イタリアでは教会と同じく、どんな町にもバールがある。これは日本では、カフェとバーを兼ねた軽食を出す飲食店(カフェバー)のことだと思われているが、イタリアのバールには(おそらくスペインも同じだろうが)明確な定義がある。それは「男性の社交場」だ。
地中海沿岸の文化はだいたいどこもそうだが、イタリアでも女性は家で女友だちと会うことは許されても、気軽に外出すべきではないと考えられていた。
イタリアではずっと、男同士のいちばんの話題はサッカーだった(最近は変わってきたようだが)。バールもサッカークラブごとに分かれていて、ACミランのファンはインテルミラノのバールには行かない(もちろん逆も同じ)。
だがランベッリ氏は、イタリアのバールの多くは、90年代までは政党の事務所に所属していたという。これは地方都市に顕著で、キリスト教民主党や共産党などの政党事務所の1階がバールになっていて、そこに政党の機関紙が置いてある。客はそこで政治の話題に興じ、盛り上がればそのまま階段を上って政党の活動家や政治家たちと話すこともできた。日本では社交の場で政治の話をすると嫌われるが、イタリアでは政治はサッカーと同じエンタテインメント(男性の社交場での娯楽)だったのだ。
“娯楽としての政治”を象徴するのは、春や秋に各政党が大規模な祭り(カーニバル)を開催することだ。たとえば共産党の祭りは機関紙『ウニタ(統一)』から「フェスタ・デッルニタ(ウニタの祭)」と呼ばれ、トップクラスの歌手やロックミュージシャンが無料コンサートを行なうなど、共産党の強い地域(「赤い州」と呼ばれたロマーニャ州、トスカーナ州、ウンブリア州など)では年中行事になっていたという。
ランベッリ氏はここから、イタリア政治のカーニバル性を説明する。
イタリアの喜劇コンメディア・デッラルテの定番の物語は、ずる賢い家来が愚かな主人をバカにし、主人になり代わっていい思いをする、というもので、その逆転劇に庶民は喝采を送った。
だがそれだけでは体制を変革する力強い運動にはならず、たんなる娯楽(というか、ガス抜き)にしかならない。権力を一方的に否定し、社会の秩序を一時的に逆転させたとしても、それでよりよい社会がつくれるはずはない。カーニバルの祝祭性は、けっきょくは現存の秩序を強める役割を果たすことになるのだ。
こうしたカーニバルの格好の例を、私たちは先月行なわれたギリシアの国民投票に見ることができる。祝祭的な熱狂のなかでひとびとはEUに反旗を翻し、一時的に秩序を逆転してみせたが、ギリシア議会は投票結果を無視してドイツなどの要求をすべて受け入れ、より過酷な緊縮策が実施されることになった。
カーニバルとユートピアカーニバルは、ユートピアと密接に結びついている。
ヨーロッパにおけるユートピアは「絶対的平等」の世界への夢想だった。これはもともと古代エジプトを起源とし、古代ギリシアやローマを通じてルネサンス期のヨーロッパの社会全体に浸透したもので、その現代的な意匠が共産主義であることはいうまでもない。
イタリアのひとびとはずっと貧しい生活に苦しんできたために、誰もが安楽に暮らすことができる「クッカーニャ(富)の国」への憧れは強かった。
90年代にキリスト教民主党が解体するのと機を同じくして、イタリア共産党も往時の政治力を失っていく。だがギリシアで急進左派を名乗る政党が権力を掌握し、スペインでも新左翼政党ポデモスが急速に支持者を増やしているように、“南のヨーロッパ”では現在もユートピア的なイデオロギーが一定の政治力を保持している。
ひとびとが望むのがクッカーニャ(富)のユートピアであるのなら、その実現には千年王国的な超人的指導者が不可欠だ。それを利用して権力を握ったのがファシスト党のムッソリーニだが、敗戦によってそのユートピアがニセモノだったことが明らかになると略式裁判で銃殺され、遺体はミラノのロレート広場に吊るされた。
戦後のイタリア政治でもっとも成功したポピュリストが、シルヴィオ・ベルルスコーニだ。
ベルルスコーニは歌手(エンタテナー)から身を起こし、いまだ解明されていない方法で大金を獲得して建設会社を設立し、高度成長期のミラノで住宅地を開発・販売して大成功を収めた。その後はテレビ局、デパート、新聞・雑誌、金融業に進出し、人気サッカーチームACミランを買収して、90年代初期にはイタリア最大の富豪となった。
キリスト教民主党の解体によってイタリア政治が混乱すると、ベルルスコーニは「がんばれイタリア」という右派政党を設立して、所有する報道機関の圧倒的なプロパガンダを利用してまたたくまに首相の座に駆け上がった。
ランベッリ氏は、このベルルスコーニもイタリア人が待望する「富の国をもたらす“超人的”指導者」だという。
たとえばベルルスコーニは、国防大臣に(国家=検察の捜査から自分の身を守るために雇った)顧問弁護士を、財務大臣に節税コンサルタントを、法務次官にマフィアの首領の弁護士を任命した。これは政治の常識からすればバカバカしいかぎりだが、ひとびとが求めたのが(秩序の一時的逆転という)カーニバルであるならば、ベルルスコーニは見事に自らの役を演じたのだ。
