森博嗣の新作『ヴォイド・シェイパ』がついに刊行された。ひところは〈月刊・森博嗣〉といっても差し支えないような量産体制をこなしていた森だが、最近は無理をしない執筆形式に切り替えたようで、何ヶ月も新刊が出ないことが当たり前になっている。
淋しい思いをしていたファンは、この新刊に飛びついたはずだ。
版元は『スカイ・クロラ』シリーズと同じ中央公論新社。同シリーズの単行本は、一色の表紙に透明ビニールのカバーがかけられた秀逸なデザインで統一されていたが、『ヴォイド・シェイパ』の装丁も、同じ鈴木成一デザイン室。今回の表紙は一見水墨画のようだが、実は写真に加工を施したものだ(ビニールカバーの効果で、山々に霧がかかっているかのように見える)。『スカイ・クロラ』の先端的なイメージから、180°の展開を果たしたという印象だ。今までになかった森小説。
実はこの作品、剣術修業の旅を続ける、若い侍が主人公、という設定なのだ。え、森博嗣の主人公がサムライ!?

主人公ゼンは、年齢不詳、名字も不明という人物だ。なぜかといえば、幼いころに山の中に住む剣法家・カシュウに預けられ、彼と2人きりで生活をしてきたからである。そのカシュウが亡くなり、遺言に従ってゼンは山を下りる。生前のカシュウに縁があったサナダを訪ね、葬儀のことなど後を託してゼンは旅に出る。目的はない。
ただ、できることをして生きていこうと考えるだけだ。カシュウの下で剣一筋に生きてきたゼンに、他の選択肢はない。剣の腕を磨き、生きる。旅をする。それだけである。
 プロローグとエピローグ、そして4つのエピソードから構成される作品だ。
エピソードといっても、それぞれが「お話」として完全に独立しているわけでもない。話ごとに登場人物が登場し退場する、ゼンが新たな場所を訪れる、といった進展が少しずつあるが、作者の描写は彼の旅程を淡々と追っていくことに徹している。諍いがあったり、悪い意図を持つ者にゼンがあったり、といった理由からゼンが剣を抜いて闘う場面もある。だが、無闇矢鱈に闘っているわけではなく、不必要なことは何も起こらない。時代劇のドラマだと主人公は宿場ごとにばっさばっさ悪人を切り倒していくが、そういうイベントもあまり起きない。
『ドラゴンボール』の第一話の悟空が、ただ旅をしているだけだったのと同じだ(そういえば、あれも『じいちゃんが死んだから旅に出た』という話だったっけ)。
「ドラゴンクエスト」で王様に会う前に、主人公がただうろうろしている状態にも近い。ただ、『ドラゴンボール』とも「ドラゴンクエスト」とも違うのは、ゼンはブルマから七つの玉を探す手助けを頼まれることがなく、この先王様に会う予定もどうやらないらしいということだ。旅をして、あっちこっちに行く。それだけ!

そんなわけで実に風変わりな小説なのである。さらに言えば私は、『ヴォイド・シェイパ』を〈時代小説〉と呼ぶのに若干の躊躇を感じる。本当にそうなの? これって、私が昔からよく読んでいた時代小説と同じものなの? という点がいくつも散見されるからだ。

 最大の理由は、主人公ゼンがほとんど何もものを知らない人物だからだろう。だって、カシュウとずっと二人きりで暮らしてきたんだもの。山の中になかったもの、見なかったことについて、ゼンは何も知らない。モノの名前は当然のこととして、概念自体を知らなかったりするのである。

たとえばこんなくだりがある。
――不思議なものが落ちていたので、それを拾い上げる。
小さな白いもので、石のように硬いが、形が整っている。ぐるぐると巻いているようで、先が尖っていた。細かい模様があり、その模様も渦に沿っている。内側は穴があって、表面が虹色に輝いていた。
なんと、「貝」を見たことがなかったのだ。
ゼンにとって世界は、未知のもので溢れかえった不思議な場所であるようだ。この小説の読みどころはそこで、野生児に近いほど無垢な人間が俗世界でさまざまな事物を見聞し、少しずつそれを理解していく、という過程が描かれていく。一応この世界には「侍」や「僧侶」と呼ばれる存在がいるのだけど、ゼンの目から見た描写なので、一般の〈時代小説〉とは、印象が大きく異なるのである。
 当面(続刊が出るまで)、『ヴォイド・シェイパ』のことは「剣豪小説」と呼ぶのが正しいだろう。なんかすごい剣豪が出てきてあちこちうろうろする話だから、それは間違いではない。また、なんだか知らないが剣豪という生物は古来よりあちこちうろうろするものと相場が決まっているのだ。柴田錬三郎の眠狂四郎しかり、中里介山の机竜之助しかり、吉川英治の宮本武蔵しかり(古い喩えばかりでごめん。あ、最近だと宮本武蔵は『バガボンド』か)。

昔からのファンなら記憶しているかもしれないが、森が1999年に発表したエッセイ集『森博嗣のミステリィ工作室』には、過去に影響を受けた本100冊を紹介するページがあった。実はその中に、吉川英治『宮本武蔵』が紹介されているのである。当該箇所の一部を引用する。
――剣豪宮本武蔵の生涯を描いていてストーリィも当然面白いのですが、一つには凄い奴を凄く見せる書き方に感心しました。武蔵はある種の天才になっていくわけですが、そこに至る描写が面白い。具体的に列挙するのではなく、凄さを垣間見せる手法です。こんな些細なことでもこれだけ凄いのだから、本当はもっと凄いに違いないと、そんな、書かずに書くテクニックで、禅問答に近いものでした。(後略)
『ヴォイド・シェイパ』を読んで、真っ先に思い浮かべたのはこのくだりだ。もしかして源流には『宮本武蔵』がある?
かの作品と本作の最大の相違点は、『宮本武蔵』が三人称、『ヴォイド・シェイパ』が一人称で書かれていることだ。つまり吉川英治は宮本武蔵の内面を書かなくてもよかったが、森博嗣はゼンが何を感じ、何を考え、どう動いたかということを書かなければならないのである。森は〈四季〉四部作で工学者・真賀田四季という天才を書き、『スカイ・クロラ』シリーズで登場する、機体の一部に身体を同調させる戦闘機乗りを書いた。「普通の人間には想像できないもの」「常識や日常の感覚から大きく外れたもの」を書くのは、森のお家芸の一つと言っていい。おそらくゼンという〈剣豪〉の目を通じて、読者は自分がまったく知らなかった世界を見ることになるのだろう。ゼンがあちこちうろうろしているのも、その世界の到来を待っているからなのだ。本人に自覚はないと思うけど、たぶんそうなのだ。
オラ、何だかわくわくしてきたぞ!
(杉江松恋)