フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。
リリース開始の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)

○恩師の来訪

1945年 (昭和20) 4月の大空襲で全焼してしまった大塚の工場跡にバラック小屋を建て、野菜づくりにはげむ茂吉のもとに、東京帝国大学時代の恩師・加茂正雄が訪ねてきた。時期は明確ではないが、秋から冬にかけて、終戦数カ月後のことだろうか。

加茂はぐるりと写真植字機研究所跡の敷地を見まわし、茂吉の顔を見ると言った。
「写真植字機の製造を他にまかせないか?」

突然のことにとっさに言葉の出ない茂吉に、加茂は続けた。
「新潟県柏崎市にある理化学興業 [注1] の工場が空襲にあわず、無傷で残った。そこで社長の鶴見氏から、今後なにを手がけたらよいか相談を受けたのだ」

1932年 (昭和7) に建設された理化学興業株式会社 柏崎工場は1934年 (昭和9) に理研ピストンリング株式会社となり、その後、理研重工業株式会社と改称。戦争中、航空機用のピストンリングや各種工作機械、測定器、特殊鋼、工具などの生産をおこなっており、太平洋戦争の戦局拡大にともなって需要を大きく伸ばしていた。[注2]

しかし戦争の終結とともにGHQ (連合国軍最高司令官総司令部) の指令により日本軍は解体され、いっさいの軍需生産が停止された。それまで軍需生産をおこなっていた工場では再武装につながるような機械製造が禁止されたため、[注3] 残った工場設備を活用して今後なにを手がけたらよいとおもうか、加茂に相談したというわけだ。加茂は、理研の顧問をしていた。

加茂の脳裏に浮かんだのが、茂吉が開発した写真植字機だった。
印刷物の組版にもちいる写真植字機であれば、再武装につながる機械とはとらえられないだろう。鶴見に提案した加茂は、その報告と打診、そして茂吉の意向を聞くために大塚をおとずれたのだった。

「石井くん、君の写真植字機研究所はこうして焼けてしまって、どうにもならなくなったことだ。ここはひとつ、思い切って理研に製造のいっさいを任せ、君は技術出資者として招かれるなりするのはどうだろう」

茂吉は大学時代から写真植字機開発に着手したあとにも、折りにふれ加茂に相談し、助けてもらってきた。その信頼感もあり、即答はしなかったものの「条件次第では申し入れを受けてもよいとおもいます」と答えた。

○納得のいかぬ条件

ほどなくして、理研の鶴見社長が茂吉に会うためバラック小屋をたずねてきた。大塚に着いて焼け跡に建つみすぼらしい小屋を見た鶴見は、この状況ならば話をつけるのは容易だとおもったのだろうか。やがて理研が提示してきた条件は、写真植字機製造権の譲渡額の低い設定、茂吉には一俸給生活者の地位しか与えないなど、あまりにも茂吉を軽んじた内容だった。

「これではあまりにも条件が悪すぎる」
そうおもった茂吉は、理研に再考をうながした。しかしつぎに提示された条件も、前回の内容をほんのすこし改善した程度で、とてもではないが納得のいくものではなかった。

ふたたび使者としてやって来たのは加茂だった。
「石井くん、このくらいのところで理研と手を握ってはくれないだろうか」
いかに相手が恩師の加茂とはいえ、承服できるような内容ではない。
茂吉は言いにくそうに答えた。

「加茂先生。先生が写真植字機をご推薦くださったことは、まことにありがとうございます。しかし、この条件では……。これまで写真植字機の開発にかけてきた20数年の私の辛苦をおもうと、この内容では承服できかねます。どうかお願いです。重ねてのご考慮を、と先方にお伝えいただけないでしょうか」

それでも茂吉は、自分からは具体的な条件を提示しなかった。彼はまだ信じていた。先方に誠意があるならば、納得のいく条件が自然に出てくるだろうと。

2、3日後、茂吉の妻・いくは、仲介に立ってくれている恩師の労を謝するために、加茂宅をたずねた。すると加茂は、困惑した顔でこう言った。

「今回のことは、石井くんにとっても理研にとってもよいと信じて斡旋したのだ。
いま、戦後の困窮にあえぐこの日本のことをかんがえたら、条件などは二の次ではないだろうか。それよりも、一日も早く話をまとめ、写真植字機の製造にとりかかるべきだろう。いくさんは、そうおもいませんか」

