
最近、役者へインタビューを行う機会が多くあり、その都度「あなたにとって、音楽とは?」という質問を投げかけることがあるのだが、ほとんどの人は「自分に欠かせないもの」と語る。まず音楽を聴いたことがない、という人にお目にかかるのも珍しく、その意味では質問を投げかけた役者たちがそういう答えを出すのも、なんとなくうなずける。
ところが、現在メディアから見た“音楽”を作るもの、ミュージシャンたちの立場は、どのようなものかを考えると、芸能のニュースはもっぱら人気俳優のゴシップが紙面を埋め、ミュージシャンの名前が出るのは、その隙間ほどの位置。どうも音楽家、ミュージシャンという存在は、人気の役者などに比べると、世からの注目は二の次になってしまっている印象がある。2000年頃までにヒットを連発したサザンオールスターズ、小室哲哉、浜崎あゆみ、安室奈美恵といったアーティストは芸能ニュースなどでいまだに何らかのトピックスを見ることはあるが、若手に関して芸能ニュースで取り上げられることはほとんどない。2016年にゲスの極み乙女。の川谷絵音、2017年にはKANA-BOONの飯田祐馬らのスキャンダルが話題となったが、これですら相手の女性が有名なタレント、女優だったからこれだけ騒がれた、という見られ方もあり、ミュージシャン自体が俳優・女優ほど大きく騒がれる例はごく稀である。
もちろん、そういった”世からの注目度”というものが全てではない、という考えもあるだろう。しかし音楽に命を賭けるミュージシャンに対し、たとえば先述の俳優のような存在が、自身の主たる仕事とは別に音楽を披露するというケースが度々ある。そのほうが純粋に音楽を追及するミュージシャンの作品よりも注目を浴びる傾向があるとすれば、世間は純粋な音楽制作者の作品よりも、そちらに目を向けはじめる可能性もある。それは音楽だけに専門的に向き合うアーティスト、「専門」ミュージシャンという存在そのものの意味が問われることになるのではないだろうか。
専門的な“音楽家”以外のミュージシャンの登場
近年では俳優の桐谷健太がCMで歌った曲「海の声」が好評を得て、楽曲が本格的にリリースされるという経緯を踏み、発売時に大きな反響を浴びたり、若手俳優の菅田将暉がミュージシャンデビューを果たしたときに大きな注目を浴びるなど、メディアからは近年ミュージシャン以外の音楽家が、音楽を専門に行っているミュージシャンよりも注目を集めるようなケースが相次いでいる。
俳優が歌を出したりするようなケースは、実はそれほど目新しいものでもなく、昔から時々に行われていたが、近年のミュージシャンデビューが注目されたのは、何か“俳優としてやっている傍らのおまけ”という感じではない、よりアーティスティックな面を出したことにある。桐谷の例は、何か南国の風を感じさせるオリジナルな曲調に、桐谷らしさをアピールする歌、しかもそれはプロフェッショナルなミュージシャンと同等と見ても過言ではないレベルのものを聞かせており、十分に商品にできる作品として成立するものだった。
菅田もデビュー以前に映画『キセキ -あの日のソビト-』より派生した音楽ユニット「グリーンボーイズ」で、歌の面での実力を露出していたことから、ソロデビューがより音楽アーティストに近い形で行われ“おまけ”といった評価とは異なる見方をされているようにも見える。
「表現の壁」の崩壊、求められる表現への貪欲な姿勢
先日、ある有名な役者にインタビューを行ったのだが、その役者に「自身にとって音楽とは?」と尋ねると、「自分を形作るもののひとつ」と答えた。それならば、「いずれ、(桐谷や菅田のように)何らか音楽を発表する機会もあるのか?」と尋ね返したところ、彼は「それはわからない。ただ、今僕が歌わない理由は単純に『これを世の中に発信したい』という強い思いが(音楽を介した形には)無いから」と答えた。この言葉からは、以前ほど「音楽」「映像」「演技」などといった、表現に対しての境目が消失しつつあると捕らえられるだろう。
最たる例として、星野源は筆頭に挙げられるものだと考える。彼はミュージシャンだけでなく、作家、エッセイスト、俳優などとマルチに才能を発揮し、それぞれ高い評価を得ている。そのポテンシャルは、時代を象徴するものの一人として名を挙げられてもおかしくない。そしてそこには、何を作っても星野源らしさを感じられる何かがある。
だが、ミュージシャンが全員彼と同じように活動しているわけではない。“音楽だけ”と枠を絞って活躍するアーティストは、徐々に厳しい状況に追い込まれてる傾向にあるだろう。表現したいものがあれば、それはどんなもので行ってもいい、逆にどんなものでも表現できるという人間が、これからはさらに増えていくにちがいない。
「専門」ミュージシャンの、今後存在する道とは
しかし他方、近年気に留まった出来事もある。たとえば椎名林檎が2014年に同年のサッカー・ワールドカップの放送のテーマソングとして発表した「NIPPON」、またRADWIMPSが今年リリースした「HINOMARU」など、その表現は大いに物議を醸した。これらの表現の良し悪し、あるいは正否に対して結論を出すのは、ほぼ不可能に近いことだろう。しかし一方でこれらの楽曲は、今という時代を考え、思い作ったこと、何か時代に訴えたいものを詰め込み、聴くものの反応が得られるように作ったからこそ、注目を集めたようにも思える。
たとえばこれが映像や文学などといったほかの形式で描かれたものであれば、違う見られ方をしたかもしれない。また、これをミュージシャンではないほかの人が歌ったり、詩を作った、曲を作ったといわれれば、そこには「音楽」を作るという中で考える以外の様々な要素が入り混じり、やはり世間の反応は違ったものになったかもしれない。
この例がどんな音楽にも当てはまるわけではない、またこのこと自体の正否を決定付けることは不可能ではあるが、ある意味純粋に音楽という形で多くの人の関心を引き寄せたこと、「専門」ミュージシャンが作ったものが、先述の表現の壁を持たない表現者の作ったものに勝るとも劣らない表現を作りだせる可能性、手がかりの一端となるヒントになるのではないか、とも思えるところである。
残念ながらその明確な答えはなく、常により良い道を探して悩み続けるしかないというのが結論といえば結論になるだろう。ひょっとしたら「専門」ミュージシャンなど生き残る必然性は、必ずしもないかもしれない。だが何か「専門」ミュージシャン、あるいはそれを目指すという人が、音楽というものの可能性を信じ、あくまで音楽というものにこだわり続け、作り続けるという信念と覚悟があるのであれば、めげずに頑張り続けてもらいたい、個人的にはそう思ってやまない。
文/桂伸也