フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。
リリース開始の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)

○東京初空襲

写真植字機は、軍関係をはじめ、満州、朝鮮、中国、ジャワなどで大きな成果を上げ、真価が認められた。しかし注文が続くいっぽうで、人手不足から生産がまにあわなくなっていた。

1942年 (昭和17) 4月18日、アメリカ戦闘機による東京初空襲があった。空母から陸上爆撃機B25を発進させた奇襲攻撃で、茂吉が日本軍の演習とまちがえてしまったほど、おもいがけない空襲だった。茂吉宅と写真植字機研究所から比較的近い荒川区尾久の住宅も爆撃された。[注1]

次いで茂吉を別れが襲った。東京初空襲から1週間後のことだ。茂吉の母たけが、77歳で亡くなったのである。たけは、脳卒中で13年間、病床に伏したままであった。

戦争は日ごとに激しさを増していった。すでに1939年 (昭和14) ごろからは、軍需に結びつかない仕事への資材供給はほぼ行なわれなくなっていた。
用紙は統制され、新聞や雑誌はページ数を減らされ、一般印刷物も制限されていった。[注2]

そうした物資不足に見舞われながらも、茂吉は写真植字機のみに専心した。三女・裕子は、ある日茂吉に「なぜ家庭を犠牲にしてまで写植に打ち込むのですか」と質問した。茂吉はこう答えた。

〈自分は、この世に生まれたからには、国のためになるような仕事をなにか残して行きたい。写真植字機は生涯の仕事に十分値すると思うし、どんなに苦しくても悔いはない。これが私のやるべき仕事なのだ〉

〈国に対する使命感を担って生きてきた明治の人だ〉裕子はつくづく思った。[注3]
○減っていく所員

1942年 (昭和17) になると、企業整備令が出され、企業の統廃合が強制された。印刷機などの鉄材は、すべて兵器製造のための資材として供出させられた。ひとびとは統合会社に行くか、兵器工場に徴用された。機械メーカーは、兵器部品製造への転向を余儀なくされた。

幸い、茂吉の写真植字機研究所は軍の注文を受けていたので、統廃合はまぬがれた。
とはいえ、兵器を直接生産する軍需工場ではない。だから他の軍需工場が受けるような庇護はなく、所員は徴兵されたり、兵器工場へと徴用されたりしていった。残ったのは10名に満たない、わずか数名だった。

それでも写真植字機研究所はなんとか、出征している所員の留守家族に月給の半額を支給し続けた。1935年 (昭和10) ごろまでにつくった約8万円の借金も怠ることなく返済し続け、1943年 (昭和18) には完済した。[注4]

ある日曜日、茂吉は所員たちを自宅の居間に呼んだ。

〈 (前略) 昭和十七年ころ、太平洋戦争がはげしくなり、松林君や本山君もつぎつぎに兵隊にとられて行き、残ったわれわれ七、八人でがんばっていたころでした。ある日曜日に、どこからか今は忘れましたが、当時はなかなか手に入れにくいカルピス一本の到来物を、われわれにご馳走するからと言って先生の居間にみんなを呼んですわらせ、湯のみ茶わんを七、八個ならべて、先生が手ずから一つ一つ公平にカルピスを入れてくださった。そのときのカルピスを入れられる様子が慎重な上にも慎重に、まるで化学者が試験管を手にして調べているような態度でみんなに公平にくばられました。そのときの時間の長かったこと、足のしびれたみんなは、茶わんを受け取るやいなや、ひと息に呑みほし、「ご馳走さま」とお礼もそこそこ、早々に退散したことを覚えております〉
これは当時、写真植字機研究所の所員の一人だった佐藤行雄の手記だ。[注5]

戦時色がどんなに強まろうとも、あるがままの茂吉であった様子が思い浮かぶ。皆で飲むからにはきっちり同量に分けなくては気がすまなかったのも、じつに茂吉らしいエピソードである。

