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◆人間だれしも童心に帰れる場所を求めているのかもしれない
他人から颯爽と歩いているように見える人でも、心の中には寂しさや迷いがあるものだ。人生のある時期に、誰かの優しさにふれたいと感じることや、母のように無条件に受け入れてくれる人を無性に求めることもある。
徹、夏生、精一は年会費35万円のクレジットカード会社が提供するホームタウンサービスを使い、“母”ちよが待つ“ふるさと”に帰り、束の間のやすらぎを得る。アメリカのクレジットカード会社と限界集落が手を組んだこのサービスでは、カード会社の会員が一泊50万円支払い、自分の情報をフォームに細かく記入し、この里に訪れると、住民がテーマパークのキャラクターのようになり、里全体が貸し切りテーマパークのようになる。
本作において最初にこのサービスを利用したのは徹だ。彼はバスを降りると、軽トラに乗った高齢の男性に「やっぱす 松永さんとごのトオッちゃんだ」「いや~ おめはんちっとも変わんねえな」と歓迎された。そして、この里の主人公ともいえるちよは「きたが きたが 帰ってきたが。フフフ…。」と、徹が40年ぶりに“帰省”すると大喜びだ。ちよが徹に注ぐ眼差しは優しく、目の前にいる“息子”徹の存在に“母”として感謝しているようにも見える。
徹のちよの家での過ごし方は帰省した息子そのものだ。
徹は「都会じゃ寂しくないんだよ 髪が黒いうちはね」と湯船につかりながら、ちよに胸の内を漏らしていたが、若い頃は孤独を感じなくても、年齢を重ねるにつれて特に理由はないはずなのに、ふと寂しく感じることもある。
東京は娯楽があふれており、各地から優秀な人たちが集う洗練された街だ。しかし、どこか無機質であり、互いの間に隔たりを感じることもある。都会のスタイリッシュな人たちは立ち振る舞いは上品で、人当たりが良いものの、本音と建て前を巧に使い分けていると思うこともある。特に、社会的地位が高いと、他者と気ままに交流する機会は少なくなる。会社のトップに立つ徹もこうしたことを日々感じているようで、「私は腫れ物だ。誰も普通に接してくれない」と第2話で会社での自らの立場について口にしていた。
徹に続いて、この里を訪れた夏生は、認知症の母を亡くして間もなくして、この里に引き寄せられるようにやってきた。
「銭こそ大切にせねばいけねえど 独り身のおなごは銭こだけが頼みだがんな」
ちよがこれまでどのような人生を歩んできたかは明かされていないが、同居人がいないことから察するに、女一人で苦労してきた可能性もある。女一人で生きている夏生にこの言葉を母として、人生の先輩として贈ったのだろう。夏生は“母”からの言葉としてありがたく受け取り、心に留めていた。
また、定年退職を機に妻に離婚を切り出された精一については、この里を訪れた当初は“テーマパーク”として陽気に楽しんでいたが、「私を この墓に入れて頂けませんか」と突拍子もない頼み事を墓参り中にするほど、この里の虜になった。彼は「嘘の世界に 真実があった」と述べていたが、この里はホームタウンサービス利用者の訪問により嘘の世界に一変するものの、自然に根付いた暮らしも、人びとのぬくもりも真実であることに変わりはない。近隣住民が共存し合い、自分が食べる野菜を育て、夜になったら明かりが消え、寝る暮らしは、心身に調和した暮らしといえるのかもしれない。
◆実感すると離れがたくなる“愛情”と“優しさ
徹、夏生、精一がそうであるように、世間を一人で器用に渡り歩いている人でも、他者から全肯定してもらったときの安心感、手を優しくさすってもらったときのぬくもりを改めて感じると、大きな包容力にずっと包まれていたいと渇望するようになるものだ。
東京は娯楽もグルメもトレンドもあふれ、街は住みやすいように整備されているが、横のつながりや自然のぬくもりを感じられる機会はあまりないともいえそうだ。また、社会における自身の立場を鑑みると、ありのままの私でいつも居ることは困難だ。
私たちは“誰かに甘えたい”、“私の見方となってくれる人が傍にいてほしい”、“手を優しく握りしめてほしい”という願望だけでなく、“子ども時代のように肩書にとらわれず、私のままで在りたい”という思いを秘めていると思う。
次回、最終話となる。予告映像では“母”ちよの葬儀と思われるシーンが流れ、心配になったが、どのようなラストになるのだろうか。
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