【写真】ライブで歌う野島樺乃【5点】
7月23日に2作目のシングル『サマーバイブス』をデジタルリリースした野島樺乃。爽やかで涼しげなトロピカルサマーチューンに仕上がった。
野島「夏って冒険したくなる季節じゃないですか。普段の私はあまりアッパーな曲は聴かないんですけど、今回は良い意味で私らしくないサマーチューンを制作したいと思い、作曲家さんとこの楽曲を制作しました。ライブをするときは盛り上がる曲がほしいじゃないですか。私にはそういう曲がなかったから、ちょうどいいタイミングかなとも思いました。この夏はさらに進化した#ノジマノウタを広めていけるように全国各地に歌いに行きます」
野島はこの春からソロの歌手として活動することになった。4年間活動してきたユニット「et-アンド-」が解散することになったのだ。春からは隣を見ても誰もいない。それなりの決意がないとやっていけない。そんな厳しい道のりを今まさに歩いている。
野島「ソロになるにあたって、スタッフさんに『私はこんなアーティストになりたいんだ』という理想像をお伝えしました。それは、愛を伝えるアーティストになりたいということでした。愛にはいろいろな形があるだろうけど、私が歌うものの中心には愛を置きたいと思っています」
野島がこう考えるようになったのは、ある体験が根底にある。
野島「私は7歳で地元の合唱団に入って、ボランティア活動として老人ホームに行ったりしていました。名も知らぬ私たちの歌を聴いて、涙を流している方や笑顔になってくれる方がいました。私はその反応に衝撃を受けました。そこで私は、ただ楽しいという感情だけじゃなく、昔のことを思い出してもらったり、誰かの感情に寄り添えたりすることの素晴らしさを学びました。私は誰も一人にさせないような、愛のある歌い手になりたいと思うようになったんです。だから、最新のアーティスト写真もシンプルに黒でまとめました。余計な装飾はせず、ただメッセージを伝える歌手になりたいからです」
合唱団には週2回通ったという。
野島「劇団四季の先生から歌を習っていた知り合いの方がいらしたんです。東京の音大で声楽を習っていた方で、その方が瀬戸市で合唱団を作ることになって、私は1期生として入りました。
学校が終わったら練習場所の公民館に集合しました。童謡を歌いながら、歌の基礎を学びました。ハモリの感覚は今でも活かされています。夏休みになると市民会館で歌ったり、いろんな施設を回ったりして、たくさんの方が笑顔になる空間が好きでした」
生まれ育ったのは愛知県の瀬戸市。人口は13万人弱。名古屋市の北東に位置している。
野島「瀬戸市は瀬戸物の町です。毎年9月に大きな瀬戸物市が開催されて、2日間で何十万人も来場します。ウチの実家もお茶碗は全部瀬戸物です。自然豊かで、コンビニやスーパーまでは歩いては行けません。
そんな瀬戸市で、野島は人前に出るのが好きな少女として育った。
野島「小学生の頃は気が強かったです。口が達者で、男の子をよく泣かせていました。学級委員なのに、『静かにして!』と注意する私が一番うるさいみたいな(笑)。先頭に立つのが好きな子でした。思春期に入って、その考えは薄れてきましたけど」
中学に上がると、運命を変える出来事が起きる。SKE48の7期生オーディションを受けたのだ。
野島「中学1年生から2年生になる春休みに、オーディションに合格しました。私の周りにはアイドルなんていなかったから、学校の先生も友達の親御さんもみんな驚いていました。新学期になると、先輩が私の教室まで覗きに来ました。
なぜ受けたかというと、キラキラした世界に飛び込んでみたかったからです。中学に入ると、いくつかのオーディションを受けるようになっていました。
名古屋を拠点にしている事務所なんてそうそうないから調べてみたら、審査は歌だけでした。SKE48って『NHK紅白歌合戦』や『ミュージックステーション』にも出演していて、キラキラした存在だと思っていたし、かわいい衣装を着て、ヘッドセットをつけて踊っている姿がプリキュアみたいに見えたんです。それに心を奪われて、入ってみたいと思いました」