○機械の改良

こうした状況のなかでも、裕子いわく「写植機にとりつかれていた」茂吉は、研究の手を休めることがなかった。茂吉は、「いかにして横組みをしやすくするか」という課題に取り組んでいた。そうして1943年 (昭和18) 、試作機を完成したのだ。それは、従来は縦送りだけだった主レバーとの連動を、横送りでも可能にした写植機だった。縦横の切り換えは、主レバーの側方についているノブねじで行ない、横送りの方向切り換えは単一ピニオン (小さい歯車) にかみ合う2本のラックの選択切り換えで行なう。また、微小の送りでも可能になる送り装置もつけ、横組み印字を能率的にした (特許第164267号 1943年4月21日出願) 。文字枠の固定にはマグネット方式を採用した。[注6]

この機械は「石井式2604型」と命名された。1943年が皇紀2604年だったことにちなんだとおもわれる。戦時下の悪条件のもとで開発されたとはかんがえられないほど、性能の向上いちじるしい機械だったが、戦争のために結局、数台製作したのみで終わってしまった。[注7]

なお、「石井式2604型」は戦後1954年 (昭和29)、この機械をベースに大幅に改造・発展させた写植機「SK-2型」が完成した際、「SK-1型」と名前があらためられた。[注8]

○とめどなく湧くアイデア

茂吉には、ほかにもアイデアがあった。


たとえば、通信用の小型写真植字機だ。これは従来の通信用紙の代わりにフィルムや印画紙を使えば、機密保持が確保できるのではないかという考えから生まれたもので、軍用の小型で軽便な専用機として、陸軍登戸研究所からすでに試作命令がきていた。

ほかにも、写真植字機とテレビジョンを使って漢字の電文をそのまま電報として送る構想にもとづき、それに必要な特殊光源の写真植字機の開発もかんがえていた。これは、強力な光源で文字を印字し、それをピントグラスに映し出して、テレビジョンで次々に送信する。受信側は、受信した文字を回転するフィルム上に撮影し、現像すれば、漢字電報が得られるというものだ。誤電防止と能率向上が期待でき、のちに第三世代機といわれたCRT写真植字機に似た考え方だった。

さらには、欧文写真植字機の具体的な製造もかんがえていた。欧文のジャスティフィケーション、ハイフネーションの問題解決方法は、1926年 (大正15) にすでに特許をとってあった (第70036号) 。これまで製造の機会がなかったが、ぜひ実現したいとチャンスをねらっていた。

茂吉はほかにも、写真植字機の採用をうながすための方法として、ゴム平版材、セルロイド平版材の開発も進めていた。

しかし、ときは1944年 (昭和19) になっていた。敗色の濃い戦時下にあっては、どの作業もおもうように進めることができなかった。


そしてこの年の3月、茂吉は大きな決意をした。写真植字機研究所を移転することにしたのである。[注9]

(つづく)

※本連載は隔週更新となります。
 次は1月20日更新予定です。

[注1] 東京大空襲・戦災資料センター「東京大空襲とは」 https://tokyo-sensai.net/about/tokyoraids/ (2025年10月2日参照)

[注2] 「文字に生きる」編集委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.44、『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.162

[注3] 「心を打った男たち」石井裕子 (上) 『日本経済新聞』1977年 (昭和52) 10月11日

[注4] 「文字に生きる」編集委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.44、『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.161-163

[注5] 佐藤行雄「わたしの見た石井先生の横顔」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 pp.76-77

[注6] 「文字に生きる」編集委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.44、『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.161-162

[注7] 布施茂「意欲と慎重と」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 p.214

[注8] 「文字に生きる」編集委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 pp.44-45、『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.161-162

[注9] 「文字に生きる」編集委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 pp.46-47、『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.163-164

【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965
「文字に生きる」編集委員会 編『文字に生きる〈写研五〇念の歩み〉』写研、1975
「心を打った男たち」石井裕子 (上) 『日本経済新聞』1977年 (昭和52) 10月11日
東京大空襲・戦災資料センター「東京大空襲とは」 https://tokyo-sensai.net/about/tokyoraids/ (2025年10月2日参照)

【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ
※特記のない写真は筆者撮影
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