加茂に賛同を求められたいくは、帰宅すると茂吉に「先生もこうおっしゃっているのですから、今回の条件で手を打ってはいかがですか」とすすめた。しかし茂吉は首を縦にはふらなかった。

「ねえ、おまえ。これはぼくにとって、一生の重大な岐路なのだ。加茂先生の好意を無下にするつもりはないが、こういう大事なことはじっくりとかんがえて決めなくては、後で悔やむことになりかねない」
茂吉はそう言って、熟考する方針を変えようとはしなかった。
○別からも伸びる手

すると今度は、大日本印刷で長く写植を担当している高相悌一が、「社長が茂吉に会いたいと言っている」と伝言を持ってきた。

当時の大日本印刷の社長は佐久間長吉郎。1931年 (昭和6) に秀英舎 (大日本印刷の前身) に入社した人物だ。同社は1929年 (昭和4) 9月18日に邦文写真植字機を導入していたが、佐久間の入社当時はまだ一般の組版には使用されていなかった。しかし茂吉は一日も早く写植機を普及させたい思いから、現場をたびたび訪問していた。


そんな茂吉と会話を重ねるうち、佐久間は茂吉が一高 (旧制 第一高等学校) の先輩であると知り、親しみと尊敬の念を抱くようになる。さらに佐久間は、戦時中、満州の興亜印刷、北支の新民印書館の役員をつとめた。いずれも写植機を導入していた会社である。そんなことから、茂吉とは旧知の間柄だった。[注4]

茂吉は、大日本印刷に佐久間をたずねた。通された社長室でソファーに腰をおろした茂吉に、佐久間は後輩の礼を失わず、ていねいな口調で言った。

「じつは理研の鶴見社長と加茂先生から頼まれてのお話なのです。理研が示した条件には多少ご不満もおありとおもいますが、日本が敗戦した今日です。そこをご考慮いただいたうえで、早急に理研と手を握られたほうがよいのではないでしょうか。いかがでしょう、石井さんのご意向をもう一度うかがえませんか」

しかし茂吉は、ここでも即答を避けた。

理研とこうした話を重ねているあいだに、他の会社からもおなじような話が茂吉のもとに持ちこまれてきた。ひとつは、蒲田の桂製作所だった。
理研と同様、戦時中は軍需生産に専念していた桂製作所は、敗戦後、休業状態に陥っていた。これを脱すべく、写植機の製造をやらせてもらいたいと石井家の本家筋にあたる石井与五郎を通じて言ってきたのだ。石井与五郎は、桂製作所の大株主だった。このため茂吉も無視することはできず、先方の社長に面会がてら、工場設備などを見に行った。ひととおりの設備がそろった、まずまずの町工場だった。

もうひとつは五反田にある工場からの申し出だったが、ここはとくに関係があるわけでもなかったので、詳細は調べなかった。
○彼の意見を聞こう

焼け野原と化した大塚で、工場もなにもかもを失った茂吉には、自力での写植機製造再開の目処はまったく立たなかった。2年先か3年先か。もしかしたら5年先になるかもしれない。茂吉は悩みに悩んだ。

理研の提示してきた条件は、写真植字機製造権20万円、茂吉の年俸は2万円だ。条件は悪い。
正直、不満だ。しかし次第に、それもやむを得ないのかもしれないとおもえた。茂吉の心は、申し入れを受けることに傾いた。

それであればと茂吉は、理研に対し、息子の圭吉を年俸1万円の社員として採用し、残り1万円を顧問となる茂吉に与えてほしいと頼んだ。ところが理研は、茂吉が提示したその最低限の条件をのもうとしなかった。圭吉の社員採用を渋ったのだ。年俸1万円は、決して無理な注文ではないはずだった。しかし理研は、その茂吉の要求すらのまなかった。

自分はなんのために食うや食わずで20数年間、写真植字機の開発に力を尽くしてきたのか。自分にとって、写植機は「掌中の珠」である。それを単に「将来有望だから」とかんがえるだけで製造を手掛けようとし、茂吉に対して誠意ある対応をしない理研に、この大事な機械の行く末をゆだねる気には、とてもなれなかった。

