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工藤氏は1982年にドラフト6位で西武ライオンズに入団。以降、ダイエー(現ソフトバンク)、巨人、横浜、西武と渡り歩き、29年間にわたる現役生活で通算224勝を挙げた。タイトルは最優秀防御率を4回、最多奪三振を2回、最高勝率を4回獲得し、MVP2回、日本シリーズMVPも2回受賞。14度のリーグ優勝と11度の日本シリーズ制覇に貢献し、「優勝請負人」と称された。
引退後はソフトバンクの監督として7年間でリーグ優勝3回、日本一5回を達成し、正力松太郎賞は現役・監督通算で史上最多の5度受賞という「球界のレジェンド」となった。しかし、少年期の野球人生は決して平坦ではなかったという。
「ぽいぽいトーク」のコーナーで、「子どもの頃から甲子園を目指してたっぽい」という問いに「×」の札を上げた工藤氏。野球を始めたきっかけは小学2年生の頃、「父親のキャッチボールの相手をするため」だったと明かし、甲子園の高校野球も「見たことがなかった」と告白。父親の影響で野球はすれども、さしてのめり込んではいなかったようだ。
転機が訪れたのは中学時代。家が裕福ではなかったため、卒業後は働きに出る予定だったが、投球を見た関係者から特待生で高校に進学することを勧められ、名古屋電気高校(現・愛工大名電)に進むことに。
MCのハライチ・岩井勇気から「その環境で、よく上手くなりましたよね」と問われるた工藤氏は、「(野球を)教えてくれる人はほとんどいなかった」と前置きし、「僕の先生は『週刊ベースボール』です」と、ベースボール・マガジン社が発行する老舗野球雑誌の名を挙げてスタジオを驚かせたのだ。
工藤氏は「後ろの方に分解写真が載ってるじゃないですか」と、現役選手の投球や打撃フォームをコマ撮りした分解写真と、野球解説者の説明記事を参考にしていたことを告白。「解説を昔だったら金田(正一)さんとか、稲尾(和久)さんとか杉下(茂)さんとか凄い方がいらした」と当時を振り返り、そうしたレジェンドの解説を読みながら腕の使い方などを学んだと語った。
高校3年の夏には甲子園に出場したが、甲子園出場自体が大きな目標だったためにプレッシャーもなかったという。初戦の前夜、ナインで「1回くらいは勝ちたいね」と話していた一方で、勝てば勝つほど“高3の夏”に遊べる時間も少なくなるため、「そろそろ(負けても)いいんじゃない?」などと口にする仲間もいたそうだ。リラックスした雰囲気の中、甲子園デビュー戦となる長崎西高戦でノーヒットノーランを達成。その後も勝ち進み、チームをベスト4に導いたのだった。
こうして評判となった工藤氏は西武からドラフト指名され、プロ入り。栄光のプロ野球人生を歩むことになるが、その原点には「週刊ベースボール」の熟読という意外な体験と、本人の類まれなる才能があったのだろう。
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