2015年3月31日、野島樺乃は7期生の一員として初めてステージに立った。お披露目の場に立ったのは15名。そのセンターにいたのは野島だった。
野島「私、すごく負けず嫌いなんです。アイドルになったからには、なりたい自分にならないと意味ないじゃんと思っていました。そこでセンターを任されたから、そこにしか価値がないと思ってしまいました。その後、センターではなくなりましたけど、それは自分の頑張りが足りないんだと思うのと同時に、なんで私がセンターじゃないんだろうという疑問は消えませんでした。
その炎は数年消えなかった。センターにこだわっていた。元来目立ちたがり屋だから仕方ない。その炎は次第に弱まっていくが、再び心に火が着く出来事が起きる。
野島「活動を続けていくうちに、自分だけ頑張っていてもグループとして輝かないと意味がないんだといつしか思うようになっていきました。そんなとき、『AKB48グループ歌唱力No.1決定戦』(以下、歌唱力)の開催がアナウンスされました。ここが勝負だと思いました」
「歌唱力」は国内のAKB48グループから(海外グループが参加した大会もある)歌に覚えのあるメンバーが出場し、一番魅力的な歌い手を選ぶというイベントだ。しかし、それ以前にSKE48だけでその前身に当たる大会が番組内で行われたことがある。野島もこれに参加した。
野島「私は歌が得意と公言していたのに、そこで1位になれませんでした。
野島はこの第1回大会に優勝した。審査員は歌のプロたちが担当した。プロが野島の歌声を認めたのだ。
野島 「『歌唱力』で優勝していなかったら、私はまだSKE48にいたかもしれません。この大会で私は、生バンドの前で歌う快感を知りました。それは新鮮で、刺激的な体験でした。めちゃくちゃ楽しかったし、この快感を次につなげたいと思いました。もっと歌のお仕事をしたい。そう思うようになり、グループからの卒業を決めました」
グループを卒業するとユニットで活動するようになるが、他のメンバーは東京にいるものの、野島の拠点は愛知県のままで、仕事の度に上京していた。しかし、昨年上京。初めての1人暮らしをスタートさせた。彼女にとって東京とはどんな場所なのだろう。
野島「東京にいないとお仕事が回らないという状況にしたかったんですけど、去年の秋に東京で舞台のお仕事があって、稽古で毎日東京にいることになったから、環境を変えるなら今だと思い、上京しました。毎日だらだらしちゃうかもって心配していたけど、意外と一人暮らしってできるものですね(笑)。洗濯も掃除もちゃんとしています」
上京してからの楽しみは同期に会うことです。(後藤)楽々とはよく会っています。会うと、お互いに溜まったことをばーっと言い合っています。そういう時間にリフレッシュできていますね。
野島「でも、東京にいると、なんだか急かされている気がします。みんな歩くのが速いんです。お仕事でも効率を大事にしているように感じます。そんな東京にまだ馴染めていないと感じると、落ち込むことがあります」
野島には野望がある。まだ23歳。勝負はこれからだ。
野島「目の前の目標は、名古屋のTHE BOTTOM LINEにソロでもう一度立つことです。SKE48時代にソロライブをやった場所にもう一度立ってみたいです。将来的にはBillboard Liveでライブができるアーティストになりたいです
でも、アイドルを卒業して4年、アーティストさんたちにもまれて活動していると感じるんです。この世界にはとんでもない化け物がいるんだなって。私って歌が下手だなって毎回思わされます。何度も叩きのめされて、その度に立ち上がって……を繰り返してきました。アイドルもそうですけど、シンガーソングライターの世界も戦国時代です。振り向いてもらうためには歌を磨かないとなと思っています」
現在、野島はストリートライブを精力的に行っている。とある会場に足を運んでみると、最後の曲は絢香×コブクロの『WINDING ROAD』だった。曲がりくねった道の先に野島はどんな光を見ているのだろうか。
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