日本では、新国立競技場のデザインコンペで最優秀賞を取り注目されたザハ ハディド。日本での知名度はそこまでではないが、海外ではさまざまな斬新なデザインの建築物の設計に携わり、世界的な建築家として知られている。一体どのくらいすごいのか、彼女の遺した作品をみていきたい。




ザハ ハディドのすごすぎる建築の代表作品


世界的建築家だったザハ ハディド。彼女のすごい建築物の代表作をいくつかみていこう。

マカオの超豪華ホテル「モーフィアス」


2016年3月に、心臓発作のため突然この世を去ったザハ ハディド。彼女の遺作は今も、次々と日の光を浴びる日を待っている。そんな彼女の遺作の1つが、マカオの超豪華ホテル「モーフィアス」だ。


モーフィアスは、42階建、772の客室を持つ巨大なラグジュアリーホテル。有名なフレンチシェフのアラン・デュカス氏がプロデュースしたきらびやかで近代的なレストラン、人工雪を使ったスパ、地上130メートルのスカイプールなど、目玉となる施設が並ぶ。総開発費11億ドル(日本円で約1230億円)、コンセプトから6年かけて建てられたその姿はまさに巨大な芸術作品。2018年6月15日にオープンしたばかりのホテルだ。

モーフィアスにおける、ザハ建築の特徴といえば繭のようにホテル全体を包む白い鉄骨であろう。この鉄骨は、外骨格鉄骨構造によるもの。外側が建物の骨格となっているため、内側に柱を持ってくる必要がない。柱がない分、開放感にあふれたスペースになる。実際、この外骨格鉄骨構造は、客室のスペースや見晴らしにも大きな影響を与えている。

そして、機能面だけでなく、外観の美しさもしっかりと表現しているのがザハの建築のすごさだといえるだろう。外側に鉄骨を持ってくるとデザインによっては硬く冷たいイメージを抱くが、ザハの設計したモーフィアスにはその硬さがない。むしろ柔らかさとクリエイティブなイメージが広がる。オープンからすでに、現地では目を引く存在として注目を集めているという。

北京の「銀河ソーホー」


銀河ソーホーは、2012年冬に完成したショッピングとビジネスの大型複合施設だ。1~3階までを商業フロア、4階をオフィスフロアとしている。完成以降は、北京の新名所として注目されている。

その見た目の特徴が、連結した4つのたまご型のような球体だ。この特徴的な形は、中国の連続的で開放感のある空間をイメージして設計された。見た目には、近未来な雰囲気を醸し出しているが、しっかり伝統として取り入れる部分は取り入れているのである。世界でも有数の建築家といわれただけあるザハだからこそ成し得た業ではないだろうか。



さらに、外側だけでなく内部も美しい曲線が連なる空間が広がっている。外からの見た目だけでなく、施設の中に入ってもザハの才能を感じさせる造りはさすがとしかいいようがない。

なお、このように複雑に見える建造物も随所にザハの細やかな仕事の手が入っている。たとえばガラスだけみてもその仕事ぶりは洗練されている。曲線美を表現するのに通常なら何十種類、何百種類も必要なガラスを、緻密な計算によって、ほぼ4種類のガラスのみで表現できるようにしているのである。「アンビルト(実現しない建築)の女王」といわれたこともあったザハだが、年を重ね実績を積み上げたザハの設計に、もはやアンビルトは存在しないかもしれない。



韓国の「東大門デザインプラザ」


東大門運動場の跡地に建設されたのが、東大門デザインプラザという巨大な施設である。当初の建設費は900億ウォン(約87億円)だったが、最終的には4840億ウォン(約468億円)に膨れ上がり、さらに完成までの期間が延びるなど紆余曲折を経て2014年に完成している。

ザハ ハディドのすごすぎる作品、建築を紹介、新国立競技場のデザインを超える?


当初はこうした施工期間の延び、近くにある歴史的建造物との調和、建物全体の大きさが韓国紙から指摘されることがあった。しかし、そもそも建築を推進したソウル側の目的はカルチャーを発信するためのデザインの中心地でありたいという思いで建てられたものである。

ザハの細かく不規則な設計を形にしていくという難しさはあったが、完成してフタを開けるとソウルの大きなランドマークとなった。当初のデザインの中心という目的からすると成功したのではないだろうか。

なお現在、博物館や図書館、百貨店などとして利用されている東大門デザインプラザ。ザハの手掛けた宇宙船のようであり、巨大な生き物のようなその建物は、デザインを発信する場所にはふさわしい姿として市民や観光客から愛されている。施設内の不規則に続く不思議でアンリアルな空間に、外壁のアルミパネルを活用した夜の幻想的で近未来的な雰囲気は見る者を圧倒する雰囲気だ。巨大な空間だけに、ザハの建築技術の細やかさと技術が多く取り入れられており、建物として見学するだけでも見ごたえのある施設である。



ロンドンの「アクアティクス・センター」


イギリス・ロンドンにある水泳競技場、アクアティクス・センターもザハ ハディドが設計を手掛けた施設である。同センターは、2012年に開催されたロンドンオリンピックの水泳競技の場として建築され、使用された。

ザハ ハディドのすごすぎる作品、建築を紹介、新国立競技場のデザインを超える?


