昭和63年は1988年のこと。
きっかけは、先月上梓された『巨人軍栄光の影 控えの最強ベストナイン』(澤宮優著)。巨人でレギュラーを掴めなかった12人の男たち、そのひとりとして、栄村忠広が取り上げられている。

プロ野球選手として生き残るための必死さ、ガムシャラさ
この事故にまつわる物語は、基本的には吉村目線、つまり悲劇的な試合中の事故からいかに復活したか、として描かれることが多かった。本書では、その物語を別アングルから描いている。
本書を読むまで知らなかったのは、この試合の翌日、スポーツ紙の一面は吉村ではなかった、ということ。もちろん、「吉村今季絶望」の文字はあるのだが、トップ記事は呂明賜(これまた懐かしい!)の2本の本塁打に関してだったという。
つまり、大きなケガであることは判明していたものの、深刻さはまだ不明。のちにふたりの野球人の人生を長く苦しめるものになるとは、この時まだわかっていなかった、ということなのだ。そのギャップが、いま振り返るとなんだかもどかしい。
そしてもうひとつ、本書を読むまで忘れていたことがある。
あの重荷はね、一生持っていないとあかんと思う
ちなみに栄村、この1988年はシーズン終盤まで一軍の貴重な戦力として活躍。盗塁数11はチームトップだった。その間、自宅には1日に10本以上のバッシングの電話がかかっていたという。
栄村について振り返るとき、「あの事故以来、精彩を欠いて目立った活躍はできなかった」といった言説を野球ファン同士の会話でも耳にすることがある。自分自身も勝手にそのような記憶になっていたのだが、事実はそうではなかったわけだ。
だが、結果として栄村のキャリアハイはこのシーズン。翌年以降、ファームで3割以上の打撃成績を残し、いくつもの盗塁を成功させても、一軍でのプレー機会を得ることは一度もできなかった。その後、1990年オフに、オリックスに無償トレードされ、1年後に現役引退の道を選んでいる。
一方の吉村は、事故から1年2ヶ月後の1989年9月2日、代打で一軍復帰を果たした。では、栄村はその復帰をどこで、どのように見ていたのか。
当時ファームにいた栄村は、二軍監督の須藤豊の部屋に呼ばれた。行ってみると、須藤からウィスキーの水割りを渡され、「よかったな」とだけ告げられ、あとは無言で接してくれたという。
「あれは忘れられないです。本当にそうです」と栄村。だからといって、吉村の順風満帆な野球人生を狂わせてしまった、という重い十字架から解放されたわけではなかったのは言うまでもない。
「やはりあの重荷はね、一生持っていないとあかんと思う。やはりプロにあるまじきプレーをした、そのことに尽きると思うね。それだけは絶対に謝らんといかんと思うしね」
まずいっぱしの補欠になってみろ
本書では、栄村忠広以外にも11人の「最強の二番手」たちが登場する。
10番目の野手といわれたハッスルマン、後藤孝志。
巨人のイチローと呼ばれた男、斉藤宣之。
王と長嶋に福を与えたスーパーサブ、福王昭仁。
王の影に隠れた4番打者、山本功児
俊足強肩「守りのリリーフ」、二宮至。
V9巨人のスーパーサブ、上田武司。
V9の伏兵「おばけミート」、萩原康弘。
巨人では守備要員、中日では代打の切り札、仁村薫。
巨人で甦ったドラ1内野手、鴻野淳基。
工藤に育てられた信頼の第二捕手、村田善則
サイドスローに転向した新勝利の方程式、岡田展和。
居酒屋野球談義でよく酒の肴になる、「巨人じゃなかったらレギュラーだったのに……」といわれる面々だ。
なぜ、彼らは移籍ではなく(移籍した選手もいるが)、「巨人の二番手」という立ち位置を選んだのか? スーパーサブとしての矜持、バックアップ要員としての準備力の大切さ、など、さまざまな視点でそれぞれの生き様を堪能することができる。
もちろん、移籍すべきかどうかで悩みに悩んだ男もいる。「ヤジ将軍」として人気の高かった後藤孝志のケースが興味深い。後藤が「俺、他のチームに出ようかな」と吐露した際、それを聞いていたチームメイトの仁志敏久から、こんなことを言われたという。
「後藤さん、環境を変えるということは逃げるということですよ」
「自分で状況を変えるようにしないと駄目ですよ」
そう言った仁志が、のちに環境を変えようとチームを出ることになるのだから、プロ野球の世界はまさに一寸先は何とやら、だ。
結果として移籍を思いとどまり、巨人で現役生活を全うした後藤。
「ここからレギュラーを取るなんて目標が大きすぎる。モザイクがかかりすぎている。まずいっぱしの補欠になってみろ。その道筋は立てられるぞ。俺はいっぱしの補欠だったから、わかるんだ」
プロ野球は間もなく、夢の球宴、オールスター。そんな時期だからこそ、スターになれなかった男たちの物語も噛みしめておきたい。
(オグマナオト)