フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。
○王子堀船から大塚へ
1944年 (昭和19) 3月なかば、茂吉は写真植字機研究所を省線 (または省電。現在のJR) 大塚駅近くに移すことにした。王子の工場に隣接していた陸軍の火薬製造所が、拡張するという噂を耳にしたからだ。王子堀船の自宅と工場を売り払い、前年10月に廃業となっていた大塚駅近くのマーケット跡を土地建物つきで購入した。住宅部分はそのまま利用し、マーケット部分には若干手を入れて工場にした。
引っ越しには、荷馬車を使った。3台の荷馬車をもちいて1日1往復。茂吉が研究のために集めた蔵書だけでも、荷馬車3台分はあった。工場設備をはじめ、家財道具も一切合財運んだので、ぜんぶで20日間のおおがかりなものとなった。[注1]
移転してまもなく、二女の千恵子に縁談がもちあがった。相手は茂吉とおなじ旧制第一高等学校 (一高) ・東大卒の医学士・三好和夫だった。
このころ、いくの発案で、工場そばに壕を掘り、石井写真植字機と石井式2604型写真植字機を1台ずつ、解体して埋めた。さらに、工場の一部にも地下倉庫をつくり、機械図面や文字盤原版、レンズ用資料などを大切に保管した。もし工場が戦火にあっても、これさえあれば、なんとかしのいでゆけるだろうとかんがえたからだった。[注3]
○軍需機械でも手がければ……
1942年 (昭和17) 4月18日に初空襲があったあとは、東京区部への空襲はしばらくなかった。しかし2年半を経て1944年 (昭和19) 11月24日から、アメリカ軍による東京への本格的な空襲が相次ぐようになっていった。
1945年 (昭和20) 1月27日には、繁華街の銀座や有楽町が空襲され、約530人が亡くなった。B29爆撃機は市街地も襲撃していく。3月10日には下町大空襲があり、B29爆撃機は1,665トンにのぼる焼夷弾を投下した。強風の影響もあって火災は東や南に広がり、本所区、深川区、城東区全域、浅草区、神田区、日本橋区の大部分、下谷区東部、荒川区南部、向島区南部、江戸川区の荒川放水路より西など、下町の大部分を焼いた。罹災家屋は約27万戸、罹災者約100万人、死者は約9万5000人にものぼった。[注4]
写真植字機の注文は、ぱったり止まった。
茂吉は軍需生産で景気がよかった凸版印刷に頼みこみ、写真植字機3台の契約をもらい、総額の3分の1を前渡し金として融通してもらったりもした。
大塚の敷地は500坪あまり (約1,680平方メートル) あり、工場と住居をとっても余力があった。いくは経済状況を案じ、他の軍需生産をはじめることを茂吉にすすめた。[注5] 他にも「軍需機械でも手がければ、生活も楽になり、工員も召集されずに済むのに」と忠告してくれる人もいたが[注6]、茂吉は耳を貸さず、
「今日まで写植一筋にやってきた自分には、節をまげることはできない」
と答えるのみだった。[注7]
〈茂吉にとって、写真植字機だけが生きるすべてだったからである。それにとりつかれていたといってもいいだろう〉
三女・裕子は、のちにこう語った。[注8]
後年、家族でテレビを見ていたときに、戦時中に各戸から人が防空演習に駆り出される場面を見た茂吉が、「この辺ではあんなことはなかった」と言って皆をあきれさせたことがあった。
○焼夷弾の雨
軍からの写真植字機4台の徴用命令がきたのは、そんな折だった。印字部で使用していた写真植字機だ。仕事の注文が途絶えていたことで、目をつけられたのかもしれない。曰く、〈陸軍で三台、海軍で一台、直ちに入用だから売り渡すこと、不同意なら徴用としてとりあげる〉。選択の余地もなかった。
しかしこの様子では、どのみち早晩空襲に遭うかもしれない。燃えてしまうぐらいなら、いまのうちに売り渡したほうがよいのかもしれない。国のために役立つのであれば……。茂吉は、しかたなく軍への引き渡しを承知し、日程は1945年 (昭和20) 4月14日に決めた。[注10]
明日には写真植字機が徴用される。
茂吉たちのいる大塚一帯にも、焼夷弾が雨のように降った。移転したばかりの工場も、家も、地上に形のあったものはすべて焼き尽くされた。軍に引き渡す予定だった4台の写真植字機も、工場にあったタイトル専用機、各種の試作中の写真植字機も、すべてである。
茂吉は、工場の設備も家財も、いっさい疎開をしていなかった。残ったのは、地下壕に埋められたわずかばかりの日常必需品と、2台の写真植字機と、資料だけだった。
あたらしい土地に移転したばかりの写真植字機研究所は、あとかたもなく消えた。
瓦礫の廃墟となったわが家と工場の跡を、茂吉はぐるりと見渡した。その横顔にはしかし動揺もなく、それほど落胆した様子もなかった。いつものようにゆっくりとした口調で、彼はつぶやいた。
「あちこちの印刷工場が焼けてしまうと、活字の鉛がなくなって、写真植字機はますます必要になってくるのになあ」
家や工場を失った無念さよりも、茂吉はただ、写真植字機がつくれなくなってしまったことだけを残念がっていた。[注12]
(つづく)
※本連載は隔週更新となります。
次は2月3日更新予定です。
[注1] 文字に生きる」編集委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.47、『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.163
[注2] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.163
[注3] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.164、文字に生きる」編集委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.47
[注4] 東京大空襲・戦災資料センター「東京大空襲とは」 https://tokyo-sensai.net/about/tokyoraids/ (2025年10月3日参照)
[注5] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.165-166
[注6] 「心を打った男たち」石井裕子 (上) 『日本経済新聞』1977年 (昭和52) 10月11日
[注7] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.165-166
[注8] 「心を打った男たち」石井裕子 (上) 『日本経済新聞』1977年 (昭和52) 10月11日
[注9] 石井不二雄「父の夢と情熱をたたえて」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 p.237
[注10] 文字に生きる」編集委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.47、『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.166
[注11] 東京大空襲・戦災資料センター「東京大空襲とは」 https://tokyo-sensai.net/about/tokyoraids/ (2025年10月3日参照)
[注12] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.166-167、文字に生きる」編集委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.47
【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965
「文字に生きる」編集委員会 編『文字に生きる〈写研五〇念の歩み〉』写研、1975
東京大空襲・戦災資料センター「東京大空襲とは」 https://tokyo-sensai.net/about/tokyoraids/ (2025年10月2日参照)
【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ
※特記のない写真は筆者撮影











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