大きな特徴は仮設構造を取っていたことである。あくまでオリンピック主体に建設を進めるのではなく、後で解体しやすいような形にし、再構築しやすいように設計された。事実、ロンドンのアクアティクス・センターは、ロンドンオリンピック終了後、市民のための水泳競技場として1度解体され、再構築されている。

ほかにも環境意識の高いヨーロッパ圏ならではといえる、環境に配慮した建築も目立った。例えば土台となる骨組みやセメントである。これらは再生可能な骨組みを使用、環境負荷の少ないセメントの代わりとなるものを使用している。ほかにも自然光の利用、ランニングコストを抑えたプール水処理のなどでイギリスの環境評価制度において、一定の評価を得た。

もちろん、仮設構造や環境問題だけを意識して設計されたわけではない。やはりこのアクアティクス・センターにもザハらしい曲線や洗練されたデザインがみられた。特に屋根は特徴的で、本来アクアティクス・センターの基本はアーチ形であるにもかかわらず、緻密な計算によって複雑な構造を実現している。




カタールの「アル・ワクラ・スタジアム」


世界にはまだ日の目を見ないザハ ハディドの建築物があると紹介したが、カタールで完成する予定のある「アル・ワクラ・スタジアム」もその1つだ。「アル・ワクラ・スタジアム」は、2022年に開催を予定されている、サッカーワールドカップのための国際競技場。現地にあるスタジアムの規模は2万人の観客が収まるレベルというが、さらにグレードアップさせて4万人が収容できるように設計された。




やはり特徴は、ザハらしさを感じる曲線美である。優しい膨らみのある曲線は、斬新さだけでなく親しみやすさも感じる。

しかし、設計図が公開された当初は、そうしたザハのデザインに対して批判の声が上がることもあった。どうもデザインが、女性の大切な場所をイメージさせるというのだ。海外メディアで何度も取り上げられた話題に対して、ザハはナンセンスだと反論している。ザハのイメージでは、ムスリム商人が使っていた木造帆船「ダウ船」をイメージしてデザインしたというものであり、そうしたメディアの見方はおかしいというのだ。

このように批判も上がり、世間を騒がすこともあった、「アル・ワクラ・スタジアム」の建設だが、2018年5月時点で建設は進められている。ザハ亡き今、どのような完成形を迎えるのか注目していきたい。

アブダビの「シェイク・ザイード橋」


何かとザハの設計する建物が注目されるが、彼女の手掛けた設計は建物だけではない。彼女のオリジンである中東に建設された、ドバイ首長国連邦・アブダビのシェイク・ザイード橋もザハの設計によるものである。

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2003年にスタートしたシェイク・ザイード橋のプロジェクトは2010年に完成を迎えた。特徴的なのが、一般的な橋と違い、よりアートのような雰囲気があることである。白い、波をうつように伸びる柱はモノではあるが生命力を感じさせる。

さらに、ドバイの川と砂漠、白いコンクリートという組み合わせが不思議となじむ。ほかとは違う人目を引くデザインに、そこについてくる設計技術。これもザハだからこそ設計できたものだろう。

なお、昼間は白い線が特徴的なシェイク・ザイード橋も、夜になるとライトアップされ、また違う雰囲気を作り出す。青くライトアップされた橋は、まさに波そのもの。ザハは、こうしたことも頭に入れたうえで、設計に取り組んだのだろうか。



ザハ ハディドの生い立ち・経歴・死因は?


ここまで、ザハ ハディドの代表建築物を紹介してきたが、なぜ彼女が世間から注目を集める存在となったのだろうか。ザハの生い立ちから経歴、亡くなるまでを追ってみた。

イラク出身、ロンドンで建築を学ぶ


ザハ ハディドは、1950年生まれ、イラクの首都バグダッドの出身。ただし家は裕福で、父は実業家でもあり政治家でもあったという。芸術などに関心のあった両親の下、育ったザハもまた、芸術や建築に興味を持ち出した。とりわけザハの興味をそそったのは、毎年家族でいくヨーロッパ旅行での建築物で、11歳にして建築家になりたいと将来を決めていたのだという。

その後、彼女の建築への強い思いは変わることなく、英国建築協会付属建築専門大学に入学し、1977年に卒業。卒業後はオランダ人建築家のレム・コールハースの設計会社「オフィス・オブ・メトロポリタン・アーキテクチャ」で働き、イギリスのロンドンを拠点として活動する。

そして、卒業から3年後の1980年には自身の建築事務所であるザハ・ハディド・アーキテクツを設立。事務所設立後、最初に世間を沸かせたのが、1983年に香港のプロジェクトにおけるコンペで1位に輝いた「ザ・ピーク」だった。



