水木しげるには、左腕がない。戦争で失ったから。

まだ独身の彼は、左肩で画用紙を押さえながら、紙芝居の絵を汗だくになって描く。
お金がないからネ。
それにしても家計簿が、またゼロだ。
鼻から息を吐く。
フハーッ。

『ゲゲゲの家計簿』は、水木しげるが付けていた家計簿を元に、自分の仕事の様子を描いた自伝マンガ。
なんといっても「家計簿」がメインなのが面白いんですよ。お金ですよお金。
とにかくマメなんです。昭和26年から41年まで、びっちり家計簿をつけている。
上巻ではまだ結婚していません。独身です。

神戸でアパートの経営をしながら紙芝居を描いているのですが、とにかくお金がないので家計簿をつけ始めます。
その時の彼の感想。
「つけてみるとなかなかオモチロイね」
水木しげるが付けていた家計簿自体が載っています。

お金を見ると当時の状況がわかるものです。
水木しげるの生活は、何度も差引残高ゼロになることが多いのなんの。
ゼロですよ。つまり全くお金がないっていうことです。
フハーッ。
息をつきながら水木しげるは紙芝居を描きます。
残高ゼロに近づくのが見える度に、「早く仕上げて画料をもらわないと……」と精を出します。

家計簿から、当時の子供の娯楽のブームの推移がわかる資料本にもなっています。
まず水木しげるは初期の頃、紙芝居を描いていました。
使うのは筆です。
これが結構な量あるのが見受けられます。それだけ当時は紙芝居人気だったのです。
紙芝居屋の収入は飴代。ただで見てっちゃいけないよ。
この頃の紙芝居は印刷じゃなく、できた原稿そのものにニスを塗って見せていたので、一点物。貴重です。
西部劇なども描き、評判のいい水木しげるの紙芝居ですが、決してお金持ちとはいえない。紙芝居が売れない時代がやってくる。
さて、ウケる紙芝居を作るにはどうしたらいいか。
そこで水木しげるは初めて、『ゲゲゲの鬼太郎』の前身とも言える『墓場鬼太郎』を完成させます。

最初はグロテスクすぎてウケなかった『墓場鬼太郎』。

ここにユーモアとアクションを加えて、水木流に言うと「オモチロク」したのが『空手鬼太郎』。
沖縄に行って空手をやる鬼太郎と、ポケットの中にいる目玉の親父で人気が出ます。
よかったよかった。
と思いきや、全然よくない。紙芝居業界が死にかけているじゃあないか。
フハーッ。

テレビの登場で一気に紙芝居は衰退。
家計簿を見ながらどうするか迷い、東京にいって貸本マンガを描くことを決意します。
この時家計簿に残高があるのを確認するあたりが、水木しげるのマメなところ。
早速東京に出てマンガを描き始めるも、筆じゃなくペンなので「書痙」になってしまいます。
この時お金がないので医者に行けず、ビタミン剤のツブを買う、というのもなんとも生々しい。

漫画家になってからも家計簿はつけ続けます。

ところが、作品を持って行っても「そんなもの頼んでない」と言われたり。
今では信じられない話ですが、当時の貸本業界はそうだったのです。
残高またゼロに近くなる。またしても。またしても。
 
水木しげるは怪奇物をやりたくて、『妖奇伝』という作品を描いていました。そこから『墓場鬼太郎』シリーズを描くつもりで必死でした。
彼の熱意とファンの熱意で『墓場鬼太郎』が描き始められたものの、貸本業界も傾いていたので未払いが積もり積もって出版社と断絶。
またしても、家計簿はゼロに。やりたいことをやれるかどうか以前に食べていけない。
フハーッ。

もう貧乏の極みみたいなマンガです。

今の水木しげるファンから見たら、鬼太郎シリーズが出版社に認められないとか信じられない話です。しかし紙芝居・貸本と移行していた時期です、何が受けるのかも分からないくらい混迷していて、安定なんてなかったのが家計簿から見えてきます。
単純に作品が悪いとか出版社が悪いじゃなくて、儲からなかった時代なんです。
日米安保騒ぎの時もばっさりと「アンポだかチンポだか知らんが……こっちは生活がかかってるんだ」とマンガをがりがり描いています。
家計簿がゼロ近づくにつれて、読んでいてこっちまで鼻から息はきたくなります。フハーッ。

でもね、「フハーッ」で済んじゃうんですよ。
家計簿ゼロって大変ですよ。餓死寸前とまで書いてますから。笑えない状態ですよ。
ところがこのマンガ、悲壮感が一切ない。むしろ楽しそうですらある。

水木しげるのこの一言がすべてを物語っています。
「明るいってねえ、あんた。戦争でねえ、危ないところにしょっちゅういたから。それと比べれば、日本に帰ったら、もう安心なんです。喜びの世界ですよ」
ああそうか。
貧しいし大変だし、苦労も怒りもあるけれど。
日本にいれば、死なないんだ。幸せなんだ。
だからこのマンガは、貧しいのにそれが美談でも苦しみでもなく、日常として描かれます。
困ったら「フハーッ」で済ませちゃえばいいんです。

ドラマになった『ゲゲゲの女房』以前の独身時代を、家計簿を軸にして描いたこの作品。
家計簿を見るだけで当時の時代背景も、相場もわかります。
資料価値が高いだけでなく、「まあなんとかなるさ」と気持ちがおおらかになる一冊。
にしても、1922年生まれで、これをガリガリと今も描き続ける水木しげるに、なによりも参りましたと頭が下がります。
フハーッ。


水木しげる『ゲゲゲの家計簿』

(たまごまご)
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