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妹の石田ひかりは、同番組の6月21日放送回に出演。姉のゆり子が先に自由が丘で芸能事務所にスカウトされたことや、子供の頃に共に水泳を頑張っていたことなどを明かしていた。
「お姉ちゃんは凄かったって言ってましたよ」とMC・加藤浩次が伝えると、石田は「ああ、水泳ですか?」と返答。1984年のロサンゼルスオリンピックの強化選手になれるかどうかのレベルだったことを明かした。
当時石田は、毎日5000メートルを泳いでいたといい、「何でこんなに泳がないといけないのかっていうぐらい水の中で、当時七夕の短冊に“エラ呼吸になりたい”って書いた」と、天然ぶり全開のエピソードでスタジオを沸かせた。
父の仕事の関係で、中学生時代を台湾で過ごした石田は、中学3年の秋に日本に戻り、15歳の春に自由が丘でスカウトされた。俳優になりたいという願望はなかったが、大ファンだった真田広之に会わせてくれると言われ、すっかりやる気になったという。
すると、事務所入りして程なく真田と会う機会に恵まれ、「夢がかなっちゃったので、もう(芸能界を)やめてもいいな」と思ったことを振り返り、共演者を笑わせた。
それでもスカウトから1年後の1987年、全日空の沖縄キャンペーンガールに何千人もの応募者から選ばれると、「自分の人生が“あれ?”って、何か凄い勢いで変わる瞬間を感じました」と言う。
当時は美白ブームのいまとは違い、夏は健康に日焼けしていた時代。色白の石田も撮影の1カ月前から沖縄に入り、ただただ日焼けするために過ごすという「夢のよう」な日々を送ったことも明かした。
そんな石田が明かした思い出は、19歳の頃に共演した西田敏行さんのこと。西田さん主演の時代劇『翔んでる! 平賀源内』(TBS系)の撮影のため、約半年間東京と京都・太秦を往復していた。
座長の西田さんは出演者全員に気を遣い、「いつも美味しいものをみんなで食べに行って、全部ご馳走してくださって、カラオケ最後に連れて行ってくださって、一緒に『もしもピアノが弾けたなら』を歌って…」と、西田さんの代表曲をデュエットした思い出を明かした。
西田さんは、芝居がうまくできなかった石田を傷つけないように、丁寧に演技を教えてくれたのだという。
例えば2006年の映画『釣りバカ日誌17 あとは能登なれハマとなれ!』で石田が石川県輪島市出身のヒロインを演じた際には、輪島塗の漆を塗る工程を説明するシーンがあり、石田が覚えた通りに演技をしたところ、西田さんは「ゆりちゃん、それはね、この器の気持ちになって…」と、生きているものを愛でるようなセリフの言い方をアドバイス。石田は「魔法をかけてもらったなっていう瞬間だった」と振り返った。
西田さんから学んだことを思い返し、石田も若い俳優が困っている時は、なるべく緊張させないよう接するようにしているという。
石田は、現在公開中の映画『劇場版TOKYO MER~走る緊急救命室~南海ミッション』に、TOKYO MERの創設者である東京都知事・赤塚梓役で出演。毅然とした態度で指示しながらも、時折キュートな一面もみせる。西田さんの教えが生かされているのかも知れない。
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