クレイトン・M・クリステンセン教授の著作は数多くありますが、筆者が特に衝撃を受けたのは『イノベーションのジレンマ』(翔泳社)でした。今は組織としては存在しませんが、かつてDEC(Digital Equipment Corporation)でそのジレンマを体験したからです。
筆者も経験したイノベーションのジレンマと企業病
『イノベーションのジレンマ』の原題は“The Innovator's Dilemma”であり、本来は「成功した企業のジレンマ」という意味合いが強いです。イノベーションそのものにジレンマがあるわけではありません。
筆者がDECで体験したジレンマは、おおよそ以下の通りです。
・VAX/VMSによりミニコン市場でNo.1となり、世界第2位のコンピューターメーカーへと成長しました(書籍『エクセレントカンパニー』で賞賛される)。
・しかし、上位のメインフレームクラスのコンピューター(VAX 9000)をリリースするなど、上位思考が強まり、下位市場への対応がおろそかになりました。
・PCとUNIXサーバーが急速に普及し、オープンなシステムがトレンドに。
・自社の技術に固執し、POSIXなどのAPIやOSF/1のミドルウェアを搭載したOpenVMSで対抗しようとしました。
・一方で、独自のUNIXであるULTRIXも保有していましたが、積極的な投資はせず、PCサーバーもラインナップにはあったものの、積極的な販売は行いませんでした。
・MIPSをCPUに採用したワークステーション製品もリリースしましたが、競争力がなく苦戦。その後、世界最速のAlphaチップを開発しましたが、ハードウェア中心でソフトウェア戦略が弱いという課題がありました。
・ピーク時(VAX 9000リリース時)からわずか2年程度でリストラが始まりました。
・皮肉にも、保守部門だけは増員が続きました。
筆者がDECに入社した当時は「エクセレントカンパニー」と称されていましたが、退職する頃にはまさにイノベーションのジレンマに陥っていました。この間、わずか3年ほどです。これがこの「企業病」の恐ろしいところです。なぜこのようなことが発生するのでしょうか?
なぜNo.1ベンダーは「イノベーションのジレンマ」に陥るのか?
No.1ベンダーになると、多くの顧客を抱えます。日々の顧客対応に追われると、機能改善やプロセス改善といった「慣性の法則」が顧客を中心に働きます。開発グループが顧客サポートを重視しすぎると、それは危険信号です。目の前の顧客にとらわれ、市場全体やトレンドを見失ってしまうためです。過去の見込み顧客を想定して製品開発を進めてしまうのです。
また、より収益性の高い上位市場を追求する思考が強まり、下位市場を軽視しがちになります。社員も、現状の問題解決に焦点を当てる帰納的思考の人が増え、イノベーションに不可欠な仮説検証型の演繹的思考の人が減っていく傾向にあります。
このような状況で、下位から必要最低限の機能(Nice to Have)を持った競合が現れます。彼らは価格も手頃で、後発ゆえに市場トレンドに乗っています。しかし、No.1ベンダーはそのような競合を「取るに足らない」と無視しがちです。
競合は、Nice to Haveで十分と考える顧客を開拓しつつ、着実に機能改善を進めます。そして、気づかないうちに競合は力をつけ、市場トレンドをリードしながら、機能面でもNo.1ベンダーに追いついてしまうのです。「明日の競合は、今日の競合ではない」ということを肝に銘じるべきでしょう。競合も進化します。
このように書くと、筆者のDECでの体験に納得がいくかと思います。イノベーションのジレンマは、No.1ベンダーに発生しやすい「病」です。傲慢になっているわけではないのかもしれませんが、「No.1ベンダーの傲慢さ」とも言われることもあります。
ボストンコンサルティンググループのコンサルタントによると、変化の激しい環境で企業が陥る罠には以下のようなものがあり、イノベーションのジレンマに通じるものがあります。
・自身の考えを過信する
・反対意見を封じる
・計画できないことを計画する
・硬直した方向性
・行動の遅れ
・社運を賭ける
・失敗を罰する
・戦略的アプローチを流行によって選択する
イノベーションのジレンマを克服するための対策
では、どのようにイノベーションのジレンマを克服すればよいのでしょうか。
○1.新規ビジネスを別事業で立ち上げる
新規ビジネスを既存事業とは切り離して立ち上げ、既存事業の「慣性の法則」を持ち込まないようにします。例えば、マイクロソフトはペルソナごとに事業部を分けていました。ワーカー向けにはOffice、IT部門向けにはBackOfficeやVisual Studio、ゲーム向けにはXboxといった具合です。
シスコシステムズでは主力であるネットワーク製品の事業をCore、新規事業をEmerging、これから収益を生み出す事業をAdvancedと区分し、それぞれが独立してビジネスを推進していました。
○2.研究開発を工夫する
シスコシステムズでは、R&D&A(Research, Development & Acquisition)戦略を取り、有望なテクノロジーを持つベンチャー企業を買収(A)し、本体に統合していました。買収対象は企業文化がまだ確立されていないベンチャーです。
そのため、シスコ本社周辺には、買収されることを目的としたベンチャーが多数設立されていました。また、研究開発(R&D)と概念実証(PoC)を行う部隊を統合し、PMF(Product Market Fit:自社の製品が市場に適合し、顧客に受け入れられている状態)が確認できたら事業部に展開するプロセスを確立している会社もありました。
他にも、よく見られる対策として、下位市場向けに別ブランドを立ち上げて競合対策をする例があります。シスコシステムズの中堅・中小企業向けネットワーク製品であるMeraki(メラーキ)などは、まさにその好例ではないでしょうか。
○3.一次情報の取得を強化する
これは最も簡単な方法です。
○4.A Sense of Urgencyを持つことの重要性
何よりも、A Sense of Urgency(緊急度への感覚、危機感ではない)を持つことが大切です。マイクロソフトですらこの緊急度への感覚が鈍り、うまくいかなかった事業が多くあります。筆者の在籍中にも、「あの発表はなんだったのか?」という思い出が少なくありません。
・検索・広告分野ではGoogleに水をあけられた
・スマートフォン分野ではAppleに後れを取った
・モバイルOS分野ではGoogle(Android)、Apple(iOS)が席巻
・メディア分野ではNetflixが台頭
常に市場のトレンドに目を光らせ、変化を察知する能力を持つことが重要です。No.1ベンダーの社員の方々には、『イノベーションのジレンマ』を読まれることを強くお勧めします。また、常に仮説検証型で考える癖をつけておくことも大切です。
追伸
HPやSun Microsystems、PCベンダーにDECは追い抜かれてしまいました。
このストーリーは書籍『戦うプログラマー』(日経BP)で紹介されています。イノベーションのジレンマは、ある意味で優れた人材を市場に開放する良い機会なのかもしれません。
北川裕康 キタガワヒロヤス 35年以上にわたりB to BのITビジネスに関わり、マイクロソフト、シスコシステムズ、SAS Institute、Workday、Infor、IFS などのグローバル企業で、マーケティング、戦略&オペレーションなどで執行役員などを歴任。現在は、独立して経営・マーケティングのコンサルティングサービスを提供しながら、AI insideの Chief Product Officer(CPO)を担当。大学は計算機科学を専攻して、富士通とDECにおいてソフトウェア技術者の経験もあり、ITにも精通している。前データサイエンティスト協会理事。マーケティング、テクノロジー、ビジネス戦略、人材育成に興味をもち、学習して、仕事で実践。書くことが1つの趣味で、連載や寄稿多数あり。 この著者の記事一覧はこちら