【写真】私小説『僕の心臓は右にある』を書き上げたチャンス大城
──ついに『人志松本のすべらない話』や、ライブシーンでも語られてきたエピソードが一冊の本に! おめでとうございます。
チャンス大城(以下、大城) ありがとうございます。
──いつぐらい前から書かれていましたか?
大城 実は8年ぐらい前からちょっとずつちょっとずつ書いていて。でも、いつかはできるだろうと思っていたけど、期限がないと動かないんですね。その当時は事務所にも入ってなかったので、書いてもどうせ誰も相手にしないだろうと気持ちもあって。やっぱり出版社に話を持って行っても全滅で「自費出版ってどうやって出すんだろう」とか思いながら。
──本を書こうと思ったきっかけは?
大城 『東京タクシードライバー』という大好きなノンフィクション作品があって、その本に感動しまして、僕も書いてみたいなと。その後、作者の山田清機さんとフェイスブックで友だちになれまして、いろんなすべらない話をしていたら、「本書いてみたらいいじゃない」と言ってくださったので、それからちょろちょろと書き始めたんです。でも、ギャグやコントを作るなかで、毎日スコップで穴を掘っていくような作業でした。
そして、『水曜日のダウンタウン』や『さんまのお笑い向上委員会』とかちょこちょこって出させてもらっている今、ここがちょっといいタイミングかなと思って。朝日新聞出版さんが「おもしろい」と言ってくれたので出させていただきました。
──エピソードが盛りだくさんの私小説でしたが、伝えたかったことは?
大城 やっぱり目の前で人殺しを見たり、ピストル突きつけられたり、山に首まで埋められたり、尼崎でいじめられていたり…、(そういう場面では)お笑いがびっくりするぐらい通用しなかったこととか。尼崎の下町の夕焼けのような、鉄臭い部分を何か出せたらいいな、と。この本を読んで、「こんなヤツもいるんだ」って思ってくれたらいいですね。
──普通に生きていて、こんなにたくさんの事件になかなか出会わないですよ。
大城 『すべらない話』で、僕が山に埋められた話をしたんですね。そしたら突然お手紙をいただきまして。「あなたの『すべらない話』を観なかったら首を吊っていました」と。ちょうど首を吊ろうと思ったときに、たまたまテレビつけっぱなしで僕の話を聞いて感動したそうです。
──人の命を救っているんですね。
大城 そのとき、「そうか」って思って。僕のお笑いってメッセージ性はないかもしれないんですけど、私小説だったら…。「いじめられたキッツイ子ども時代もあったけど、それでもこうやって生きてるよ」という姿を見て、なんか感じてくれたら嬉しいなって思います。
──その尼崎時代の幼少時代も濃く書かれていますね。
大城 尼崎は不良がたくさんいてね、それはキツかったですわ。光化学スモッグがすごい場所で当時から学校に空気清浄機がありましたからね。まぁー、見事にいじめられましたね。両親に、「なんで尼崎に住んだんや!」って絡んだこともあります。
──ヤンキーからは逃げられなかった?
大城 そうですね。僕、なんか目立っちゃうんですよ。もし過去に戻れたらピアノと極真空手をやりますね。不良が何か言うてきたら空手で倒して、その後家に帰って、人に対する暴力を振るった心の傷をピアノで癒して…。ビアノは本当にやりたかった。今からでも遅くはないのかなぁ。
──中学2年の時に、ダウンタウンさんの番組『4時ですよーだ』(毎日放送)の素人出演コーナーでその日の優勝者に選ばれ、NSC大坂校に入学するも中退したんだとか。
大城 僕はNSCにを2回行っているんですけど、みんなのレベルの高さにビビってしまって、自分は戦えないなと。8期生の(同期の)千原ジュニアさんはお笑いに腹をくくっていたけど、僕はぬるかったんですよね。
──その当時のことを、千原せいじさんは覚えていたんだとか。
大城 覚えてくれていました。せいじさんと居酒屋で21年ぶりにお会いして。最初は「同期か、覚えてないなー。当時のギャグとかやってみろ」って言われて。「オッヒョッヒョ」ってやってみたら、「オッヒョッヒョーーー! 久しぶりー!!」ってね(笑)。お会いできたのは嬉しかったですね、それから本当にいろいろと面倒見てくれて。
──本を書かれて人生を振り返ってみて、改めて懐かしいな、おもしろいなと思うところはありましたか?
大城 やっぱり、極道にピストルを突き付けられた西成の映画館時代は書きたかったですね。あとは、実は本を印刷をするギリギリってときに、「ちょっと待ってください!」って電話して「大事なところを書いてない!」と、申し訳ないけど印刷を止めてまで追加した箇所があります。
──その部分とは?
大城 人の名誉にかかわるので詳しくは書けなかったのですが、僕は2009年にある派閥に巻き込まれて人間関係をしくじってしまって、気づいたらうつ病になっていました。
阿佐ヶ谷の商店街まではなんとか行ったんです。商店街に入ってすぐに、ローソンの側の自動販売機で、「今から樹海に行って死ぬか、阿佐ヶ谷ロフトAに行くか」という二択を1時間ぐらい真剣に悩んでいました。もちろんプロレスを戦える状態ではなかったけど、後輩と一対一のシングルマッチだったので穴を空けたらかわいそうだと思って、無理やり行ったんですけど体が動かない。
──それでもリングに立った。
大城 はい。そして、プロレスは僕が勝ったんです。そしたら後輩が急に出てきて「おいっ!」って、急にマイクパフォーマンスをしてきたもんですから、「俺な、明日樹海に行って自殺するんだよ! だから来月は挑戦できねーぞ!」って言い返したら、ドカーンってウケたんです。僕は真剣に喋っているのに、「やっぱりチャンス大城ってシュールなこと言うよな、やるな~」みたいな感じでお客さんに思われちゃって…。
それから10何年間、心境的に阿佐ヶ谷という場所が嫌で避けてきましたが、昨年やっと、あの2009年頃の自分にちょっと会いたいなぁと思えたので、阿佐ヶ谷の自動販売機のところに行きました。当時死のうとしていた僕に、「あれからダウンタウンさんにも会えて、さんまさんの番組にも出させてもらって、死ななくてよかったよ」って伝えることができました。
──当時は、とても辛い時期だったと思いますが乗り越えられたんですね。
大城 はい、本当にしんどかったです。でも、こんなことを書くと、「悲劇のヒーローぶっている」とか、「簡単に死ぬとか書くな」とか言われるかもしれない。でもやっぱり、あの日、阿佐ヶ谷の自動販売機横で死を悩んだくだりは本に書けてよかったです。
取材・文/富田陽美
▽チャンス大城
ちゃんす・おおしろ 本名は大城文章。1975年1月22日生まれ。兵庫県出身。NSC8期・13期生。8期生の同期には千原兄弟、FUJIWARA、バッファロー吾郎などがいる。芸歴33年にして、現在、『水曜日のダウンタウン』、『さんまのお笑い向上委員会』など数多くのバラエティー番組に引っ張りだこ。
【後編はこちら】チャンス大城が語る壮絶人生「千原兄弟さんがいなかったら100%芸人を辞めていた」