このシリーズの原作は戸川猪佐武(政治評論家)の『小説吉田学校』で、1988年から91年にかけてさいとう・たかをにより『劇画 小説吉田学校』というタイトルでコミックス化された。
1945年の敗戦から1980年代にいたる日本政界の内幕を克明に描き出したこのシリーズに登場する政治家たちは、誰も彼も一筋縄ではいかない人物ばかりだ。それだけにきのうの友がきょうの敵となることもざらで、ついたり離れたりを繰り返した。この記事では『大宰相』に描かれた政界の複雑な人間関係に注目し、そのなかからこれぞ名コンビ、好敵手というべき組み合わせを選んで紹介してみたい。
鳩山一郎×三木武吉――ことあるごとに泣いた鳩山
名コンビ度5・ライバル度1
元首相で、自民党の初代総裁である鳩山一郎。三木武吉は鳩山を首相の座に就かせるため生涯を捧げた名参謀だ。
ちょうど最近、永田町の憲政記念館で「戦後復興への道のり―吉田茂・鳩山一郎―」という特別展が開催され、その会場の一角では鳩山と三木の関係がパネルで紹介されていた。それによると、三木は政治家としての能力では鳩山に負けない自信があったものの、自分は首相には絶対なれないと思っていたという。三木に言わせると、そもそも首相の資格を持つ人間というのは、非常に頭がよかったり仕事ができたりする者では必ずしもなく、何よりも「周囲の人々が何とか応援してやろうという人物」だというのだ。これって、アイドルグループのセンターに選ばれるメンバーにも当てはまるような気がする。

首相たる資格を持ちながらも、鳩山は何度となくそのチャンスを逃してきた。1946年、幣原喜重郎の後任首相として組閣の準備を進めていたところへ、GHQから公職追放の憂き目にあう。このとき鳩山が首相の座を譲ったのが吉田茂である。
『大宰相』ではこの場面以外にもことあるごとに鳩山が泣く。ときには涙を武器にしていたフシすらある。それは1955年、三木武吉が鳩山の日本民主党を自由党と合同させようと画策し、その賛否をめぐり民主党内が揺れていたときのこと。鳩山は閣僚・党幹部らを前に「僕には、どう処理してよいかわからない」「ただ、今のように閣内、党内、共に不一致であっては政権はとても担当できない」「僕としてはもう総辞職するより、他はない」とボロボロ泣き出したのだ。これには合同に反対していた者も心を動かされ、結局、自由党の合同に向けて協議を進める方向で民主党内はまとまる(第3巻「第5章 大野、鳩山陣営へ」)。民主・自由の二大保守政党の合同により自民党が誕生したのは、この年11月のことだ。
保守合同はちょうど鳩山政権がソ連との国交回復に向け交渉を進めていたころだった。先述のように泣きながら総辞職を口にする鳩山に、三木は内心「あんな弱気なことではしたたかなソ連相手に、交渉をやりとげられるかどうか」と心配するのだが、それでも「わしらがしっかりせねば」と思わせるところが鳩山という政治家の魅力であったのだろう。
そんな鳩山に魅せられた政治家は三木だけではない。
池田勇人×佐藤栄作――「吉田学校」教え子同士の対立
名コンビ度3・ライバル度5
ともに終戦後、吉田茂に目をかけられ官僚から政治家へと転身した、いわゆる「吉田学校」の教え子である。熊本の第五高等学校の受験時に同じ下宿に隣り合わせて以来、「友情とライバル意識」を持ち続けたという両者だが、その経歴はどこか対照的だ。
五高時代に酒と将棋にうつつを抜かして東大受験に失敗、京大に入った池田は、卒業後は大蔵省に入ったものの大病による長期離職もあってエリートコースからは外れる。ようやく運が向いてきたのは、終戦直後、先輩たちが公職追放されたため、主税局長となったころからだ。これに対して東大から鉄道省に入った佐藤はきわめて順調に出世し、鉄道総局長官にまでのぼりつめた(第4巻「第3章 池田、保守イメージの転換を図る」)。