アンビルト(実現しない建築)の女王の異名を持つ


1980年に個人事務所を設立したザハ ハディドだが、その後10年「アンビルトの女王」と呼ばれるようになる。当時無名であったザハは、1983年の香港のコンペで優勝するも、結局建築が実現されなかったことが、その由来だ。

1983年以降も、次々とコンペで注目されてきたザハだったが、向こう10年、1990年代まで、そのデザインが実際に建築となることことがなかった。

この10年ほどの苦しい時期を耐え抜き、「アンビルトの女王」と呼ばれたのには理由がある。ザハの作品はどれも近未来的で斬新、目を見張るものがあったが、当時の技術で実現するのには無理があったためだ。デザイン性は評価されていたものの、建築できないという理由でザハの設計は長年実現されることがなかった。

そんな中、技術も少しずつ進歩し、ザハの設計がより実現可能な段階までレベルが上がっていく。国立競技場の優秀賞で注目されたザハだったが、実はザハの作品が建築物として実現されたのは1990年の札幌だ。残念ながら今はなくなってしまったが、ザハの斬新なアイディアを用いて、レストランの内装を完成させた。そして、1993年のドイツのヴィトラ社消防所など、次々とザハの設計は現実化されていくことになる。



アンビルトの女王という異名は、ある方向から見れば建築に至らないという不名誉な異名でもあるが、建築できないほど未来的で進んでいた、優れた感性の持ち主だったとも考えられるのではないか。

2004年には女性初のプリツカー賞を受賞


ザハ ハディドは、それまでの功績が認められ、2004年にプリツカー賞を受賞する。プリツカー賞とは、ジェイ・プリツカーという実業家によりつくられた、建築業界で影響を与えた今を生きる建築家に与えられる名誉ある賞のこと。建築界ではもっとも権威がある賞として知られ、ノーベル賞のような立ち位置にある賞だ。

過去、日本人もプリツカー賞を受賞することはあったが、ザハが注目されるのは、女性ではプリツカー賞を受賞したためだ。女性がプリツカー賞を受賞したのは、ザハが初。プリツカー賞創設以来、25年目の快挙だった。

それまで男性が主役のような建築界で、果敢にも女性建築家としてさまざまなチャレンジをしてきたザハ。このプリツカー賞の受賞は、そんなザハの姿や取り組みが形として認められたことになる。

ザハによるプリツカー賞受賞というできごとは、その後の女性建築家の在り方を大きく肯定した。女性建築家が社会で活躍するための布石となった点で、ザハは大きな影響力を与えたといえるだろう。

2004年以降、日本人の女性・妹島和世がプリツカー賞を受賞するも、西沢立衛とのユニットでの受賞となったため、女性単独の受賞は2018年時点でザハ1人となっている。



2012年には日本の新国立競技場のコンペで最優秀賞を受賞


2012年11月16日には、日本の東京オリンピック開催に向けた、国立競技場建設のための国際デザイン・コンクールで、ザハ ハディドは最優秀賞を受賞した。コンペで集まったのは、国内12点と海外34点の計46点。いずれも、建築家として名のある事務所などからの応募だった。

当時の国際デザイン・コンクールで重視されたのは、限られた狭い空間で8万人を収容できる空間、限られたスケジュール内での完成、稼働式屋根など現代の国立競技場としての技術だ。一次審査では日本人8名、二次審査では著名な建築家2名を加えて、匿名性を保ちつつ、機能面、デザイン性、実現性の面で作品が絞られていった。最終的に残ったのが、ザハ・ハディド・アーキテクツ、コックス・アーキテクツ、SANAA+日建設計の3案である。

結果としては、ザハの案が最優秀賞として選ばれた。選定の理由となったのが、躍動感とデザイン性だ。また機能面についても実現可能だと判断された点、日本の技術をアピールできると評価された点が大きい。日本を世界にアピールしていくランドマークとしては、まさにザハの作品は適役だったのだ。



しかし、残念なことに最優秀賞として選ばれたザハの国立競技場案は、建設途中で実現できないという問題が起き、白紙になってしまう。実現することのない、幻の国立競技場となってしまった。

16年3月、マイアミの病院で心臓発作のため死去


日本の新国立競技場ザハ案が白紙撤回されて以降、著作権の問題などで対立していたザハと日本スポーツ振興センター側。2016年8月、円満に解決したと発表されたが、ザハとの間にわだかまりは消えなかった。

解決されたと発表される以前の、2016年3月にザハ ハディドがこの世を去ってしまったからである。アメリカ、フロリダ州マイアミにある病院で、気管支炎のため入院していたザハが心臓発作のために亡くなったのだという。

これには、新国立競技場のコンペでザハを知った日本国民にも衝撃が走った。ザハに大きく影響を受けた建築家たちからも、65歳で亡くなったザハの死去を残念がる声が上がった。

2016年にこの世を去ってしまった世界的建築家のザハ ハディド。未完成のものを含め、いまだに彼女の作品ともいえる建築物の影響は大きい。彼女の才能を肌で感じるためにも、彼女の設計した遺作をめぐってみるのもよいかもしれない。
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