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「人生の行為で一番好き」と、車の運転が大好きであることを明かした石田。
石田の運転におけるモットーは「絶対に無理をしない」こと。眠くなったら必ず寝ることを明かし、「よく駒沢公園で寝てるのは私」と、加藤の家の近所で仮眠していることを明かして加藤を驚かせた。
そんな石田が子供時代に打ち込んでいたのは水泳。4歳からスイミングスクールに通い始め、姉のゆり子とともに「ジュニアオリンピックを目指していた」というから驚きだ。
「あの人かっこいいですよ、平泳ぎの選手だったんです」と、ジュニアオリンピック出場経験のある姉・ゆり子について語る石田自身はは背泳ぎの選手。同大会には出場できず「そこまでの選手じゃなかった」と謙遜するが、父親の転勤で3年ほど台湾で暮らしていた時期に台湾新記録を作り、新聞にも載ったのだという。
石田は80年代に盛んに放送されていた『アイドル水泳大会』に出演した際に「ぶっちぎりで優勝しました」と明かしたが、その裏には確かな実力の裏付けがあったのだ。
水泳に真剣に打ち込んでいた姉妹が芸能界の道に進むきっかけはスカウトだった。まず姉のゆり子が、自由が丘の亀屋万年堂の前でスカウトされたが、持って帰ってきた芸能事務所の名刺を、厳格だった両親は破り捨てたという。
するとそれから1カ月後、同じ女性スカウトの名刺を今度はひかりが二子玉川のケンタッキーフライドチキンの前でもらったのだとか。すると石田の母は「ほらご覧なさい、みんなに配ってるじゃない」と、事務所まで直接断りに行ったが、事務所のスタッフの真摯な姿勢をを目にし、芸能界に対する見方が少し変わったという。
こうして芸能界入りした石田は1987年、15歳の中学3年時にシングル『エメラルドの砂』でデビューするも、レコードセールスはさっぱり。3年間、売れないアイドル時代を過ごし、少しずつ芝居・演技に対する興味が湧いてきた高校3年生の時に、映画監督の大林宣彦との出会いがあったのだ。
「監督との出会いがなければ今の私はいない」と石田が振り返る作品は1991年公開の主演映画『ふたり』。大林監督から「ひかりは少女のプロだから、そのままでいい」という言葉をかけられ、大きな支えとなった。
翌92年にはNHK連続テレビ小説『ひらり』でヒロインを務め、93年にはフジテレビ系月9ドラマ『あすなろ白書』に主演。トントン拍子に国民的女優の道を上ったが、「(女優としてやっていくぞという)腹をくくれたのはつい最近。自信ないし、ずーっともがいています」と、心境を語った。
そんな石田も2001年に結婚し、2人の娘も既に成人。現在はフジテレビ系月9『続・続・最後から二番目の恋』に出演し、6月20日に公開された映画『ルノワール』では主人公・沖田フキ(鈴木唯)の母親役で出演するなど、バイプレーヤーとしても存在感を見せつけている。
すべては“二子玉のケンタ”から始まったと言えるのかも知れない。
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