【続続・あの有名人の意外な学歴】#9


 田原俊彦


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「ディナーショーといえば、まず名前が挙がるのが田原俊彦さん。64歳となった今も人気はまったく衰えていない」と感服するのは有名ホテルの関係者。

チケットを売り出すと、すぐに完売してしまうという。旧ジャニーズの歴史にくわしい芸能記者も「独立して一時、干されていた時期もあったが、辞めジャニではもっとも成功した一人」と話す。


 神奈川県横須賀市で生まれた田原に不幸が襲ったのは小学校に上がったばかりの時。小学校の教師だった父が亡くなってしまうのだ。家族は母の生まれ故郷の山梨県甲府市に移り住むことになり、同市の公立小学校に転校した。高学年になると「学校のボス」と見なされ、公立中学では不良グループに入ったと、自著「職業=田原俊彦」(KKロングセラーズ)で明かしている。この本に関し、大手出版社の編集者は「中身のないタレント本がほとんどの中にあって、触れられたくない事実や心情を正直に吐露した秀作」と評価する。


 中2になると、新聞配達を始めた。6畳2間しかない小さな家に母、姉2人、田原、妹が暮らしていたが、家族を助けるためにアルバイトに励んだわけではなかった。オシャレに興味を持ちだし、稼いだ月1万2000円のカネはブランド服の購入に消えた。それを知りながら、母は田原のためにぎりぎりの家計から塾に行く費用を出してくれた。3人の姉妹は誰も塾に通わせてもらったことはない。

高校は県立甲府工業の土木科に入った。母のためにも卒業するのは至上命令だった。


 その一方で田原には別の考えがあった。母を安心させるために高校は行くにしても、測量士や建築関係の仕事に就くつもりはなかった。中学から思い描いていたビジョンがあったのだ。貧乏から抜け出すには芸能界に入るしかないと--。


 高校入学の直後、ジャニーズ事務所に履歴書を送った。だが、いつまで待っても返事は来ない。業を煮やした田原は夏休みに事務所を訪ねてみることにした。ジャニー喜多川氏に直談判することにしたのだ。「行けばなんとかなると思っていた」と著書で振り返っている。


 東京は小学校の修学旅行以来である。

事務所に押しかけると、秘書が「ジャニーさんは有楽町の日劇にいる」と教えてくれ、さっそく会いに行った。


 この無邪気で無鉄砲な行動が功を奏した。ジャニー氏はいろいろ質問したあと、「毎週日曜日だけでもいいからレッスンに来なさい」と言った。研修生として採用されたのである。田原に光るものを感じたに違いなかった。レッスンを終えると、ジャニー氏は毎回、中央本線で甲府に帰る田原を新宿駅のホームまで見送ってくれた。


 だが、デビューまでの道のりは長かった。高校を卒業しても、まだ中ぶらりんのままだった。卒業から3カ月後、ようやく「3年B組金八先生」のオーディションに合格。放送が始まってまもなく、中3を演じる田原は19歳の誕生日を迎えた。


(田中幾太郎/ジャーナリスト)


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