脚本:渡辺千穂 演出:梛川善郎

109話はこんな話
翌年、雪が舞うなか、五月(久保田紗友)の赤ちゃんが誕生。時を同じくして、近江では五十八(生瀬勝久)が息を引き取る。
生と死と
静かな静かな土曜日の朝でありました。
雪がはらはらと落ちてくるなか、すみれ(芳根京子)の家で、女たちに見守られながら五月が出産。
待機するリビングでこんな会話が交わされる。
喜代「今から生まれてくる赤ちゃんはこれから何年生きるんやろ。50年後の世界はどうなっているんやろ。
健太郎さんも龍一さんも二郎さんもまだ生きておられますねえ」
紀夫「ぼくはどうやろ・・・」
喜代「どうでしょう・・・」
ちょっと間があって、産声。
何気ない台詞のなかの深い含蓄。これはすごい。
渡辺千穂は、こんなにいい場面の描ける作家だったんだなと感心した。
宮田圭子と永山絢斗が気張らず何気なく語るから余計に良い場面になっている。
その後、喜代さんが「よう来たねえ、よう来たねえ」と生まれてきた男の子に声をかけるのも、本当にじんわりする。「べっぴんさん」は喜代さんで保っていると言っても過言ではない。
109話は、喜代と紀夫のコンビネーションが効いている。
赤ちゃん産まれてホッとして、ニコニコしながら紀夫がリビングに戻ってくると、喜代さんが電話かけながら泣いている。
またしてもこの何気ないふたりの落差が生と死(喜びと悲しみ)を表している。
リビング(生活)のなかで、人生の悲喜こもごもが交差していくところがリアルだ。
視聴者はその前の場面で、五十八にお迎えが来たのを観て知っている。
その前の場面、寝ている五十八が、障子を開けたままにしてもらって、雪の降る庭を眺めていると、下手(左)から光が差してくる。
何か言う五十八。でも声が聞こえない。
台詞の少ない「べっぴんさん」が、ここでも言葉に頼らなかった。
ただ、副音声や字幕では「はな、野上、お母ちゃん…」と言っていたことがわかる。
あの光のなかに3人がいたようだ。
静かに静かに雪が降る。
なんてしっとりしてるんだ!
主人公は最後に報告を聞いて、ただただ涙する。
喜代さんの台詞から積み重ねて来て、すみれが何も言わずともわかる。生も死も生活のなかに当たり前に存在し、でもそれがときとしてずしりと重たい。
だがしかし
家のデッキから空を見上げるすみれ。
全然規模が違うが、神戸のすみれの生家のすてきなベランダを思い出す(五十八とはなが庭で遊ぶゆりとすみれを見て語っていた場所)。
家をつくるとき、ああいうベランダがほしいと思ってデッキをつくったに違いないと妄想。生まれ育った環境による趣味嗜好って影響するものだ。
そこへさくら(井頭愛海)がやってきて、これまでの自分を反省し、「変わりたいって思ってます」と宣言し、「これから生きていくあの子が夢をもてるような何かを作りたいって思った。デザインがんばりたい」と晴れ晴れした顔で言う。「お母さんのことを応援します。わたしのこと応援してください」と完全に母子は和解。だが、このとき、さくらはお祖父ちゃんが亡くなったことを知らないのだろうか。コートを着ているのは、近江に行こうとしているか行ってきたかのどちらかだよね・・・。そこだけが、109話で釈然としないところだった。
そして、春
雪に代わって桜が舞う。
すみれ「さくら、行ってくるね」
紀夫「お父さんも行くな」
103話の「お母さんだけやないお父さんも来た」パターンがすっかり定着した様子。
五十八「よかったなあ、すみれ」
はな「ほんまやねえ」
はなと五十八が何年ぶりに一緒になって、20週からふたりでナレーションしたらいいのに、と思った。
冒頭の、ジャズ・バーでグラサンかけて踊る良子(百田夏菜子)やさくら(井頭愛海)と健太郎(古川雄輝)の心の通じ合い、ヨーソローを譲るすず(江波杏子)なども良かった。
(木俣冬)