【写真】出産シーンや他界シーンはなぜ登場しない?『おむすび』第20週
『おむすび』では、これまで何度も“命”が描かれてきた。阪神淡路大震災で命を失った真紀ちゃん(大島美優)、そして結と翔也(佐野勇斗)の間に新しく生まれた“命”・花(宮崎莉里沙)。特に結は管理栄養士の仕事を通じて、生きることや命について人一倍思いを巡らしてきただろう。
そして第20週では、自分の父親である聖人の命に向き合うことになる。手術はそれほど難易度が高いわけではなかったが、全身麻酔で手術に挑む聖人を結や愛子(麻生久美子)、歩(仲里依紗)は神妙な面持ちで見送った。
第99回、視聴者を含め家族みんなが聖人の無事を祈る中、結の業務用スマホが鳴る。結は電話を取ると駆け足で愛子と歩が待つ病室へ。放送時間が残り20秒を切ったところで、結は「手術上手くいったって」と二人に(そして視聴者にも)報告した。ここで聖人の安否を知らせず「つづく」としてもよいところを、1話の中で手術成功までを描き切ったところに『おむすび』という物語の誠実さや優しさを感じる。
さらに退院した聖人が、初めてお酒抜きで本音を伝えられたシーンにも『おむすび』らしい優しい時間が流れていた。家族みんなで食卓を囲み、聖人は一人一人に感謝の気持ちを伝えていく。
聖人が身体の異変に気付き、手術を受けるまでの流れは一週間かけて丁寧に描かれたわけだが、一方で真紀ちゃんが命を落とすシーンや結の出産シーンは直接的に描かれていない。真紀ちゃんの死はナベさん(緒形直人)のセリフによって知らされ、結はお腹に語りかけるシーンも胎動を感じるシーンもなく、場面が変わるといつの間にか花が生まれていたのだ。
生と死、どちらも直接的なシーンを入れようと思えばできたはずだが、なぜ『おむすび』では描かれなかったのか。そこには、死者の気持ちも、生まれてきた子どもの気持ちも分からないからこそ「不確実なことは描かない」という隅々に行き届いた配慮があったのではないかと思う。
この世に誕生した命は必ず尽きる。それは確実だが、生まれ方や死に方は“不確実”である。始まりも終わりも時や場所は選べないし、当人が「幸せな死に方だ」と思ったかどうかも「生まれてきたよかった」と思ったかどうかも、その瞬間の気持ちは絶対に分からない。「人の死はこんなにも悲しい」「子どもの誕生はこんなにも幸せ」というのは、今を生きている人の感情であって本人たちの感情ではないのだ。
死に方も、生まれ方も千差万別、人それぞれ。“今を生きること”を丁寧に描く『おむすび』だからこそ、人間の終わりと始まりを勝手に定義して描くようなことはしなかったのではないだろうか。
次週「米田家の呪い」の予告映像には、喪服姿の結が映っていた。人生を描く上で避けては通れない“命”というテーマを、最後まで『おむすび』らしく優しく包み込むように描き切ってくれることを期待している。
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