理研の意には従いたくない。しかし義理堅い茂吉には、代案もないのに加茂教授や佐久間にそれを伝えるのはためらわれた。

製造再開のための資金のあてはつかない。まとまった金といえば唯一、焼失直前に工場にかけた65万円の火災保険が、戦災を理由に5万円に打ち切られて支給されたぐらいだ。

茂吉は再開の目処がつかないまま、その金で古材木を買い集めてバラックを建てた。強制疎開で取り壊しになった家屋の木材であるため、満足な材料は少なかったが、1945年 (昭和20) の末には間口3間半 (11.5m) 、奥行き5間 (16.5m) 、建坪16坪 (約62平方メートル) の家を近所に先がけて建てた。さらに、敷地の一部を大和ポンプに貸した。

年が明け、1946年 (昭和21) になっても、茂吉の決断はつかなかった。理研からは矢の催促だ。季節は春になっていた。もうこれ以上、返事を遅らせることもできそうにない。

追い詰められた茂吉の頭に浮かんだのは、森澤信夫の顔だった。

べつに、決断にあたり信夫に義理立てをする必要はない。しかし信夫とは、写真植字機開発のために一度はおなじ釜の飯を食った仲だ。理研の申し出に対する茂吉の苦悩も彼なら理解してくれるだろうし、自分自身、信夫の話を聞けば、ふんぎりがつくにちがいないとおもったのだ。

4月。茂吉は信夫に電報を打った。[注5] [注6]

(つづく)

※本連載は隔週更新となります。
 次は3月3日更新予定です。

[注1] 財団法人理化学研究所=理研の関連会社。理研の発明を理研自身が製品化する事業体として設立された。現在の株式会社リケンの前身。
理化学研究所「沿革」 https://www.riken.jp/about/history/index.html (参照 2025年12月26日)

[注2] 株式会社リケン「沿革」 https://www.riken.co.jp/company/history.html 、「株式会社リケンの歩み」 https://www.riken.co.jp/know/history.html 、理化学研究所「沿革」 https://www.riken.jp/about/history/index.html (いずれも参照 2025年12月26日)

[注3] 株式会社リケンの沿革によると、1945年 (昭和20)、終戦にともない各工場が生産中止となるも、〈平和産業確立のため駐留軍司令官より自動車用ピストンリング、農機具、土建用機械等の生産許可を得る〉となっている。株式会社リケン「沿革」 https://www.riken.co.jp/company/history.html (参照 2025年12月27日)

[注4] 佐久間長吉郎「努力と幸運の人、石井さん」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 pp.64-67

[注5] ここでは、石井茂吉が森澤信夫に電報を打った時期を「4月」としている。電報を打った時期について、おもな参考文献それぞれの記述を見ると、以下のようになっている。

(1)〈昭和二十一年 (一九四六年) の年が明け、三月をすぎても茂吉は決断がつかなかった〉〈茂吉は大阪へ (筆者注:森澤信夫に) 状況をうながす電報を打った〉『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.174、175
(2)〈石井は決断がつかず、理研からは矢のような催促である。思案にあまって、写真植字機の共同発明者森沢氏の意見を尋ねてみた〉『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.49
(3)〈あくる二十一年の春、明石にいた森沢は、東京の石井から電報を受取った。至急上京してくれという文面である〉『写真植字機五十年』モリサワ、1974 p.142
(4)〈昭和二十一年春、突然石井氏より上京してくれという電報が来た〉『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960 p.27

(2) には具体的な時期の記述がない。(1) (3) (4) は1946年 (昭和21) であることは明記。そして(3)(4)では、より詳細な時期については「春」の記述のみ。(1) で注目したいのは〈三月をすぎても〉の文言で、これによって「春」であり、かつ「3月を過ぎた=4月以降」と推測することができる。さらにこのあと5月21日に石井茂吉と森澤信夫は写真植字機の製造販売について契約を結ぶ (『石井茂吉と写真植字機』p.176)。

これらすべてをふまえ、本稿では石井茂吉が森澤信夫に電報を打った時期を「1946年 (昭和21) 4月」とした。

[注6] この回は全般的に、『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp170-175、「文字に生きる」編集委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 pp.48-49 を資料として執筆した。

【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ
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