2月11日、日本は建国記念の日を迎えた。この日は、戦前の紀元節が戦後の長い議論を経て祝日として復活したものである。

しかし、名称が建国記念日ではなく、間に「の」を挟む独自の形をとっている背景には、学術的根拠と政治的妥協が激しく火花を散らした論争があった。


 ■明治政府による2月11日算出の舞台裏


 この日付の根拠は、日本最古の正史である日本書紀にある。そこには、初代・神武天皇が即位したのが辛酉(かのととり)の年、正月の朔(ついたち)と記されている。 1873年(明治6年)、明治政府はこの記述を、当時導入したばかりの西洋のグレゴリオ暦へ換算する作業を行った。その結果、紀元前660年の2月11日という日付が導き出されたのである。しかし、この算出には当初から歴史学的な正確さを疑問視する声が専門家から上がっており、学術的な事実というよりは国家の象徴としての日付という側面が強かった。


 ■戦後、一文字が解決した正統性の壁


 戦後、この祝日の復活を巡る国会審議は、1957年の最初の法案提出から成立まで、約10年間にわたり9回も廃案や審議未了を繰り返すほど紛糾した。神話を事実として祝うべきではないとする実証主義歴史学者や野党に対し、自民党が示した解決策が建国記念の日という名称であった。


 建国記念日と断定すれば、2月11日が歴史的に確定した建国の日であることを国が認定することになる。しかし「の」を入れることで、建国という事象そのものを記念する日という解釈の余地を残した。 この一文字による曖昧さこそが、学術的な厳密さを求める声と、伝統を重んじる国民感情を両立させた、日本独自の折り合いの付け方と言える。


 科学的な事実のみを追求すれば角が立ち、かといって伝承のみに頼れば正統性を欠く。

対立を解消するためにひねり出された「の」という一文字は、多様な価値観が共存する現代社会において、私たちが歴史や伝統とどう向き合えばよいのか、そのヒントを今も静かに伝えてくれている。(編集担当:エコノミックニュース編集部)

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