1960年、岸信介退陣後の自民党総裁選に池田が出馬した際、佐藤は協力に回った。そのかいあって当選した池田は、佐藤に「次は君だ、全面的に協力するよ」と約束する(第4巻「第2章 官僚・党人の戦い」)。だが、長らく政権を担当するうちに池田はかつて敵対していた「党人派」の代表格・河野一郎との関係を深め、組閣でも佐藤を冷遇するようになる。
決定的だったのは1964年7月の総裁選で三選に意欲を燃やす池田に対し、佐藤が対立候補として出馬したときだ。
このときの総裁選では、佐藤は池田に敗れるものの、それは僅少差であり実力者としての貫禄を示した。一方、池田はまもなくして病魔に襲われ、けっきょく同年10月の東京オリンピックを見届けたのち、後任に佐藤を指名して辞任する。2人の恩師である吉田はこの結果に、「皮肉なことだ……こういうことになるなら……なにも、七月公選で、池田と、佐藤は争わなくても……よかったではないか……」とつぶやくのだった(第4巻「第8章 経済の池田から政治の佐藤へ」)。
田中角栄×大平正芳――互いに「将来の総裁」を誓い合う
名コンビ度5・ライバル度4
『大宰相』の原作者・戸川猪佐武は田中角栄の熱心な支持者であった。それだけに、『大宰相』では田中角栄が吉田茂に始まる「保守本流」の正統な継承者として描かれ、全巻を通してもっとも多く登場する。
その田中角栄の盟友ともいうべき存在が大平正芳である。田中も大平も貧しい家庭で育った叩き上げの政治家であり、1960年代前半の池田勇人政権下にあってそれぞれ蔵相と外相を務め、実力者として基礎を固めていった。『大宰相』には、当時の2人が「大平君は、将来の総裁だな!」「いや、角さんこそ、将来の総裁だ!」と互いに言い合うほほえましい場面が出てくる(第4巻「第5章 福田、反旗を翻す」)。
先に自民党総裁・首相となったのは田中であり、大平はその第一次内閣で再び外相となった。1972年の日中国交正常化は、このコンビにより実現した(第5巻「第5章 日中国交正常化」)。

だが、両者のあいだには隙間風が吹いたこともあった。1974年、金脈問題で窮地に立たされた田中首相は、事態の収拾のため大平(当時蔵相)に助力を乞うのだが、大平はこれを「今度の金脈は君個人の問題だ……自身で誤りなきよう処理してもらいたい」と突き放す(第5巻「第13章 大平離反」)。
その後、田中が内閣改造で椎名悦三郎を副総理に据えるべく、大平に了承を得ようとしたときも、大平はこれを田中退陣後の椎名暫定政権の準備のためだと見抜き、これを拒む。そうなれば、自分の政権が遠のくと踏んでの回答だった(第5巻「第14章 失速」)。大平は田中の盟友であるとともに、権力をめぐって争うライバルでもあったというわけだ。
それでも、1976年に田中の宿敵・福田赳夫が首相の座に就くと、田中は「大平は三十年にわたる盟友だ。(昭和)四十七年の(総裁)公選で俺が勝利をおさめ得たのも、大平の力あっての」「今度は俺が大平を総理・総裁に押し上げなくては、友誼が立たん!」と大平政権の実現に向けて動き出す(第6巻「第13章 角栄、大平支援に起つ」)。これにより田中と大平の関係はますます強固なものになっていった。
権力闘争の見えなくなった時代
今年の自民党総裁選は、現職の安倍首相に対し、有力議員が立候補を見送ったり、出馬に意欲を見せながらも推薦人が集まらず断念したりでけっきょく無投票に終わった。総裁選ともなれば各派閥が激しく争っていた時代を思えば、隔世の感がある。
もちろん、かつての自民党内の激しい権力闘争は、国民を置き去りにしたところもあるのでけっして手放しでは褒められない。とはいえ、そういうものがあまり見られなくなった現在の政界に、一方では味気なさも感じてしまうのだ。
いまの政界の不幸は、次代のリーダーづくりのため、誰かが誰かに惚れぬいておのれの人生を投げ打ってでも協力するという話がほとんど聞こえてこないことではないか。『大宰相』で常に権謀術数をめぐらせながらも、人間的な魅力をプンプン漂わせた三木武吉の姿なんかを見ると、そう思わずにはいられない。
(近藤正高)