イタリアの大学に入学試験がないのは、カトリック的これもあまり知られていないことだが、イタリアの大学には入学試験がない。
大学入学資格は5年間の高等学校や専門学校を卒業することだけで、どの高校を出ても、どこの大学のどの学部でも入学できる。ランベッリ氏はこの制度を、プロテスタント的な救霊予定説とは異なる、カトリックの自由意志説で説明する。
救霊予定説では誰が大学に入学するかはあらかじめ(神によって)決められているのだから、試験によって「選ばれた学生」を見つけ出せばいい。だが自由意志説では、信者は自らの自由な努力によって神の恩寵を得ることができる。この考えを教育に適用すれば、大学はすべての学生を平等に受け入れたうえで、卒業できるかどうかは学生の自由意志に任せることになるだろう。
その結果イタリアの大学は、入学はかんたんだが(というか、誰でも入れる)卒業はきわめて難しい。たとえば文系学部では、約20の教科の試験にすべて合格したあと、200ページの研究論文を書いて教授2人の審査に合格し、さらに卒業委員会の面前で討論して認められなければ「ドットーレ(学士号)」が与えられない。このためストレートに卒業できる学生は10%以下で、ほとんどは留年するか、卒業をあきらめてしまうのだという。
こうした制度は教育機会を広く提供する一方で(最初に選んだ大学・学部が自分に合わないと思えば他の大学・学部に変わることも自由)、学生を無条件に受け入れなければならない大学に大きな負荷をかけている。
もともとイタリアでは、70年代になっても国民の多くは中学校を卒業すると働くのがふつうで、大学に進学するのは都市部の富裕層の子弟だけだった。
イタリアでは小学校から大学までほとんどが国立で授業料も(ほぼ)無償だが、実際には教科書代がきわめて高く、上流階級でなければ大学には行けなかった。学生はアルバイトなどをするべきではないとされていて、日本のようなアパートやワンルームマンションもないため、大学に通えるのは都市部に実家がある恵まれた若者だけだったのだ。
だが中流層の拡大によって大学進学が容易になると、当然のごとく有名大学は「超満員の象牙の塔」となり、教員は学生の教育や管理に追われ、科学・技術研究への投資が世界じゅうでもっとも少ない国になってしまったのだという。
ちなみにイタリア人男性の代名詞のようになっているマザコン(マンミズム)は、イタリアのこうした制度的特徴から理解すべきだとランベッリ氏はいう。
そもそもイタリアの都市には安い賃貸物件はなく、学生でもできるアルバイトもないのだから、大学生は両親と同居するしかない。そのうえ大学は入学は容易でも卒業が難しく、20代後半や場合によっては30代になっても両親からの援助なしでは暮らしていけない。日本でも経済環境の悪化で若者のパラサイト(親との同居)が目立つようになったが、イタリアの若者たちはずっとパラサイトでなければやっていけなかったのだ。
「イタリア人は怠け者」の実態とは?最近まで高等教育が上流階級の特権だったイタリアでは、労働者(高等学校以下)と事務職員(大卒)の階級差が歴然としている。
たとえば工場などの労働者は8時から17時までの勤務で、12時から13時に昼食をとる。それに対して事務職員の勤務時間は9時から18時で、昼食は13時から14時だ。大卒の始業時間や昼食が中卒・高卒より1時間遅いのは、朝遅くまで寝ていられるのが上流階級の特権だとされていたことの名残だという。
こうした歴史的経緯もあって、一般にイタリアの労働者は会社や経営者に対して忠誠の念を抱くことはない。仕事は生きるための必要悪で、資本家は労働者を搾取してゆたかになろうとしていると考えるのがふつうだ。これが、イタリアの工場でストライキが頻発したり、「イタリア人は怠け者だ」と揶揄されるようになった理由だ。だがそんなイタリア人も、職人のような自営業者になると、打って変わって(自分のために)熱心に働くようになる。
一方、地方の商店はいまでも月曜から土曜の午前9時から12時半と3時半から7時半が営業時間で、シエスタ(昼寝)の習慣が残っている。これも日本人から見ると不思議に思えるが、イタリアでは歴史的に商人の地位が高く、「顧客の利便性」などということは考える必要がなかったのだ。
もっとも労働者の仕事に対する考え方も、商店の休日や営業時間も、この10数年で急速にグローバル化しつつある。旅行者を戸惑わせる「イタリア的」なものも、やがて過去の文化遺産になっていくのだろう。
ランベッリ氏は、イタリアの伝統的な習俗や前近代性の背後には“貧しさ”があると繰り返し指摘している。2014年の調査では、南部イタリアでは年1万2000ユーロ(約170万円)未満で暮らすひとの割合が60%に達している。
橘 玲(たちばな あきら)
作家。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ベストセラーに。著書に『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』(ダイヤモンド社)など。中国人の考え方、反日、政治体制、経済、不動産バブルなど「中国という大問題」に切り込んだ最新刊