元秋田朝日放送アナウンサーで、フリーアナウンサーの塩地美澄。頭脳明晰でバラエティ番組などでも活躍するトーク力を有しながら、局アナ時代から注目を集めていたスタイルを活かし、グラビア界でも抜群の人気を誇っている。
しかし現在の活躍にいたるまでの道のりは、決して平坦ではなかったという。彼女の原点と現在地、これからを語ってもらった。(前後編の前編)

【写真】歳を重ねてなお美しさ磨かれる塩地美澄 撮り下ろしカット【6点】

──現在、アナウンサーとグラビアの2刀流で活動されている塩地さんですが、今回は現在のご活躍にいたるまでの道のりを振り返りたいと思っています。秋田朝日放送でアナウンサーとなったのが塩地さんの原点になるのでしょうか。

塩地 そうですね。2006年に入社しました。

──もともとアナウンサーになりたいという思いがあったのですか?

塩地 アナウンサーになりたいとずっと思っていたわけではないんです。合唱団に入っていたことがあるんですが、その定期演奏会でカラースーツを着た女性のアナウンサーが司会をされていて。当時、あんなにビビットなネオンカラーのスーツを着られるのはアナウンサーしかいない、という憧れがありました。本格的に目指すようになったのは大学生になってからです。

──アナウンサーという職業に華やかさを感じていたんですね。

塩地 小学生くらいの頃から、教科書を読む声を周りに褒められていたんです。
アナウンサーに「かっこいい」というイメージはずっと持っていましたが、どこかで「自分の将来を他の人に決めつけられるのが嫌だ」と思っていた時期もあって。高校に入学してすぐの頃、担任の先生から「この成績なら東大に入れるし、アナウンサーに向いてそう。声もいいから目指したら」と言われたんですが、小学校の頃も中学校の頃もずっと「アナウンサーがいいんじゃないか」と言われてきたので「また言われた」と。高校生で思春期だったこともあって、なんとなく反発心から「勧められるままにアナウンサーを目指すのは違うな」と思ってしまったんです。でも大学に入ってから、勉学が好きで、合唱やピアノ、ダンスもすごく好きだったので、勉学とエンタメのどちらも表現できる職業はアナウンサーなんじゃないかなと思って。本当に「アナウンサーがいい」と思えたのは大学生1年生の時だったと思います。

──その後、実際にアナウンサーとなられたわけですが、いかがでしたか。

塩地 毎日泣いていました。本当に世間知らずでしたし、初めての一人暮らしというだけでも大変でした。当時のテレビ局って完全に体育会系だったんですよ。アナウンス業務よりも裏方のお仕事が圧倒的に多いんです。入社した当初、何もできないのにいきなり三脚とカメラを持たされて「まず撮ってこい」と。
その後は編集も覚えて、最終的には自分でネタを決めてアポを取って、台本も書いて。運転して取材して撮影もして編集もして、それを自分で伝えるんです。

──2刀流どころじゃなかったんですね...…。

塩地 でも今は、そんなことは全然できないですよ(笑)。当時は本当に頑張っていました。

──年数を重ねるにつれ、裏方の業務というのは減っていくものなのでしょうか。

塩地 むしろ増えていくんですよ。できてしまうから。でも、自分で責任を持って、自分の裁量でお届けできることが嫌いではなかったし、最終的には「すごくやりがいのあることだ」と思えるようになっていました。ヒイヒイ言ってはいたけど、私は地方でアナウンサーになって本当に良かったと今では思っています。人間関係のいろはも社会人としての言葉遣いもゼロから教えていただいたし、先輩のおかげで根性もつきました。20代の時に“自分の限界を超える経験”ができたから、今の自分があると思っています。


──グラビア活動をするようになったのはどういう経緯だったのでしょうか。

塩地 気が付いたらインターネット上で、バストのことを書かれるようになっていたんです。誰かがたしか“東北人気No.1アナウンサー”と呼んでくださったと思うのですが、その後“巨乳アナウンサー”という感じで胸のことが加わっていて。そこから徐々に注目されるようになったと思います。

──当時はどんな心境だったのですか?

塩地 アナウンサーってそこを見られる職業ではないので、正直言えば、すごく嫌でした。プライドもあったので、しゃべりを評価してもらいたいと思っていて。ただ、今思うととてもありがたいことだと思っています。差別化ができることで仕事にもなっているので、やっと自分の中で消化できるようになりました。

──具体的にグラビア系のお仕事をするようになったのはいつ頃でしたか?

塩地 上京してからです。上京する直前まで報道番組をやっていたので、その時はグラビアのオファーがあったとしても、プロデューサーさんがNGを出していたと思います。フリーアナウンサーってごまんといるので、芸能事務所に入ってから「どう名前を売っていくか」ということで、話題にしていただいていた胸をうまくアピールしていこうということで、2015年にグラビアデビュー。そこからそういうお仕事が入ってくるようになりました。


──上京しようと思ったきっかけはなんだったんでしょう。

塩地 父親のガン宣告です。それまでがむしゃらに仕事をしてきましたが「家族との時間を作らないと後悔する」と思って、立ち止まりました。情報番組から報道に変わったばかりのタイミングで、ありがたいことに私に対する期待も大きかったので「これまで通りには働けない」と言ったら「すぐには辞めてほしくない」ということで、時間を下さったんです。それで週末だけ秋田から札幌に帰る生活をしばらく続けさせていただいて、その後、フリーで活動しました。

──その時はまだ上京されていないんですよね。

塩地 そうです。迷惑をかけずに辞めることが目標だったので、フリーで1年ほど活動してから番組を辞めて、送別会が終わった後に燃え尽き症候群になってしまったんです。その後については番組を続けながら考えてはいたんですが、何も思い浮かばなくて。そんな時に当時の社長や先輩方から「エンタメの仕事をまだ続けた方がいい。最後のチャンスと思って上京したほうがいい」と言われて、重い腰を上げることにしたんです。

──上京して、すぐにお仕事も決まったのですか?

塩地 仕事は入らない想定でしたし、実際に入らなかったです。
今まで言ったことはないんですけど、実は私、上京して半年くらい和菓子店でアルバイトをしていたんです。秋田にいた頃から飲食店でアルバイトをするのが夢でもあって、学生時代はずっとできなかったから。

──その頃はアナウンサーとしてのお仕事があまりなかったのでしょうか。

塩地 グラビアのお仕事はありましたが、週刊誌のグラビアが月に1、2回ある程度では食べていけないんです。週刊誌に2回載せていただいて、3回目のグラビアは写真集だったんですよ。グアムで1st写真集の撮影をしました。グラビアのお仕事は本当に順調で、写真集がすごく売れたんです。それから事務所が給料制になるようにしてくれて、アルバイトをしなくても収入が安定するようになりました。

──バストに注目されるのは嫌だったということですが、グラビアのお声掛けは受け入れられたんですか?

塩地 嫌でしたが、それが名前を知ってもらえる一番良い方法だったので...。今となってはプロフェッショナルとしてセクシーさを追求していますけど、最初のグラビアはタンクトップで、ちょっと谷間が見えているくらいだったんです。こんなに続けられるとは思っていませんでした。

【後編はこちら】二刀流アナウンサー・塩地美澄、39歳でもグラビアを続ける理由

▽塩地美澄
元・秋田朝日放送の人気アナウンサーで、2014年からフリーで活動。
現在はアナウンサーとしてだけではなく、バラエティ番組のほか、写真集を出すなどグラビア界からも熱い注目を集めている。
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